酔雲庵

陰の流れ第四部・早雲登場

井野酔雲







文明九年、春2







 出口御坊は正面に本堂、左側に御影堂(ごえいどう)があった。右側は簡単な塀に仕切られ、塀の向こうに(うまや)と僧坊があり、その奥の方に書院、そして、蓮如の家族たちの住まいである庫裏(くり)があった。

 観智坊は書院の一室に案内されて、しばらく待たされた。書院の入り口の近くの部屋に蓮如の執事、下間頼善がいたが、観智坊が誰だか気づかなかった。

 やがて、蓮如が慶覚坊と一緒に現れた。

 懐かしかった。

 蓮如は別れた時と変わってはいなかった。相変わらず日に焼けた顔で、きびきびとした身ごなしで質素ななりをしていた。

 観智坊は頭を深く下げて蓮如を迎えた。

「風眼坊殿のお知り合いだとか」と蓮如は聞いた。

「はい。風眼坊殿の弟子の観智坊と申します」と観智坊は頭を下げたまま答えた。

「なに、風眼坊殿のお弟子さんか」

「はい」と観智坊は顔を上げた。

 不思議な事に蓮如は目をつむっていた。

「風眼坊殿は達者かな」

「はい。今、駿河の方で、何やら騒ぎが起こって、その騒ぎを治めたそうです」

「そうか。駿河の方で活躍しておるか‥‥‥そいつは良かった」

「はい。風眼坊殿より上人様のお噂は伺っております」

「そうか‥‥‥風眼坊殿には色々と世話になったからのう。お雪殿はどうしておるじゃろう」

「それはもう、風眼坊殿とは仲睦(なかむつ)まじくやっておられます」

「そうじゃろうのう」と蓮如は嬉しそうに頷いてから、「もしや、そなた、蓮崇ではないのか」と聞いた。

「えっ?」と観智坊は驚いた。

 蓮如は目を開けて、改めて観智坊を見た。

「慶覚坊が、しばらくでいいから目をつむって声だけを聞いてくれ、と言いおった。何の真似だか知らんが、どうしても、そうしてくれと言うのでやってみたんじゃ。目をつむって、そなたの声を聞いておると自然と蓮崇の顔が浮かんで来たんじゃ」

「上人様‥‥‥」

「本当に蓮崇なのか」蓮如は観智坊の顔をじっと見つめた。

「はい。蓮崇です。しかし、生まれ変わりました」

「生まれ変わったか‥‥‥確かに、生まれ変わったのう。見事に生まれ変わったもんじゃ」

「はい。蓮崇は吉崎で死にました。そして、今、観智坊として生まれ変わりました」

「観智坊か‥‥‥」と蓮如は頷いた。「それでは観智坊に聞くが、これから、どうするつもりじゃ」

「加賀に行きます。加賀の門徒たちを放っては置けません」

「加賀に行って、戦をするつもりなのか」

「いえ。今の状況から、しないとは言い切れませんが、出来るだけ回避するつもりでおります。ただ、一方的に攻められている門徒たちを見捨てられません。わたしは、この先、表には出ません。本願寺の裏の組織を作るつもりでおります」

「裏の組織?」

「はい。今の組織は縦の関係は、はっきりとできております。しかし、横のつながりがありません。わたしは各道場をすべて、つなげようと思っております。離れている河北郡の道場と江沼郡の道場がお互いに情報の交換ができるようにしたいのです。今、門徒たちは、バラバラです。このままでは、せっかく、門徒となって生きがいを感じていた者たちまで、本願寺から離れて行ってしまいます。守護が何をしようとしているかを探り、その情報をすぐに門徒たちに知らせる事ができれば、門徒たちもひどい目に会わなくても済みます」

「横のつながりか‥‥‥」

「はい」

「わしも加賀の事は気になっておる。しかし、わしにはどうする事もできんのじゃ。加賀に行く事すらできん。わしは加賀の国中を歩いた。一人でも多くの人に教えを広め、落ち着いた静かな心で念仏を唱えて欲しかった。勿論、わしの力だけではないが門徒たちは増えた。加賀の門徒たちは、わしから見たら皆、子供のようなものじゃ。しかし、子供たちは、だんだんと、わしから離れて行った。わしは子供たちを見捨ててしまったんじゃ。確かに、あの時、吉崎は危険な状態にあった。あの時、そなたを破門にしても、わしが残っておったら戦になってしまうかもしれなかった。わしは、そなたの破門を無駄にしたくはなかった。わしは吉崎を離れた。しかし、他に方法はなかったのか、と時々、思う事があるんじゃ。何と言おうとも、加賀の門徒たちを見捨ててしまった事は事実じゃ‥‥‥わしは時々、苦しんでおる門徒たちの夢を見る事があるんじゃよ。何とかせにゃならん、しかし、わしにはどうする事もできん‥‥‥情けないんじゃよ。本願寺の法主(ほっす)でありながら、門徒たちを助ける事もできんのじゃ」

