ほととぎす2
3
梅雨も上がった暑い夏、河内の国、淀川のほとりに建つ 曇天であった。 曇天は一年間、みっちりと本願寺の教えをたたき込まれて、一人前の坊主になっていた。 蓮如より『六字 堺には 樫木屋道場は北の庄にあり、 道顕坊の父親は もう一つの紺屋道場は南の庄にあり、染め物屋を営む 円浄坊は染め物を扱う商人であるが、名前の通り染め物業に従事する 蓮如は身分による差別を認めてはいなかったが、根強い差別を無くす事は難しい事だった。蓮如の前では道顕坊も円浄坊も対等でも、実際は同じ門徒でありながら樫木屋道場の門徒たちは、紺屋道場の門徒たちを軽蔑の目で見ていた。曇天のいた河原に時々、顔を見せて説教をしていたのは紺屋道場の坊主だった。 この頃、堺の町はまだ濠と土塁に囲まれてはいなかった。 堺は町の中央を東西に走る大通り、 南の庄の自治を担当していたのは 南の庄の中心となっていたのは 開口神社の南には住吉神社の 赤松家の鉄を中心に武器を扱う松恵尼の『小野屋』も南庄の中ノ町のはずれにあった。 乗信坊となった曇天は堺に着くと、まず、北の庄の 乗信坊は道顕坊の屋敷で豪勢な持て成しを受けた。見た事もない珍しい物を色々と見せられ、明の国の事などを聞いて、ただ驚くばかりだった。乗信坊が今まで考えた事もないような途方もなく大きな事を平気な顔で言っていた。自分の存在がちっぽけな石ころのように感じられた。道顕坊と過ごしたのは、ほんの一晩に過ぎなかったが、乗信坊は道顕坊から聞いた明の国の話を忘れなかった。自分もいつの日か、道顕坊のような商人になって、明の国までは行けないにしろ、明の国と貿易するようになりたい、いや、絶対になってみせると思った。 次の日、乗信坊は南の庄の 生まれつきの河原者ではなかったが、出口御坊で修行している時、乗信坊の後見として面倒を見てくれたのが、河原者の頭である 円浄坊は河原者から商人になった男だった。元々は和泉の国と河内の国の国境にある天野山 「おぬし、 革作りの皮屋と染め物をする紺屋は同じ川で暮らしながらも、互いに相手を 「分かりました」と乗信坊は答えたが、乗信坊には道場がなかった。 門徒を獲得するには、まず、道場を作らなければならなかったが、道場を作るどころか一銭の銭もなかった。 「分からない事があったら何でも聞きに来てくれ。とりあえずは早く帰った方がいいぞ。家原のお頭が首を長くして待っておるぞ」 「お頭がですか」と乗信坊は首を傾げた。待っている事は確かだろうが、首を長くしてというのは大袈裟だと思った。 「ああ、そうじゃ。わしが見た所、どうも、お頭はおぬしを 「婿?」 円浄坊はニヤニヤしながら頷いた。「お頭には跡継ぎがおらんのじゃ。娘ばかり三人おるが息子がおらんのじゃよ。おぬしを婿にして、跡を継がせようと考えているようじゃのう」 「まさか‥‥‥」 乗信坊はお頭の事をよく知らなかった。出口に行く前、一応、お頭に会いに行って後見人となってもらって、色々と世話になってはいても、直接に話をしたのはその時くらいだった。時々、出口御坊に顔は見せてはいたが、簡単な挨拶をするだけだった。お頭が、そんな事を思っているなんて乗信坊には信じられなかった。 「長女は今、十七じゃ。なかなかの 乗信坊は円浄坊と別れて、お頭の屋敷に向かった。 途中、石津川の河原で仲間と再会した。彼らは昔、乗信坊が曇天と名乗った僧だった事を知らない。乗信坊が頭を丸めて僧侶の格好で現れると、全然、気が付かなかった。 仲間たちは皆、乗信坊が道場を開くのなら門徒になると言ってくれた。乗信坊が一年前まで住んでいた小屋はそのまま残っていた。お頭の命令で残しておいたのだと言う。 乗信坊は自分の小屋を眺めながら、これを道場にするしかないかなと思った。 お頭の大左衛門は円浄坊の言った通り、首を長くして乗信坊の帰りを待っていた。 「遅かったのう。昨日のうちに帰って来ると思って待っておったんじゃ」と言ったが、機嫌よくニコニコしていた。 「すみません。堺の道場に挨拶に行ったら泊まって行けと言われたもので‥‥‥」 「そうか、そうか。まあ、いい」 大左衛門は乗信坊を屋敷に上げると、「まず、祝いの酒じゃ」と酒の用意をさせた。 「おぬしが出口で修行を始めてから、わしも本願寺の門徒になったわ。 「はい。そのつもりです」 「頼むぞ」と大左衛門は嬉しそうに頷いた。