酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



関東の年表(1416年〜1585年)




1416年 10月 上杉禅秀の乱。禅秀方に付いた者に、禅秀の婿、岩松満純、渋河左馬助、舞木太郎(佐貫一族)、児玉党の大類、倉賀野氏等。
1438年 8月 永享の乱。鎌倉公方持氏、幕府軍の殺される。甲斐国は幕府管轄となる。
1440年 7月 持氏の奉行人、一色伊予守、鎌倉を逐電する。
結城合戦。上野の岩松持国、舞木氏が持氏の遺児の擁立の中心となる。
将軍義教は岩松家純に出陣を命じる。
1441年 6月 嘉吉の変。将軍義教、赤松満祐に殺される。
1449年 成氏、鎌倉公方となる。岩松持国、成氏方となり、上杉氏に反発する。
1454年 12月 享徳の乱。鎌倉公方成氏、管領の上杉憲忠を鎌倉西御門第にて殺す。
1455年 1月 上杉勢、分倍河原にて成氏勢に敗れる。
犬懸上杉憲顕、扇谷上杉顕房戦死(相模守護)。
上州一揆は初期の頃は成氏方に付いていたが、上杉氏の巻き返しにより、赤堀氏ら一部を除き、上杉方に寝返る。岩松持国、佐貫の舞木氏は成氏方。
2月 赤堀時綱、善氏の在所を焼打ちにする。
3月14日 上州一揆の多数は上杉方に寝返る。
3月24日 岩松持国、茂呂に陣を敷き、小柴刑部左衛門を討ち取り、那波掃部助を追い払う。佐野宮内少輔、舞木氏も持国と行動を共にする。
4月6日 成氏、那波富塚城を攻め、上州一揆の小柴刑部左衛門尉を討ち取る。
閏4月 上杉勢、常陸小栗城の合戦にも敗れる。
6月16日 幕府軍の今川範忠、鎌倉を攻略。鎌倉は灰燼と化す。世良田氏滅亡。
12月3日 須賀合戦。横瀬良順(貞国)戦死。
1456年 2月26日 深津(粕川村)の合戦で、赤堀時綱、孫三郎兄弟討ち死に。
成氏方の岩松持国、大胡、山上などで、上杉方と戦う。
9月 岩松持国、武蔵岡部原で上杉憲信と戦う。
1457年 4月8日 太田道灌、江戸城を築く。
7月 将軍義政、弟を還俗させ、政知と名乗らせる。
12月19日 政知、左馬頭に任じられ、24日、渋川義鏡と共に京都を出陣し、近江大津園城寺まで進み越年する。
1458年 4月 政知、関東に下向。岩松家純も下向。
政知に随行した者は、渋川義鏡(その代官板倉頼資)、上杉教朝、幕府奉行人の朝日教忠、布施為基、富永持資、飯河某など。
9月 岩松家純の家臣横瀬国繁によって、岩松持国、幕府(上杉)方に寝返る。
1459年 10月14日 武蔵太田庄にて、成氏軍と上杉軍合戦。上杉方の敗北。
この頃、五十子の陣構えられる。東西200m、南北150mの単郭。
1460年 1月 今川範忠、鎌倉から退去する。
1461年 岩松持国父子、誅殺される。
10月 政知の執事、犬懸上杉教朝の自害。
1462年 12月 結城成朝(24)が家臣多賀谷氏に殺される。甥の氏広が継ぐ。
1463年 8月26日 長尾景仲(76)死す。
1466年 2月12日 上杉房顕(32)五十子陣中にて死す。越後の上杉房定の子顕定が継ぐ。
11月 上杉方の上野守護代長尾但馬守景人、代官として足利庄の勧農城に入る。
この頃、渋川義鏡、堀越を去り、武蔵蕨に陣を敷く。
1467年 9月7日 扇谷上杉朝持(57)、河越城にて死す。顕房の子政真が継ぐ。
1468年 10月 上州茂呂嶋(伊勢崎市)合戦。上杉方の勝利。
1469年 8月 岩松家純が五十子陣より、新築の金山城に迎えられる。
9月 上野綱取原で、上杉方と成氏方合戦。