「上人様‥‥‥」

「観智坊とやら、わしの代わりに加賀の事を頼める者は、そなたしかおらん。加賀の門徒たちの事を頼むぞ」

「ははっ」観智坊は頭を深く下げた。

 感激していた。蓮如がそれ程までに自分の事を認めてくれていたとは‥‥‥

 蓮如に会って良かったと思うと、急に涙が流れて来た。

「ただのう、加賀での蓮崇の評判はすこぶる悪いようじゃ。本願寺を戦に追いやろうとしておった悪僧という事になっておるんじゃ。蓮崇の名は出さん方がいいじゃろう」

「分かっております。もう、蓮崇は死にました」

「うむ‥‥‥しかし、よく、戻って来てくれた」

 観智坊は袖で涙を拭くと、「風眼坊殿のお陰です」と言った。「本願寺を破門になったわたしは死ぬつもりでおりました。どこか、山奥でも行って死のうと思っておりました。しかし、風眼坊殿から、わたしにはまだ、やるべき事があるはずだと言われました。そんな事を言われても、わたしには分かりませんでした。わたしは風眼坊殿から言われた事をずっと考え続けました。そして、ようやく、風眼坊殿が言おうとしていた事の意味が分かったのです。今まで、表舞台に立っていた蓮崇は破門になった。破門になったからこそ、裏の舞台で自由に活躍ができるという事が分かったのです。わたしは二度と表には出ないで、本願寺を裏から支えようと思いました。この事は、表の事情を詳しく知っていて、しかも、破門になった自分にしかできない仕事だと思いました。わたしは風眼坊殿の弟子となって飯道山で修行を積みました」

「そうか‥‥‥さぞ、辛かったじゃろうのう」

「辛いなんて、今、思えば、若い者たちに囲まれて楽しかったと言えます。いい経験をしたと思っております」

 蓮如は観智坊を見ながら、目を細めて頷いた。

「今晩は酒盛りか」と蓮如は慶覚坊に聞いた。

「はい」と慶覚坊は蓮如に頷き、観智坊を見た。

「待っていてくれ。わしも後で行く」

「はい」と慶覚坊は笑った。

 蓮如は、「頼むぞ」と観智坊に言うと部屋から出て行った。

 慶覚坊と観智坊も書院を出て、御坊を後にした。

 外は、もう暗くなっていた。

 慶覚坊は観智坊を先に多屋に返すと、慶聞坊を呼んで来ると言ってどこかに消えた。

 観智坊が多屋に戻ると、客間には、すでに酒の用意がしてあった。弥兵が部屋の隅に畏まり、慶覚坊の娘のおあみが料理を並べていた。しばらく見ないうちに、随分と綺麗な娘になっていた。もう、嫁に行ってもいい年頃だろう。

 おあみは蓮崇を知っているはずだったが、まったく気づかなかった。観智坊は本泉寺に置いて来た息子と娘の事を思い出した。あの二人も自分を見て、父親だと気づかないのだろうかと思った。何となく、複雑な気分だった。

 慶覚坊は慶聞坊を連れて帰って来た。慶聞坊にも観智坊が誰だか分からなかった。慶聞坊の後ろから、慶覚坊の長男、十郎左衛門が顔を出した。十郎は観智坊を見ると驚いて、「蓮崇殿」と言った。

「なに、蓮崇殿?」と慶聞坊は言ったが、信じられないようだった。

「観智坊です。お久し振りです」と観智坊は頭を下げた。

「蓮崇殿、いえ、観智坊殿、一年間の修行は無事に終わったのですね」と十郎は言った。

「はい。ようやく」

「十郎、お前の一年間と、観智坊殿の一年間は全然、違うぞ」と慶覚坊は言った。「観智坊殿は一年間で、普通の者の三倍以上の修行を積んでおる」

「三倍以上?」

「ああ。お前も後で立ち合ってみるがいい。とても、お前の腕ではかなうまい」

「まさか?」と十郎は観智坊を見た。父親の言った事を信じる事はできなかった。

「観智坊殿。酒を飲む前に、こいつの相手をしてくれんか。こいつは飯道山から帰って来て、少々、天狗になっておる。親のわしが言っても聞かんのじゃ。こいつのためにも天狗の鼻を折ってくれんか」

「わしも是非、蓮崇殿の修行振りが見たいわ。お願いします」と慶聞坊も言った。

「わたしにそんな事ができるかどうか分かりませんが、お二人がそうおっしゃるのなら」と観智坊は十郎と共に庭に出た。

 十郎は木剣、観智坊は棒を構えた。その構えを見ただけで、慶聞坊にも観智坊の強さが分かったが、十郎には分からなかった。十郎は昔の蓮崇を知っている。武術の心得のまったくなかった蓮崇が、一年間、修行したからといっても高が知れていると思っていた。

 十郎は観智坊に掛かって行った。

 観智坊は最小限の動きでそれをかわした。そんなはずはないと、十郎はまた掛かって行った。観智坊は軽くかわした。十郎が何度、打っても観智坊には当たらない。十郎の木剣をかわしながら観智坊は塀際まで来た。もう逃げられないと十郎は思い切って一撃した。観智坊はフワリと宙を飛び、十郎を飛び越えて、棒を突き出した。棒は十郎の喉元(のどもと)すれすれの所で止まっていた。

「それまで!」と慶覚坊が声を掛けた。

 観智坊は棒を引いて合掌をした。

 十郎は汗びっしょりになって肩で息をしていたが、観智坊の方は呼吸さえ乱れていなかった。

「見事じゃのう」と慶覚坊の後ろで声がした。蓮如だった。「顔付きを見た時、できるとは思ったが、これ程までにできるとはのう。しかし、不思議な術を使うのう」

陰流(かげりゅう)と言います」と観智坊は説明した。

「陰流?」と慶覚坊が聞いた。

「はい。風眼坊殿のお弟子さんで、わたしには兄弟子に当たる太郎坊というお方が編み出した流派です」

「飯道山では、そんな流派を教えておるのか」

「いえ。飯道山で習った棒術は陰流とはまったく逆と言ってもいいでしょう。飯道山の棒術が攻撃的な技だとすれば、陰流は受け身の技です。自分からは決して仕掛けません。相手の動きに合わせて、一瞬のうちに勝つ技です。太郎坊殿は、陰流の極意は戦わずして勝つ事だと言っておりました。陰流は決して人を殺すための武術ではない。敵を生かし、自分も生かすための武術だと言っておりました」