「ところでじゃ、おぬしは元、時宗の僧じゃったのう。あそこの河原に来てからの事はおおよそ知っておるが、その前はどこで何をしておったんじゃ」 「はい。実は時宗の僧ではなかったのです」と乗信坊は真実を語った。 「なに?」 「実は禅僧だったのです」 「禅僧? 禅僧が何でまた、河原なんぞに倒れておったんじゃ」 酒を飲みながら乗信坊は身の上話を始めた。武士の出である事を言ったら、ここから追い出されるかもしれないと思ったが、乗信坊はすべてを打ち明けた。追い出されたら、それでもいい。河原者ではなく、本願寺の坊主として布教するまでだと覚悟を決めた。 大左衛門は意外な話を黙って聞いていた。 「ほう、おぬしは武士じゃったのか‥‥‥」 「いえ、わしはすすきと一緒になった時から河原者になりました。今回、出口に修行に行ったのも河原者の一人として行きました」 「うむ‥‥‥分かった。おぬしに見せたいものがある」そう言って、大左衛門は立ち上がった。 乗信坊は大左衛門の後を付いて行った。 大左衛門は屋敷から出ると、河原の方に向かった。 河原に行く途中の小高い丘の上に新しい家が建っていた。大左衛門はその家の方に向かった。誰の家だろうと思いながら付いて行くと、門の所に大きく『本願寺道場』と書かれてあった。 「おぬしの道場じゃ」と大左衛門は言った。 それは立派な道場だった。門徒百人は楽に入れる程の広さがあり、裏の方には広い台所が付いて、乗信坊の暮らす部屋まで付いていた。 「今日から、ここで暮らせ」と大左衛門は言った。 乗信坊は何とお礼を言ったらいいか分からなかった。まさか、お頭がこんな立派な道場を用意してくれていたなんて、まるで、夢でも見ているようだった。 「阿弥陀如来様のお告げがあったんじゃ。この地に道場を建てれば大勢の門徒がやって来るとな。頑張れよ」 「はい‥‥‥有り難うございます」乗信坊は心から頭を下げた。 道場の正面に蓮如より戴いた『六字名号』と『親鸞影像』の掛軸を掛け、その前に座ると乗信坊は念仏を唱え始めた。 大左衛門は道場の中で念仏を唱えている乗信坊を見ながら、大きく頷くと自分も後ろに座って念仏を唱え始めた。 どこかで、ほととぎすが鳴いていた。
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「お円!」と叫びながら我家へ戻った栄意坊は、驚いている妻のお円に、「旅の支度じゃ」と怒鳴った。 「えっ、旅の支度って、いよいよ、駿河に行くの」 「そうじゃ。やっと、わしの代わりが来たんじゃ。明日、出掛ける」 「明日? そんな急に‥‥‥」 「おう。風眼坊の奴が待っておるじゃろう」 「そうかもしれないけど、明日だなんて急過ぎるわ。もしかしたら、明日までに、ここから出なけりゃいけないの」 「いや、そんな事はないがのう。早いとこ駿河に行って、わしも風眼坊と一緒に働きたいんじゃ」 「夢の国を作るのね」とお円は栄意坊を見上げながら笑った。 「そうじゃ。身分などない、夢のような国じゃ」 栄意坊も河原者の出だった。遠江の国の川の民の子として生まれ、子供の頃から川漁をしたり、竹細工を作っていた。侍を殺して国を離れ、山伏となってからは河原者として差別を受ける事はなかったが、河原者が差別を受けているのを見るのは辛かった。差別している者が、ならず者だったら栄意坊も許さなかった。しかし、差別している者の多くは農民だった。農民たちが相手では栄意坊も暴れるわけにはいかなかった。根強い差別を無くす事は不可能だと諦めていた。ところが、風眼坊と早雲が差別などない新しい国を関東に作ると言う。夢のような話だった。あの二人の事だから、どこまで本気なのか分からないが、やりがいのある仕事だと思った。 栄意坊もようやく、自分のやるべき事が見つかったと喜んでいた。夢の国が本当にできるかどうかが問題ではない。一つの事に本気になって熱中する事ができれば、それで良かった。命懸けで熱中できれば満足だった。今までずっと、熱中できる物を捜していたが、見つからなかった。それが今、ようやく見つかった、と栄意坊は張り切っていた。 栄意坊は明日、出掛けると言ったが、そうは行かなかった。その日の晩、高林坊を初めとした師範たちが送別の宴を開いてくれ、栄意坊は武術師範をやめた解放感もあって、飲み過ぎて、次の日の昼過ぎまで起きられなかった。 栄意坊が寝ている間に、お円は旅の支度をすっかりと済ましていた。