1470年 1月10日 太田道真、川越にて連歌会。心敬、宗祇、大胡修茂。
1471年 4月 上杉軍、足利庄に入り、樺崎城、八椚城(栃木県足利市)、赤見城(佐野市)などを攻め落とし佐野氏を降ろす。
5月 上杉軍、佐貫庄に入り、立林要害中城(館林城)、立林舞木城を攻め落とす。この頃、佐貫庄は舞木氏に代わって館林城の赤井氏が支配していた。
上杉方‥‥‥長尾左衛門尉景信、景春父子、長尾忠景、太田資長、豊島一族、大石氏、横瀬氏、善氏ら。
成氏方‥‥‥赤井信濃入道(文三)、文六ら。
6月24日 古河館を攻め落とす。成氏は千葉孝胤の元に逃げる。
1472年 2月 成氏、那須氏、結城氏の助力により、古河に戻る。
5月1日 上野守護代長尾景人死す。定景が継ぐ。
1473年 1月21日 伊勢貞親(57)死す。
6月23日 長尾景信(61)死す。弟の忠景、跡を継ぐ。
11月24日 扇谷上杉政真(24)戦死。叔父の総社長尾定正が継ぐ。
1474年 6月17日 太田道灌、『武州江戸歌合』を興行。
1475年 2月6日 長尾定景死す。後を継いだ景人の子、景長が幼少のため、景人の弟、房清が後見となる。
1476年 6月 太田道灌、今川家の内紛を治めるため駿河に進攻。
6月 長尾景春の乱。景春は鉢形に城を築き、五十子陣を攻める。秩父には、景春の従兄の犬懸長尾景利の所領があった。
上州一揆旗本の長野為兼は景春方に付く。一揆は解体し、上杉氏、長尾氏の手兵と化す。
9月末 今川家の内紛治まる。
1477年 1月18日 景春、五十子を襲撃する。上杉方は敗れ五十子の陣を払い退去する。上杉顕定は阿内(前橋市)、定正は細井口(前橋市)、定昌と越後勢は白井城に移って陣を構える。
長尾景春に与同して蜂起した者は、武蔵石神井、練馬城に拠る豊島氏、相模小沢城による金子掃部助、景春被官の溝呂木氏(厚木市)、越後五郎四郎(大磯町)
3月〜4月に太田資長に鎮圧される。
5月 太田資長は、上杉顕定らを再び、五十子に迎える。
5月14日 上杉軍と成氏軍、武蔵国用土原(寄居町)で合戦。上杉方勝利。
景春方の長野左衛門尉為兼戦死。上杉方の大石源左衛門尉戦死。
景春は鉢形城に退く。
7月 成氏、景春救援のため、結城、宇都宮、那須、佐々木などの兵を率いて、古河を発して上野に入り、瀧、島名(高崎市)に布陣する。この時、横瀬国繁の五百余騎の軍勢も加わる。岩松家純は、五十子退陣を契機に上杉方から離脱し、成氏方となっていた。これに対し、上杉方は再び、白井城まで退去防備を固めた。半年間、睨み合いが続く。
9月27日 上杉軍、片貝に出陣するが戦にはならず。
10月2日 成氏方の長尾景春らが、資長の荒巻(前橋市)、引田(富士見村)などの陣所に押し寄せて来たが小競り合いで終わる。
12月23日 成氏は和田(高崎市)に進み、翌日、観音寺原(群馬町)に陣を取り、白井城に迫る。上杉勢も27日に白井を出て漆原(吉岡村)から広馬場(榛東村)へ向かい、両軍はここで対峙する。その日、大雪が降り、決戦は中止され、事態は急速に和睦の方向に向かう。
1478年 1月1日 長井左衛門尉と寺尾上野介が使者として、成氏方の簗田成助の所に赴き、交渉の結果和議が成立。
1月4日 成氏方、陣を払い帰国する。
1月23日 道灌、平塚城を落とす。
1月24日 扇谷定正、川越城に移り、景春討伐は本格化する。
4月 武蔵南部の景春方は一掃される。
6月 相模国もほぼ平定される。
7月 景春の本拠地、鉢形城も攻略され、道灌の薦めで、顕定はここに入る。
12月 道灌、景春方の千葉孝胤を討つため下総に出陣。