「陰流か‥‥‥凄い事を考えるものじゃのう」と蓮如が言った。

「はい。わたしも感心いたしました。わたしは強くなりたいと飯道山で修行を積んで参りました。しかし、太郎坊殿と出会って、本物の武術とは、こうでなければならないと知りました。まだ、若いながら大したお人です」

「うむ。戦わずして勝つか‥‥‥なかなか、そんな事は言えんのう」と慶覚坊が言った。「その太郎坊殿とやら、余程、強いと見えるのう」

「はい。わたしには想像もつかない程の強さです」

「うむ。風眼坊の奴め、大した弟子を持ったものじゃのう」

「蓮崇殿、参りました」と十郎が観智坊の足元にひざまずいていた。「蓮崇殿、わたしにも、その陰流をお教え下さい」

「おお、そうじゃ。観智坊殿、こいつを加賀に連れて行ってくれんか」と慶覚坊は言った。「何かの役に立つじゃろう」

「そんな‥‥‥十郎殿は慶覚坊殿の御長男でしょう」

「蓮崇殿、お願い致します。何でもします。連れて行って下さい」と十郎は頭を下げた。

「観智坊殿、頼む。十郎もやがては本願寺を背負って立たなくてはならん。今のうちに、色々な事を経験させておきたいんじゃ」

「しかし、十郎殿はここで何か仕事があるのでは?」

「上人様、お願いします。十郎に、もう少し修行させてやって下さい」と慶覚坊は蓮如に頼んだ。

「うむ」と蓮如は頷いた。「いいじゃろう。観智坊殿、十郎の事、わしからも頼むわ。そなたの言った、戦わずして勝つと言う事を加賀で実践してくれ」

「はい。(かしこ)まりました」

 ようやく、酒盛りが始まった。

「早かったですね」と慶覚坊が蓮如に聞いた。

「うむ。わしも観智坊殿から色々と話が聞きたくてのう。向こうにおっても落ち着かんので飛んで来たわ。お陰で、いい話を聞いた。陰流か。太郎坊殿とやら、なかなか、いい事を言いよる。戦わずして勝つ。敵を生かして、自分も生かすか。うむ。いい言葉じゃ。人殺しの技術を極め尽くした者が言うと重みのある言葉じゃ」

「その陰流じゃが、どこで習ったんじゃ」と慶覚坊が聞いた。

「播磨です。太郎坊殿は今、播磨におります。わたしは一年間の修行が終わった去年の末、真っすぐに、ここに来るつもりでした。しかし、最後の一ケ月、太郎坊殿から志能便(しのび)の術を習い、わたしはもっと深く志能便の術を習いたくなって、太郎坊殿に付いて行ったのです。そして、播磨の国で志能便の術と共に陰流も習ったと言うわけです」

「太郎坊殿は播磨にいるのですか」と十郎が身を乗り出して聞いた。

「播磨で何をしておるんじゃ」と慶覚坊も聞いた。

「飯道山では禁句となっておるのですが、ここなら構わないでしょう。実は、太郎坊殿は赤松家の武将なのです。しかも、ただの武将ではありません。太郎坊殿の奥方様は、赤松家のお屋形様の姉上様なのです」

「ほう。そんな偉いお方が飯道山で『志能便の術』を教えておるというのか」

「はい。わたしも実際、びっくり致しました。凄いお屋敷に住む殿様でありながら、偉ぶった所など少しもなく、職人のなりをしては御城下をぶらつき、気軽に町の者たちと世間話をするようなお方なのです。奥方様もまた、気さくなお方で、お屋敷内も明るく、堅苦しいという雰囲気はまったくありませんでした」

「ふーむ。若いと言っておったようじゃが、その太郎坊殿というお方は幾つなんじゃ」と蓮如が聞いた。

「今年、二十六になったと言っておりました」

「二十六か‥‥‥確かに若いのう。若いが人間はできておるようじゃのう」

「会ってみたい男じゃな」と慶覚坊は言った。

「太郎坊殿が、そんなお人だったとは知りませんでした」と十郎は言った。

「飯道山では、絶対に内緒じゃよ」と観智坊は笑った。

「はい。すると、一昨年、太郎坊殿と一緒に来られた風光坊殿は何者なのです」

「風光坊殿は太郎坊殿のお弟子さんで、太郎坊殿の側近にお仕えする武将じゃ。そして、風眼坊殿の御長男です」

「そうだったのですか‥‥‥」

「太郎坊殿の事はそれ位にして、観智坊殿がどんな修行を積んで、あれ程の腕になったのか聞きたいですね」と慶聞坊が興味深そうに聞いた。

 それから、観智坊の話題となった。

 蓮如も楽しそうに聞いていた。本願寺のために犠牲となった蓮崇が戻って来てくれたのが、やはり嬉しいのだった。蓮如はその晩、始終、笑みを浮かべて遅くまで観智坊の話を聞いていた。