今晩は早く寝て、明日の朝早く出掛けようとしたが、今度は夢庵が現れた。 わしに黙って関東に行くとは何事じゃ、とその晩は、夢庵に付き合わないわけには行かなかった。結局、夢庵と明け方まで飲んでいて旅立つ事はできなかった。 いつも口先ばっかりと、お円に怒られながら、その日の晩は近所の者が誘いに来ても断り、次の日の夜明け前に旅立って行った。 久し振りの旅だったので、二人共、浮かれていた。あちこちの名所に立ち寄って、あちこちの名物を食べながらの、のんびりした旅だった。 四日目に、お円の生まれた三河の国に入った。二人共、三年前の出会いを思い出していた。山奥の河原で、ばったりと出会い、運命の糸に操られるかのように結ばれた。栄意坊もお円もお互いに相手に会えて良かったと思っていた。二人は幸せだった。 七日目に、栄意坊の生まれた天竜川を渡った。栄意坊が生まれて育ったのは、もっとずっと上流だったが、やはり懐かしかった。戦には直接出会わなかったが、何となく 八日目にようやく駿河の国に入って、その日の夕方、石脇の早雲庵に着いた。 早雲庵には早雲も小太郎もいなかった。武士だか百姓だか分からない人足のような者たちが十数人暮らしていた。何者たちだろうと不思議に思ったが、話を聞くと皆、早雲の家来だと言う。早雲の家来として、村人たちの面倒を見ていると言う。 次の日、栄意坊夫婦は 竜王丸が鞠子に来て以来、石脇と鞠子を結ぶ最短距離の山道が、小太郎らによって作られてあった。その道を通る事によって、岡部まで行き鎌倉街道を通って行くよりも距離も時間も大分、短縮された。栄意坊夫婦はその道を通って鞠子に向かった。途中、舟川の上流辺りに、小太郎のいる どこかで、ほととぎすが鳴いていた。 坂道を登って行くと門があって、『 「あら、栄意坊様」とお雪は突然の珍客に驚いていた。 「ようやく、やって来たわい」と栄意坊は笑った。 「よく、おいで下さいました。主人が喜ぶでしょう。ちょっと待って下さい。呼んで来ますから」 「いや、わしの方から行こう」 お雪に案内されて裏の方に行くと広い武術道場があり、若い者たちに混ざって小太郎が木剣を振っていた。栄意坊の顔を見ると、「待ってたぞ」と顔をほころばせた。 稽古をしていた者たちも、突然、栄意坊がこんな所に現れたものだから驚いていた。彼らは皆、去年の修行者だったので、槍術の師範だった栄意坊の事は知っていた。槍術組で直接、栄意坊の指導を受けた者も三人いた。栄意坊が飯道山をやめて、やって来たと聞いて、頭である小太郎が何をやろうとしているのか、まだ、よく分かっていない彼らだったが、余程、大きな事をするに違いないと改めて感じていた。 一汗かいた後、小太郎と栄意坊は舟川で水を浴びて屋敷に帰った。 門を通る時、栄意坊は『風摩砦』の意味を聞いた。 「わしの本名は風間小太郎と言うんじゃ。風間砦としようと思ったが、何となく気にいらん。そこで、カザマをフウマと読ませて、間の字を摩に変えたんじゃ。摩は 「風間の風と摩利支天の摩か‥‥‥」 「わしの役目は早雲の影になって、早雲を助ける事じゃ。まさしく摩利支天なんじゃよ。摩利支天は自らの姿を隠して災難を除き、利益を与える仏様じゃ」 「成程のう」 「わしは、これから、 「風摩小太郎か‥‥‥」 「おぬしの本名は何じゃ」 「わしか、わしは中瀬竜太郎じゃ」 「中瀬竜太郎か‥‥‥なかなか、いい名じゃ」 中瀬竜太郎というのは栄意坊の本名ではなかった。川の民であった栄意坊に名字などない。栄意坊らが住んでいた天竜川のほとりが中瀬と呼ばれ、栄意坊の名は、ただの竜太だった。侍を殺して京都に行き、親爺と呼ばれる飯道山の山伏と出会った時、名を聞かれて、見栄を張って中瀬竜太郎と名乗った。その名を名乗ったのは、その時、一度だけだったが、今、小太郎に聞かれて、また見栄を張ってしまった。小太郎が武士の出だという事は知っていた。小太郎だけでなく、かつて、四天王と呼ばれた高林坊も火乱坊(慶覚坊)も皆、一応、武士の出だった。栄意坊は川の民だと言う事ができず、遠江の郷士の伜だと嘘を付いて来たのだった。身分などない夢の国を作ろうとしている小太郎には嘘を付きたくなかったが、自分の出身を言う事はできなかった。 屋敷の台所ではお雪とお円が食事の支度をしていた。若い者たちが十人もいるので、食事の支度も大変だった。