1479年 7月 道灌、千葉孝胤を降ろす。その結果、景春は孤立するが後も秩父近辺で執拗に反抗を続ける。
1480年 成氏は一変して、上杉氏との和睦を捨て、景春を支持する。
2月 道灌、景春の秩父高佐須城を落とす。
5月 東上野の成氏、景春党蜂起する。
6月24日 道灌、景春の籠る秩父日野城を落とす。景春は成氏の元に逃げる。
1482年 11月27日 越後上杉房定の交渉により、将軍義政、成氏と和睦する。
1486年 7月26日 太田道灌(55)、相模糟屋で上杉定正の家臣曽我兵庫に殺される。
江戸城代には曽我祐重、河越城代には曽我兵庫頭が任命される。
1487年 11月9日 伊勢早雲、駿府屋形を襲撃し、小鹿新五郎を討つ。
閏11月 白井城にいた越後の上杉定昌、成氏方の下野足利庄勧農城の長尾房清(景人の弟)を攻める。山内、扇谷上杉氏の対立の始まり。赤堀上野介、山内方として活躍する。
1488年 2月 山内と扇谷上杉氏、相模の実蒔原(伊勢原市)にて戦う。
扇谷定正の弟で朝良の父朝昌の七沢城(厚木市)は攻め落とされ、小田原城も攻撃を受ける。
3月24日 上杉定昌(36)、白井城にて自害する。家臣の発智景儀殉死。
6月18日 山内と扇谷上杉氏、武蔵須賀谷原(比企郡嵐山町)で合戦。山内方には道灌の嫡子源六資康もいた。
9月 万里集九、上野国中央部を南から北に横断する。
11月 山内、扇谷上杉氏、武蔵高見原(寄居町)で合戦。
扇谷定正方には、成氏、政氏父子、長尾景春らが加勢。
1489年 富岡直光、小泉城(大泉町)を築城する。
3月26日 将軍義尚(25)、鉤の陣中で死す。
1490年 1月7日 前将軍義政(55)死す。
1491年 1月7日 足利義視死す。
4月3日 堀越公方足利政知病没。
7月1日 茶々丸、異母弟の潤童子とその母円満院(武者小路隆光の娘)を殺害して家督を奪う。
10月11日 伊勢備中入道瑞松(貞藤、貞親の弟)死す。
1492年 長野伊予守業尚、室田長年寺を再建する。
2月2日 太田道真(82)、入間郡越生にて死す。
1493年 岩松尚純と家臣横瀬成繁争う。成繁、尚純を引退させ、実権を握る。
10月11日 早雲、伊豆に進攻し、茶々丸を滅ぼす。
1494年 4月22日 岩松家純(80過ぎ)死す。孫の尚純が継ぐ。
8月15日 顕定の攻撃により、定正方の武蔵関戸(多摩市)要害落ちる。
8月26日 小田原城主、大森氏頼死す。次男の藤頼が継ぐ。
9月19日 顕定の攻撃により、定正の相模玉縄(鎌倉市)要害も落ち、小机城主の矢野右衛門助も討ち取られる。
9月23日 新井城主、三浦時高が養子の義同(上杉高救と大森氏の娘との子)に攻められ自害。
9月28日 早雲、武蔵多摩郡久米川(東村山市)に着陣し、定正と対談する。
10月5日 扇谷定正と早雲の軍、武蔵高見原で山内顕定と対陣したが、定正、陣中で急死する(52)。定正方は総崩れとなり、河越城に敗走し、早雲も河越を経て韮山に帰る。
甥の朝良が継ぐ。定正の死後、公方足利政氏、早雲は顕定方に立つ。
10月17日 越後守護上杉房定死す。顕定の弟房能、跡を継ぐ。
11月 扇谷朝良、山内顕定と合戦。
1495年 8月 早雲、甲斐に攻め入り、武田信綱と講和。
9月 早雲、小田原城を攻め、大森藤頼を追い、城を奪う。藤頼は真田城(平塚市)に逃げる。相模の松田氏の活躍。小田原城には早雲の弟、弥次郎が入る。
1496年 7月 早雲、上杉顕定の軍に敗戦し、伊勢弥次郎他多数の家臣を失う。松田氏も戦死したか?