 観智坊は改めて、本願寺の門徒となった。飯道山に所属する山伏のまま、本願寺の門徒となった。

 蓮如は観智坊を信頼していた。観智坊なら、自分の代わりに加賀の門徒たちを助けてくれるだろうと思った。観智坊の言う通り、組織が大きくなると表だけの組織だけではやって行けない事は分かっていた。裏方に徹して、組織を守って行く者が必要となる。今まで、蓮如自身が上人という表の顔と、信証坊(しんしょうぼう)という裏の顔の二つを持って布教活動をして来た。門徒たちが今のように増えたのは、表の上人としての顔より裏の信証坊という顔の方が活躍していたと言える。上人としての蓮如は有名になり過ぎ、自由に動き回る事はできなくなった。そこで、信証坊という、ただの本願寺の坊主として各地を歩き回る事となった。

 今、加賀において、本願寺の有力な門徒たちは蓮如と同じような立場に立っていると言えた。有力門徒たちは守護側に常に見張られている状態にあった。自由に活動できる状況にはなかった。加賀の門徒たちを一つにまとめるには、観智坊のような者が必要だった。観智坊は充分に蓮如の気持ちも分かり、また、一般門徒たちの気持ちも分かった。そして、本願寺の組織にも詳しく、有力門徒たちの顔も知っている。しかも、陰流という素晴らしい武術を身に付けている。陰流はただ強いというだけの武術ではなかった。むやみに人を殺したりはせず、敵を生かし、自分も生かすという争い事を避ける武術だった。

 蓮如はその事を観智坊から聞いた時、ただの武術家が、それ程の事を考えて武術をやっていたのかと驚いた。蓮如も棒術を身に付けていたが、それは、単に自分の身を守るために過ぎなかった。人を殺すための術でも、名人ともなると、そういう高い境地に行く事ができるのかと不思議な気持ちだった。それは、宗教にも言える事だと思った。間違った教えを広めれば、門徒たちを殺す事となる。正しい教えを広め、しかも、他の宗派と争いを起こさない事が理想と言えた。蓮如は常にその理想に近づこうと布教を続けて来た。蓮如は観智坊に陰流を教えた太郎坊は知らない。知らないが、陰流という武術は戦のための武術ではなく、平和の世を作るための武術だと思った。その武術を身に付けた観智坊なら、加賀の事を任せてもいいと判断したのだった。

 蓮如は観智坊を正式に本願寺の坊主とした。たとえ、表に出なくても、門徒の中に入って行くには門徒でなければうまくは行かない。蓮崇の名を使うわけには行かないので、そのまま、観智坊露香という名で門徒となった。蓮如は『六字名号(みょうごう)』と『親鸞影像(しんらんえいぞう)』の裏に、日付と近江国住人、観智坊露香と書いて観智坊に与えた。

「無理はするなよ」と蓮如は言った。

「はい。焦らず、気長にやるつもりです」と観智坊は言った。

 蓮如は頷いた。「時々、向こうの様子を知らせてくれ」

「はい。上人様」

 観智坊は六字名号と親鸞影像を持ち、弥兵を連れて出口御坊を後にした。蓮如と一緒に執事の下間頼善が見送ってくれたが、頼善は最後まで、観智坊が蓮崇だという事に気づかなかった。

 観智坊は慶覚坊の多屋に寄って、慶覚坊の家族たちに世話になったお礼を言うと、十郎左衛門を連れて加賀へと旅立って行った。前途は多難だったが、改めて門徒になった事と、湯涌谷の石黒孫左衛門と越中に避難したままの木目谷の頭、高橋新左衛門宛の書状を持っている事で、いくらかはやり易いだろうと思った。

 観智坊の去った後、出口御坊の境内では若い僧たちが掃除に励んでいた。その中に、懐かしい顔があった。

 曇天(どんてん)であった。

 太郎と共に五ケ所浦を飛び出し、堺に行くと言って別れたのは、もう九年も前の事だった。曇天は去年、堺にて蓮如と出会い、今の乱れた世を救うのは禅宗ではなく、蓮如の教えだと信じ、本願寺の坊主になるため、去年の夏から、ここに来て修行に励んでいた。

 太郎と別れてから九年の間、曇天の身にも様々な事が起こっていた。太郎と同じく、京都で地獄を経験した曇天は、師匠の快晴和尚を捜すために堺に向かった。

 堺も戦の被害を(こうむ)っていた。応仁の乱が始まった当初、東軍と西軍の争奪の的となり、兵が攻め寄せ、堺の住民たちは皆、住吉の方に逃げていた。しかし、曇天が行った時は、東軍の支配下となり、住民たちは皆、戻って来ていて、湊は細川氏の領地である淡路の国(淡路島)、阿波(あわ)の国(徳島県)、讃岐(さぬき)の国(香川県)から運ばれて来る物資で賑わっていた。あちこちに破壊された家々や焼けた寺院などは残っていたが、町は活気に溢れていた。

 悲惨な焼け跡の京都で地獄を経験した曇天から見れば、堺の町は極楽のように思えた。快晴和尚は見つからなかったが、曇天は堺で思う存分に遊んだ。京で遊ぶために、和尚から預かっていた銭を五ケ所浦から持って来ていたのだった。立派な旅籠屋に泊まって、うまい物を食べ、酒を飲み、遊女を抱き、破戒(はかい)の限りを尽くして遊んだ。夢のような気分だったが、そんな事は長くは続かなかった。とうとう無一文になり、海辺で暮らす身となった。