女中を入れるつもりだったが、お雪が、どうせ、女を入れるなら、武術を教えたいから、素質のありそうな娘を集めたいと言ったため、小太郎も同意した。そのうち、そんな娘を捜しに行こうと思っていても、やっと砦が完成したばかりで、捜しに行く暇はなかった。そんな時、お円が来てくれたので、お雪は強い助っ人が来たと喜んでいた。 「取り合えず、わしは何をしたらいいんじゃ」と栄意坊は聞いた。 「そうじゃのう」と風眼坊は顎を撫でながら、「まずは、鞠子に行って、今川家の若殿と会ってもらうかのう」と言った。 「竜王丸殿と言ったかのう」 「そうじゃ。まだ、七つじゃが頼もしいお方じゃ」 「その後は?」 「そうじゃのう。わしは飯道山から十人の若い奴らを連れて来た。奴らを各地に飛ばして、情報を集めると共に、奴らに武術を教えさせるためじゃ。取り合えず、わしはこの砦に百人の者を置くつもりじゃ」 「百人もか‥‥‥」 「徐々に、見込みのある奴を捜し出して行くつもりじゃ。まず、奴らを各地に飛ばして、見込みのある奴を捜させる」 「うむ」 「 「女子もか」 「ああ、百人も集まると飯の支度も大変じゃ。飯の支度をさせると共に、お雪に武術を教えさせる」 「なに、おぬしのかみさんは武術もするのか」 「ああ。 「陰の術もか」 「ああ、そうじゃ。播磨の太郎の所に行って楓殿から習った」 「楓殿から? 楓殿も陰の術を身に付けているのか」 「ああ。見事なものじゃ」 「ほう、あの楓殿がのう」 風眼坊は頷いてから、「その前に、しなければならん事がある」と言った。 「何じゃ」と栄意坊は聞いた。 「百人も集めても、奴らを食わして行くだけの銭がない」 「銭か‥‥‥どうするつもりじゃ」 「今、遠江で一揆騒ぎが始まっておるんじゃ。今川家にやられた勝間田、横地の残党どもが騒ぎ始めておる。はっきりとは分からんが、どうも、後ろには天野氏がおるようじゃ」 「天野氏というと 「そうじゃ。よく知っておるのう。そうか、おぬしの出身は遠江じゃったのう」 「ああ、天竜川の近くじゃ」 「そうか、そいつは都合がいい。地理にも詳しいじゃろう」 「大体はな」 「うむ。その天野氏は今川家の重臣でもあるんじゃよ」 「今川家の重臣が、敵と結んでおるというのか」 「その可能性があるという事じゃ」 「ふーん。今川家程の名門でも色々とあるんじゃな」 「まあな」 「しかし、その一揆騒ぎと銭とどう関係があるんじゃ」 「一揆を起こすからには軍資金があるはずじゃ。それを頂く」 「なに、敵の軍資金を頂くのか」 「そうじゃ。軍資金が無くなれば一揆も治まるじゃろう。一石二鳥じゃ。ついでに、武器や馬も頂戴するつもりじゃ」 「成程のう。いつ、やるんじゃ」 「今、三人が遠江に潜入しておる。奴らが情報を持って戻って来たらじゃ」 「いつ頃、戻って来るんじゃ」 「今日で五日目じゃから、明日か明後日には戻って来るじゃろう。それまでは、のんびりしておってくれ。お円殿を連れて、駿府の城下や 「うむ、そうするかのう」 夕方、早雲が酒をぶら下げてやって来た。小太郎が若い者を使って呼んだのだった。 早雲がここに来たのは久し振りだった。前回、来た時はまだ屋敷はできていなかった。 早雲は砦の中を見て歩き、満足そうに頷いた。 次の日、栄意坊夫婦は早雲と一緒に鞠子に行って竜王丸と会った。すでに、鞠子屋形の前に早雲の新しい屋敷もできていた。その後、駿府に行って浅間神社をお参りし、賑やかな門前町を見て歩いた。門前町では今、留守にしている小太郎の家に泊まった。駿府の城下も見て歩き、風摩砦に戻って来ると、小太郎は丁度、出掛ける準備をしていた。 栄意坊も腹巻きを身に着けると使い慣れた槍を担いで、小太郎と十人の若者たちと共に お雪とお円の二人は留守番だった。お円は留守中に、お雪から武術を習うと張り切っていた。お円も武家の娘だったので薙刀の心得はあった。心得はあったが、もう十年以上も武器など手にした事はなかった。この先、栄意坊と一緒に、この砦で暮らす事となれば、お円も武術を身に付けなければならない。お円は自ら、お雪に教えてくれと頼み、お雪は喜んで教える事にした。 法栄の屋敷に向かった一行は法栄から馬を借りて、風摩党の最初の仕事、軍資金を調達するために遠江の国へと向かって行った。
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