顕定は政氏を奉じて上戸(うわど、川越市)に陣を築き、河越城に対した。
1497年 9月30日 古河公方、足利成氏(64)死す。政氏が継ぐ。
1498年 8月25日 地震と津波により、鎌倉では大仏殿が破壊され、二百人を越える溺死者がでる。
1501年 閏6月25日 長尾忠景死す。
8月8日 横瀬成繁死す。
9月18日 早雲、甲斐に進攻するが、敗れ、10月3日には引き上げる。
1502年 6月 宗祇、弟子の宗長と共に信濃、上野を経て武蔵に入り、上戸、河越に立ち寄り、江戸に向かう。敵味方なく歓迎を受ける。
1503年 2月20日 長野業尚死す。
1504年 8月21日 山内顕定は越後の弟房能の救援を受けて、上戸の陣を立ち仙波に進み、河越城の扇谷朝良を攻める。9月5日まで攻めるが落城せず。
9月6日 顕定、仙波陣から江戸に向かい、白子(和光市)に陣す。
9月15日 早雲、武蔵稲毛陣に進陣し、朝良に合力する。
9月20日 今川氏親、稲毛陣に着陣し、朝良に合力する。
9月25日 顕定、大森顕隆に書を送り、武田信虎の出陣を促す。
9月27日 立河原にて、朝良と顕定、顕房ら合戦する。顕定方大敗する。
10月23日 氏親、駿府に帰る。
11月上旬 越後守護代長尾能景、守護上杉房能の命により越山して合力する。
騎馬武者2000、歩兵10000。
12月1日 朝良ら、顕定の上戸陣を攻め、長尾弥五郎以下100人討死する。
顕定ら、武蔵椚田要害(八王子市)を攻め落とす。
12月5日 早雲、高野山の長連法印に書を送り、今度の戦の祈念を謝し、布施として黄金20両と山絹30疋を送る。
12月26日 顕定、相模実田要害(平塚市)を攻め、城主上田朝直死す。
京都の医者陳定治が早雲の招きにより小田原に下向する。
この年、大地震が起こり、天下飢饉。
1505年 1月 顕定、朝良の河越城を囲む。
3月 山内顕定ら朝良を河越城に囲むが、朝良の重臣曽我祐重は、ついに顕定と和を結ぶ。朝良は養子の朝興(18)に譲り、江戸城に隠居する。上杉氏は一つになる。
1506年 早雲、小田原周辺の検地を行なう。
早雲、『伊勢宗瑞十七箇条』を書く。
1507年 8月2日 越後守護上杉房能が守護代の長尾為景に殺される。為景は上条家の定実を後継者とし、実権を握る。
1509年 7月 上杉顕定、養子の憲房と共に、為景と手を結んだ長尾景春の抵抗を振り切り、越後に進攻する。間もなく、府内を攻め落として、為景、定実を越中に追った顕定は、越後で越年して越後支配に没頭したが、国人らの反発も強い。
この年、宗長、上野国浜川(高崎市)の布留明神に立ち寄る。
1508年 4月 蒲原津(新潟市)に上陸した為景軍は寺泊に進撃する。
6月 顕定は憲房に椎屋(柏崎市)の為景軍を襲わせたが、敗北する。顕定は府内を退去して上野に引き退く途中6月20日、上田庄長森原(六日町)で為景軍の追撃を受けて敗死する。妻有庄(津南町)で態勢を立て直していた憲房は父の敗死を聞き、命からがら脱出して上野の平井に退く。景春の押えていた三国越えではなく、吾妻越えで帰郷する。顕定の軍には長尾定明と上州一揆(発知六郎右衛門ら)が参加していた。
8月 宗長、東国を旅する。
この年、上泉伊勢守生まれる。
1509年 1月9日 長尾顕忠死す。
8月15日 宗長、鉢形城の連歌会に参加。長尾顕方家臣馬庭豊前守重直興行。
1510年 7月 扇谷朝良の家臣、権現山城の上田政盛が早雲に寝返るが、攻め落とされる。