 湊の近くの海辺には、京から逃げて来た町人たちが大勢、掘立て小屋を立てて暮らしていた。曇天は彼らと共に暮らし始めた。しかし、彼らは曇天のように無一文ではなかった。ここに逃げて来てはいても、やがては京に戻ろうとしているため、持って来た財産を節約しているだけだった。彼らは食べる物を買う事ができたが、曇天には銭がなかった。

 曇天は仕方なく托鉢(たくはつ)をして回ったが、世間はそれ程、甘くはなかった。お経もろくに読めないような小僧に(ほどこ)しをくれる者はいなかった。京から逃げて来た者たちも冷たかった。自分たちの事が精一杯で、人に物をやる余裕などないと言う。曇天は毎日、腹を減らしながらも何とか生きて行った。来ている墨染衣はぼろぼろになり、どう見ても乞食坊主だった。曇天はとうとう海辺からも追い出された。

 海辺から追い出された曇天は堺の町から出て南へと向かった。別に当てがあるわけではなかった。ただ、冬が近づいて来ているので、暖かい南の地に行こうとしただけだった。無意識のうちに五ケ所浦に帰りたいと思ったのかもしれない。

 堺の町を出た曇天は石津川にぶつかった。石津川は歩いては渡れそうもなかった。渡し舟はあっても、銭がないので乗る事はできない。曇天は石津川に沿って上流に向かった。

 腹が減って死にそうだった。とりあえず、水でも飲んで腹を膨らませようと、川の水を思いっきり飲み込んだ。水を飲んだら眠くなり、曇天はそのまま眠ってしまった。

 気が付いてみると曇天は掘立て小屋の中で寝ていた。誰かが自分を助けてくれて、海辺の小屋まで連れて来てくれたのかと思ったが、どうも様子が違った。起き上がって小屋から出て回りを見ると、海辺ではなく河原だった。河原に幾つもの小屋が立ち、女たちが飯の支度をしていて、男たちは(まき)割りや(すげ)(あし)を使って何かを作っていた。

 彼らは河原者だった。

 曇天は河原者に助けられたのだった。普通、河原者たちは、たとえ、河原に倒れていたとしても一般の者を助ける事はない。彼らは一般の者たちから嫌われている事を知っているので、できるだけ一般の者たちとは接触しないようにしていた。助けたために、後で痛い目に会うという事を何度も経験していた彼らは、一般人が倒れていた場合、見て見ぬ振りをしていた。一般人でも死んでいる場合は別だった。死んでいる場合は身に付けている着物や持っていた物を貰い、その代わり、葬送地に連れて行って丁寧に葬ってやった。

 曇天の場合は一般人とは見られなかった。ぼろぼろの僧衣を(まと)っていたため、時宗(じしゅう)の僧侶に違いないと助けられたのだった。彼ら河原者たちも時宗の徒となっている者は多く、時宗の僧たちは彼らを差別する事はないので、彼らにとっても敵ではなく、仲間のような感覚で付き合っていた。

 曇天も初めのうちは、彼らを警戒しながら付き合っていたが、時宗の若い僧だと信じている彼らは、曇天の事を仲間のごとくに扱った。こんな所から早く出たいとは思ったが、ここにいれば食う事だけはできたし、皆、親切だった。彼らは皆、近くの大鳥神社に隷属(れいぞく)している河原者で、本職は皮屋だった。この辺り一円の(たおれ)牛馬の処理をする権利を持ち、死んだ牛馬を河原まで運んで来ては解体して、皮革を作っていた。そして、決められた枚数の皮革を大鳥神社に納める事によって、彼らの権利は保護された。余った皮は商人に売られ、彼らの食糧になるという。しかし、斃牛馬は毎日いるわけではなかった。普段、男たちは堺湊の荷揚げ人足として働いていた。子供たちは物乞をし、年寄りや女たちは菅笠や草鞋(ぞうり)(みの)などを作り、市の立つ日には売りに出ていた。

 曇天も何もしないで世話になっているわけにもいかず、荷揚げ人足として働いた。

 曇天が暮らしていた河原には五十人近くの者たちが住んでいた。家族にして十二家族が粗末な小屋を立てて暮らしている。長老と呼ばれる年寄りを中心によくまとまっていた。長老の話によると、長老の上にお頭と呼ばれている、石津川流域の河原者たちを仕切っている親方がいるらしかった。男たちが荷揚げ人足をしているのも、そのお頭の命令だという。お頭の命令は絶対で、逆らえば河原者の世界から追放され、生きて行く事はできないという。河原者の世界から追放されるというのはどういう事なのか、曇天にはよく分からなかったが、とにかく、お頭という怖い人がいる事は確かだった。すでに、曇天がここで暮らす事も、お頭の許可を取ってあるという。曇天は驚いたが、河原者には河原者の掟が色々とあるようだった。

 曇天は、その河原で暮らすうちに一人の娘と仲がよくなった。その娘は口が利けなかった。生まれた時からの聾唖(ろうあ)で、生まれてすぐに河原に捨てられ、河原者たちに育てられたという。耳も聞こえないし、口も利けなかったが綺麗な娘だった。曇天はだんだんと、その娘に惹かれて行った。娘は口は利けなかったが、皆と同じように仕事に励んでいた。

 成り行きで禅僧から時宗の僧となった曇天は、すっかり、河原者たちの中に溶け込んで行った。十歳の時、家族を亡くして、およそ一年間、京都で浮浪児をしていた事のある曇天は、彼らに対して特に偏見(へんけん)もなく、溶け込んで行く事ができた。

 月日は流れた。

 曇天は河原者たちに囲まれて、毎日、楽しく暮らしていた。贅沢な物などない素朴な生活だったが、それは自然と共に生きる人間本来の生き方のように感じられた。これからの世は力次第で何でもできると張り切って、五ケ所浦を出た曇天だったが、河原者たちと共に生きて行くうちに、そんな欲も消え、彼らと共に自然の中で生きて行く事に満足するようになって行った。また、曇天がそこに腰を落ち着けたのは聾唖の娘のせいでもあった。娘の名前はすすきと言った。口が利けない代わり、すすきの目は口以上の事を曇天に伝えていた。曇天はすすきの目に見つめられると、もう、どうしようもなく(いと)おしくなって、離れる事などできなかった。

 やがて、二人は結ばれた。曇天は還俗(げんぞく)して、死んだ長兄の名前を名乗った。父親と兄たちが亡くなった頃、曇天は松丸と呼ばれていた。幼名の松丸のままでは可笑しいので、父親の名前でもあった新五郎を名乗った。武田という立派な名字もあったが、河原者に名字は要らなかった。以後、曇天の新五郎と呼ばれた。その頃になると、曇天も一人前に扱われるようになり、牛馬の解体も習った。初めの頃は、鼻が曲がる程の(にお)いと臓腑(はらわた)の気持ち悪さに耐えられず、何度も吐いたが、やがて慣れ、難しい技術も覚えて行った。

 女の子も生まれた。すみれと名づけた。すみれは母親に似て可愛く、しかも、ちゃんと耳も聞こえた。曇天は家族を大切にした。自分のような浮浪児には絶対にさせたくなかった。耳の聞こえないすすきは赤ん坊の泣き声が聞こえないはずなのに、赤ん坊が泣くと飛んで来た。曇天にとっても、それは不思議な事だった。

 その間も戦は続いていたが、河原者たちの生活には関係しなかった。何度か、近くまで兵が来た事はあっても、河原者など相手にせずに兵たちは堺の町へと向かった。

 堺の町は益々、賑やかになって行った。京から避難して来る者や、奈良から避難して来る者たちが増え、中には、ここに落ち着こうとする者も現れて、町中には次々と家が建てられて行った。港には東軍の船だけでなく、琉球(りゅうきゅう)(沖縄)や朝鮮の船までやって来て、珍しい物を売って行った。荷揚げ人足の数も今まで以上に必要となり、石津川の上流から来た者たちが河口近くの河原に小屋を立てて住み着いていた。曇天の住んでいる河原にも上流から来たという家族が住み着き、曇天が来た頃より倍近くの者たちが暮らしていた。

 曇天がこの河原に住んでから七年目の八月の事だった。近畿一帯を物凄い台風が襲撃した。曇天はその日、死んだ牛を引き取りに行くため河原を離れなければならなかった。家族を避難させて、大雨の中を仲間と共に牛を取りに出掛けた。毎年来る台風には慣れ、河原者たちも対処の仕方は知っていた。皆、河原に立つ小屋からは離れ、洪水する川から離れて避難していた。

 曇天は長老の命令で仲間と共に牛を引き取りに向かった。こんな台風の日に、どうして斃牛を運ばなけりゃならないんだ、と文句を言っても仕方がなかった。お頭からの命令で、どうしても皮を集めなければならないのだと言う。長老が言うには、この台風は明日には治まり、いい天気になる。それまでに河原の近くまで運んで置けというのだった。

 雨と風は益々、強くなって行った。曇天たちは泥だらけになって死んだ牛を運んだ。しかし、その日のうちに運ぶ事はできなかった。曇天たちは途中、寺の床下に潜って夜を明かした。風の音が物凄く、寝る事などできなかった。それでも夜明け近くになると風雨も治まり、台風一過の静けさがやって来て、安心して、いくらか眠る事ができた。曇天も家族の心配はしなかった。毎年の事で皆、うまく台風をやり過ごしただろうと思っていた。

 翌朝、寺の床下から出て回りを見ると予想以上の被害だった。あちこちで樹木が倒れ、家々も壊され、飛ばされていた。刈り取り前の稲は皆、泥だらけになって寝ている。曇天たちが潜っていた寺の屋根までが半分以上も無くなっていた。

 曇天たちは、牛は大丈夫だろうかと、慌てて牛の所に向かった。牛は真っ黒になって転がっていた。曇天たちは牛を運んで河原に帰った。

 川の水量は増し、河原の形はすっかり変わっていた。小屋は皆、流され、樹木は倒れ、草は皆、寝ている。曇天らは家族のもとに飛んで行った。しかし、皆が避難しているべき所には人影は無かった。辺り一面、泥沼のようになっていて、どこにも誰もいなかった。

 曇天らは声を出して、みんなを呼んで捜し回った。やがて、返事が聞こえた。声のする方に行くと、名前までは知らないが見覚えのある男が泥だらけになって走って来た。

「無事じゃったか」とその男は、べそをかいたような顔で言った。

「何があったんじゃ」と曇天は聞いた。

「津波じゃ。みんな、波にさらわれてしもうた」

「津波じゃと?」

「そうじゃ、でっけえ津波が夜中に襲って来たんじゃ。逃げられはせんかったんや」

 全滅に近かった。

 曇天が暮らしていた河原で生き残った者は十人もいなかった。さらに、下流で暮らしていた者たちは全員、海にさらわれて行った。

 被害にあったのは河原者たちばかりではなかった。堺の湊に停泊していた船は皆、破壊されて流され、町中の家々も流された。船は数百隻、家々は数千戸、そして、数百人の住民が流されたという。被害にあった人間の多くは、京や奈良から避難して来て、海辺に住んでいた者が多かった。その中には、奈良の興福寺と争って、逃げて来た日蓮宗の僧侶も多くいて、台風退散の祈祷(きとう)したが津波にはかなわず、皆、さらわれて行ったという。