鶴岡八幡宮別当の空然、還俗して義明と名乗る。早雲らが政氏に対抗して擁立する。
1511年 11月 早雲と政氏、和睦する。
12月 早雲、朝良と和睦する。
1512年 6月3日 上野守護上杉憲房、関東管領上杉顕実の鉢形城を攻め落とす。
8月 早雲、岡崎城を攻め落とし、13日、鎌倉に入る。
10月 早雲、玉縄城を築く。
1513年 1月 早雲と三浦義同合戦。藤沢の遊行寺焼失。
長野伊予守憲業、吾妻にて戦死。
8月 関東に台風。
9月29日 上杉朝興の武将で義同の娘婿の太田資康、三浦で戦死。
早雲、大道寺盛政を鎌倉代官とする(〜1550頃)小代官に後藤右近将監。
1514年 8月24日 長尾景春死す。
1515年 上杉顕実死す。憲房、関東管領職に就く。
1516年 7月11日 早雲に攻められ、三浦氏滅亡する。
7月21日 早雲、伊豆三嶋神社に指刀を奉納する。
1518年 2月8日 早雲、家督を氏綱に譲る。
4月21日 上杉朝良死す。扇谷家を朝興が継ぐ。
10月8日 氏綱、虎の印判の使用開始。
1519年 8月15日 伊勢早雲死す(1432-,88)。
1521年 山内憲房と扇谷朝興、合戦する。
那波刑部大輔宗俊、横瀬泰繁に城を攻め落とされ戦死。
1522年 2月22日 横瀬景繁死す。
1524年 扇谷朝興、北条氏綱に江戸城を攻略される。遠山右衛門尉直景、江戸城に入る。
氏綱、小机城(横浜市港区)を修復して、笠原越前守信為を置く。
この頃、氏綱、北条氏を名乗る。
1525年 2月6日 北条氏綱、太田資頼の岩槻城を攻め落とす。長尾顕方、氏綱に属す。
4月16日 上杉憲房死す。養子となっていた古河公方足利高基の子、憲寛が継ぐ。
1526年 今川氏親死す(1471-,56)。
1527年 廐橋城の長野左衛門大夫方業、総社長尾顕景を攻める。
1528年 1月15日 山内家家宰長尾景長死す(1469-,60)。憲長、後を継ぐ。
10月27日 足利高基の子亀王丸、元服し晴氏を名乗る。
1530年 6月 北条氏康初陣。
11月 長野憲業死す。
1531年 10月 憲寛に代わり、憲政が管領となる。
1532年 12月 扇谷朝興、先代の朝良の子藤王丸を殺す。
1533年 2月 北条氏綱、鶴岡八幡宮再建のため勧進。応じた者に、高山、木部因幡守、岩下、小幡播磨守、小幡図書助、長野宮内大輔、長尾平五(定明)、高田伊豆守、羽尾、沼田中務少輔、吉里対馬守、安中宮内少輔、多比良、斎藤越前守、倉賀野左衛門尉、飽間右衛門大夫、依田右衛門大夫、小菅加賀守など。
大道寺盛昌、太田正勝を総奉行とする。1534年までの費用2908貫815文。鉄の代金が120貫文。
3月 北条氏綱、近衛尚通の娘で関白近衛稙家の姉を嫁に迎える。この頃、従五位下、左京大夫に叙任される。
扇谷朝興、朝良の娘を武田信虎の子の晴信に嫁がせる。
1535年 6月8日 古河公方足利高基死す。晴基が継ぐ。
1537年 4月27日 扇谷上杉朝興(50)、河越城で死す。跡を継いだ朝定は13歳。
7月 北条氏綱、川越城を攻め取る。
1538年 北条氏綱、国府台合戦に勝利し、関東管領職の御内書を得る。
1539年 11月21日 鶴岡八幡宮落慶式。
1541年 5月 武田信虎、信濃国小県郡を攻撃。真田幸隆、上野に逃れて長野業政を頼る。
6月 武田晴信、信虎を駿河に追放。
7月19日 北条氏綱死す(1486-,56)。