 曇天は妻と娘を捜したが無駄だった。長老の姿も見つからなかった。家族を失い、生き残った者たちは、これからどうしていいのか、まったく分からなかった。

 呆然としている所に、大勢の河原者たちを従えたお頭がやって来た。曇天はお頭に会うのは初めてだった。お頭は皆に(なぐさ)めの言葉を言うと、一緒に付いて来いと言った。曇天はお頭らと共に災害の後始末に追われた。曇天は体を動かす事によって悲しみを忘れようと思った。くたくたになるまで毎日、働いたが、家族を忘れる事はできなかった。

 曇天は小屋を立て、また元の河原で暮らし始めた。上流から来たという三家族と一緒に以前の生活に戻った。毎日、やる事は以前と同じだったが、曇天の心の中には、いつも、隙間風が吹いていた。

 堺の町も災害から復興して、湊には船が集まって来た。遠い(みん)の国まで行くという船が出るという噂で持ち切りとなり、商人たちが各地から集まって来ていたが、曇天には関係のない事だった。曇天は前のように荷揚げ人足に行く事もなく、ひたすら皮作りに専念していた。皮作りの技術を知っていた者たちが、ほとんど津波にさらわれてしまったため、曇天を初めとした数人の者たちで牛馬を解体して、決められた数だけの皮を納めなければならなかった。上流から来た者たちは川漁や竹細工で生計を立てていたため、皮作りは知らなかった。曇天たちは彼らに技術を教えながら皮作りに励んでいた。

 そんな頃、曇天は蓮如と出会った。曇天が初めて会った時、蓮如は信証坊と名乗っていて、曇天たちの住む河原に来ると河原者たちを集めて説教を始めた。初め、曇天は坊主の説教など用はないと聞いていなかった。どうせ、酒を飲むな、盗みはするな、殺生(せっしょう)はするなと言って、念仏を唱えれば地獄から救われると言うに決まっている。曇天も禅僧のもとで修行をしていた事がある。坊主の言う事くらい今更、聞かなくても分かっていると思っていた。ところが、その坊主は意外な事を言っていた。

 阿弥陀如来(あみだにょらい)様を信じて、毎日の仕事に励み、仕事が終わったら感謝の気持ちを込めて念仏を唱えなさいと言っていた。阿弥陀如来様はすでに、すべての人たちを救っていらっしゃるのだ。決して、差別などなさらん。すべての者たちを皆、救っていらっしゃる。皆さんも、その大きな阿弥陀如来様の御慈悲に気づいて、感謝の気持ちを込めて念仏を唱えなさい。その時、皆さんは救われた事となるのだ、というような事を言っていた。その時、曇天には、蓮如の言っている意味がよく分からなかった。

 その蓮如は次の日も来た。蓮如は河原者たちを集め、昨日と同じような事を話し始めた。曇天はその輪の中には加わらなかったが話は聞いていた。言っている事は理解できないが、何となく、蓮如に惹かれている自分を感じていた。何だか分からないが、蓮如の事が気になって仕方がなかった。次の日も来るだろうと思っていたが、蓮如はそれ以後、現れなかった。蓮如は来なかったが、時折、本願寺の坊主が来ては、蓮如の書いた『御文(おふみ)』とやらを読んで聞かせ、分かり易いように説明してくれた。

 やがて、河原者たちの中にも本願寺の門徒となる者も現れて来た。河原者たちの多くは時宗だった。彼らも人間である以上、救いを求めた。元々、漂泊の民である彼らには氏神(うじがみ)というものはない。漠然とした山の神や川の神はいたが、彼らも宗教を求め、彼らに与えられた宗教というのは、古くは聖徳太子を(まつ)る太子信仰であり、その後、太子信仰に代わって時宗が現れた。特に時宗は熊野信仰とも結び、堺を通って熊野に向かう熊野街道一帯に広まって行った。今まで宗教らしい宗教を持たなかった下層階級の者たちは皆、時宗の徒となって行った。時宗と浄土真宗は教義は違うが念仏を唱える事は同じだったため、時宗の道場は次々に浄土真宗に転宗して行った。

 曇天の住む河原の近くの時宗の道場も本願寺に鞍替えした。曇天も仲間に誘われて道場に行ってみた。言っている事は同じでも蓮如の説教程、面白みはなかった。曇天はその道場では何も得られなかった。しかし、蓮如の事は気になっていた。

 その晩、曇天は夢を見た。妻のすすきが出て来た。すすきの夢を見るのは久し振りだった。しかも、その晩の夢の中のすすきは(しゃべ)る事ができた。すすきの声を聞くのは初めてだったが、夢の中の曇天は当然の事のように、すすきの話を聞いていた。

 すすきは蓮如の言う阿弥陀如来様の事を言っていた。すすきは蓮如の言う阿弥陀如来様を常に身近に感じていたと言う。わたしと曇天が出会えたのも阿弥陀如来様のお陰だし、夫婦になって子供ができたのも阿弥陀如来様のお陰だと言う。わたしは曇天と会えて幸せだった。幸せでいられたのは皆、阿弥陀如来様のお陰だった。わたしは言葉が喋れず、曇天が言った事も聞こえない。でも、曇天が言おうとしている事は分かったし、また、わたしが言いたい事も曇天は分かってくれた。それは、すべて、阿弥陀如来様のお陰で、わたしはいつも阿弥陀如来様に感謝していたと言った。また、わたしとすみれが津波によって死んだのは運命だったのだ。人は、いつかは死ななければならない。その時が少し早すぎただけの事だ。わたしもすみれも短い間だったが、曇天と一緒にいられて幸せだった。

 阿弥陀如来様がすべての者たちを救っているという蓮如の言葉は本当の事だ。その事をみんなに気づかせなくてはならない。みんながその事に気づいて、この世に生きている事に感謝をすれば、争い事など無くなる。身分というものも無くなるに違いない。人々が助け合って、素晴らしい世の中になるはずだ。あなたは蓮如上人様のもとに行って、本願寺の教えを身に付け、その教えを広めなければならない。そして、河原に住んでいる者たちも、普通の人たちと同じように町に住めるような世の中にしなければならないと言った。

 曇天は目を覚ました。

 すすきの言った事は、実際にあった事のようにはっきりと覚えていた。ようやく、曇天にも分かった。蓮如が言った事で、理解できなかったが、何となく、いつも気になっていた事、それは、阿弥陀如来様の目に見えない力だった。すすきの言う通り、曇天には言葉の喋れないすすきの言いたい事がすぐに理解できた。また、すすきも耳が聞こえないのに、曇天の言おうとしている事が理解できた。考えてみれば不思議な事だった。言葉が通じないのに、お互いに何不自由なく、お互いを分かりあえた。これこそが阿弥陀如来様の力なのだと曇天は思った。そして、すすきが最後に言った言葉、身分などなく、河原者が河原ではなく、町に住めるような世の中にしなさいと言った言葉は、曇天の心にぐさりと刺さった。

 曇天も身分の事は気になっていた。曇天は生れつきの河原者ではない。元々は武士だった。武士の子は河原者たちとは付き合わない、付き合わないから、河原者とは実際にどんな者かを知らなかった。ただ漠然と、武士がいて、百姓がいて、その下に職人やら商人やら河原者とかがいるという事しか知らない。

 十歳の時、家族を失って浮浪児となり、京の町をさまよっていた曇天には、武士という自覚もなくなっていた。武士と言ったところで食ってはいけない。生きて行くためには子供ながらも何でもして来た。そして、禅僧に拾われ、禅の知識を少しは身に付けたが、その知識さえも生きて行く役には立たなかった。河原者に助けられ、河原者として生きて行く事によって、初めて技術を身に付け、生きる(すべ)も分かって来た。

 曇天としては、その生き方が一番いいものだと思っていた。家族もあり、仲間もいて幸せだった。しかし、世間に出ると河原者だというだけで馬鹿にされ、普通の人たちと同席する事さえ許されなかった。曇天にはどうしてなのか分からなかった。河原者たちにその事を聞くと、わしらは河原者だからしょうがないというばかりで、皆、諦め切っていた。やがて、曇天も世間の奴らが馬鹿なんだと思うようになり、その事に付いては避けるようになって行った。幸せなら、人からどう言われようといいじゃないか、と思うようになって行った。夢の中のすすきに言われて、曇天はようやく気づいた。自分がこれから何をやるべきかを夢の中で、すすきが教えてくれたのだと思った。

 曇天は何かをやって有名になろうという夢を抱いて、太郎と一緒に五ケ所浦を後にした。途中、伊勢新九郎と出会い、時代は変わると言われ、自分の出番も来るに違いないと自信を持った。しかし、何をやったらいいのかは曇天にも分からなかった。この河原に落ち着き、家庭を持ってからは、そんな夢の事などすっかり忘れてしまった。それを今、ようやく思い出し、しかも、自分が何をやったらいいかまでが分かったのだった。

 曇天は河原者たちが町に住めるような世の中を作ろうと決心した。

 曇天は朝まで待てなかった。まだ、夜の明けぬ暗い内から小屋を飛び出し、河原者のお頭の屋敷に向かった。お頭の屋敷に行った事はなかったが場所は知っていた。お頭の屋敷まで来ると、夜が明けるのを待ってお頭と会った。

 お頭は曇天の新五郎という名前を覚えていた。曇天はお頭に、蓮如のもとに行って修行して本願寺の坊主になりたいので、是非、行かせてくれと頼んだ。お頭はしばらく黙っていたが、いいだろうと言って頷いた。お頭も本願寺の事は気になっていた。最近、時宗の寺院が、やたらと本願寺派に転宗して、河原者たちの中にも本願寺の門徒となる者が多くなって来ていた。門徒たちは互いに団結して、上の者に反抗するという噂もある。門徒となった河原者が自分に反抗するという事も考えられ、お頭としても誰かを本願寺に送って正式な坊主にしようと考えていたところだった。お頭も曇天が元、時宗の坊主だったと信じていた。時宗の坊主なら本願寺の坊主になるのも簡単な事だろうとお頭は考えた。お頭は曇天が本願寺の修行をする事を許し、援助をするとまで言った。

 こうして、曇天は去年の夏から出口御坊の蓮如のもとに来て修行をしているのだった。





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