1542年 5月3日 玉縄城主、北条為昌死す。綱成、跡を継ぐ。
1543年 大胡重行、武蔵国牛込にて死す(1466-,78)。
1544年 大胡勝行、武蔵国牛込に宗参寺を建立する。
真田幸隆、武田家の家臣となる。
1545年 9月9日 横瀬泰繁死す。
1545年 9月〜46年4月、川越合戦。長野業政の長男吉業、負傷し、それが元で死す。
1550年 3月24日 長尾憲長死す(1503-,48)。当長、後を継ぐ。
北条氏康、上野平井城を攻める。
7月 武田信玄、小笠原長時を松本平で破る。
1551年 益田伊勢守、伊勢崎の合戦で那波刑部少輔を打ち取り、一時、大胡を取り戻す。
5月26日 真田幸隆、戸石城を攻め落とす。
1552年 北条氏康、上野に進撃。那波刑部大輔宗俊、北条方になり、足利長尾景長、新田の横瀬成繁、佐野、桐生、大胡、廐橋長野氏などを敵として戦う。河西衆(西上野衆)は北条方として那波を応援する。この混乱の中で、上杉憲政の馬廻衆は裏切り、氏康と通じ、憲政を追放する。憲政は新田、足利を頼って行ったが、入場を拒否され、4月頃、越後の長尾景虎を頼って落ちて行く。6月に三国を越え、7月には府内に着く。
この頃の鎌倉代官は大道寺周勝(かねかつ)
1553年 4月 村上義清は葛尾城を捨て、長尾景虎を頼る。
8月 川中島の合戦。
1554年 武田信玄、北条氏康、今川義元の三国同盟が成立。
1555年 大胡勝行、牛込姓を名乗る。
7月 川中島の合戦。
1557年 4月 武田信玄、上野に出陣し、瓶尻(みかじり)にて長野業政と戦う。
7月8日 笠原越前守信為死す。
8月 川中島の合戦。
1559年 9月 信玄、松井田、安中に出陣。
1560年 5月 桶狭間にて今川義元戦死。
甘楽郡国峰城主小幡尾張守信貞は草津温泉に湯治に行った隙に、一族の小幡図書助景純に城を奪い取られる。信貞は妻子と共に甲斐に行き信玄に属す。
8月29日 長尾景虎、関東に出陣。上野の諸将、景虎に服属する。
9月27日 景虎、三夜沢の赤城神社に願文を奉納。
長野賢忠病死。彦太郎と弟は、景虎の陣中において誤解され殺される。
12月 那波城落城。那波顕宗は嫡子を人質にして降参。北条丹後守高広、那波城に入る。
1561年 2月 景虎、武蔵から相模に進撃し、小田原城を数十日囲む。
信玄、一万五千五百余人の軍勢を率いて上野に進攻、国峰城を落とす。
3月 景虎、鶴岡八幡宮にて、関東管領職を授受され、上杉政虎と名乗る。
6月21日 長野業政死す(1499-,63)。右京進氏業、後を継ぐ。
9月 川中島の合戦。信玄の弟信繁戦死。
11月18日 信玄に攻められ高田城降参する。国峰城を攻略。
12月 信玄、武蔵に進出し、北条氏康と合流し、松山城、倉賀野城を攻める。
1562年 2月9日 上杉謙信、上野に進攻し、館林城を攻める。城主の赤井文六は降参し、館林城は足利長尾景長に預けられる。
北条高広、廐橋城に入る。河田豊前守長親、廐橋城から沼田城に入る。
和田兵衛大夫、武田方となる。
9月 信玄、箕輪、総社、倉賀野を攻める。北条氏康と合流し松山城を囲む。
1563年 横瀬成繁、由良氏を称す。
2月 松山城落城。
6月 鎌原幸重、羽尾入道が万座温泉に湯治に行っている隙に城を取り戻す。
9月 長野原合戦。羽尾氏敗退し、西吾妻地方は武田領となる。
10月13日 岩櫃城落城。斎藤越前守憲広、嫡子憲宗は越後に逃げる。
12月5日 武田信玄、倉賀野城攻略のため、木部(高崎市)に陣を敷く。
閏12月 上杉謙信、上野に出陣。
1564年 4月 謙信、越後に帰る。
5月 倉賀野城落城。倉賀野直行、謙信に従う。
9月 北条高広、西上野に出陣する。
1565年 10月 斎藤憲広父子、嶽山城に入る。
11月 嶽山城落城。
1566年 2月 上杉謙信、関東出陣。常陸、下総を攻める。
閏8月 由良、足利長尾氏など東上野の諸将は上杉氏から離反し、北条方に付く。北条高広も妻子を捨て離反する。
9月 武田信玄、松井田城、安中城、箕輪城を攻め落とす。
11月 上杉謙信、関東に出兵するが、利根を確保して下野へ向かう通路を確保するのが精一杯。
上杉氏の押す関東公方藤氏死す。
この頃、鎌倉代官は大道寺資親。
1567年 1月 佐野昌綱、上杉方から北条方に寝返る。
2月 武田信玄、内藤修理亮昌豊と子の昌月を箕輪城に配置する。
5月 信玄、総社城を攻略する。
6月1日〜9月1日まで、信玄、草津の湯の一般湯治者の利用を停止する。
10月 謙信、佐野城を攻撃し、昌綱を降伏させ、子息や家臣など多くの人質を連行して引き上げる。
1568年 12月13日 武田信玄、駿河今川氏真を攻撃する。氏真を府中から掛川に追う。
1570年 3月20日 上杉謙信と北条氏康、講和する。
4月11日 北条三郎(景虎)、府内に到着する。路地の手配は由良成繁が担当。交渉担当者として、しばしば越後に赴いていた遠山康光は景虎の後見人として越後に止まる。交換の人質として上杉氏の重臣柿崎晴家の子が小田原に来る。
5月25日 春日山城にて謙信と景虎の養子縁組、謙信の姪との婚儀なる。
この頃、鎌倉代官は大道寺政繁。
1571年 4月15日 氏康は謙信に武田氏に対する出馬を要請するが、謙信は従わず。
10月3日 北条氏康死す(1515-,57)。
12月27日 氏政、武田信玄と同盟する。
1572年 1月 北条綱成、出家して道感と称し、康成は氏繁と改名し、玉縄城主となる。
閏1月 上杉謙信、関東に進撃する。
1573年 4月12日 武田信玄死す(1521-,53)。
由良氏によって桐生氏滅ぼされる。
1574年 北条高広、家督を景広に譲り、大胡に引退。
5月19日 真田幸隆死す(1513-,62)。
1575年 5月 長篠の合戦にて真田信綱戦死、湯本善太夫負傷し、それが元で死す。
真田信綱の弟、昌幸、後を継ぐ。善太夫の甥の三郎右衛門、跡を継ぐ。
1578年 3月13日 上杉謙信死す(1530-,49)。家督を巡って景勝と景虎の間に御館の乱起こる。
北条高広、出家し、安芸入道芳林と称す。
6月 上杉景勝と武田勝頼、同盟する。
6月13日 北条氏繁死す。8月28日説もあり。氏舜、跡を継ぐ。
9月2日 北条高広、景虎の求めに応じ、越後北条まで出陣する。
1579年 3月24日 上杉景虎、景勝に敗れ、鮫ケ尾城(新井市)にて自害。
5月6日 北条氏政、金山城の由良氏に上野国は北条領国と宣言する。
5月21日 北条氏邦を先鋒として猿ケ京城を攻撃し、7月上旬には沼田城を陥落間近までに追い込む。
1580年 5月 真田昌幸、沼田城を攻略する。
大胡常陸介高繁(北条高広一族)、大胡城の鎮守として、赤城神社から奈良原氏を招き、近戸神社を創建する。
1582年 3月11日 武田氏滅亡。
3月25日 滝川一益、箕輪城に入る。
5月 滝川一益、廐橋城に入る。廐橋城にて能興行を行なう。
6月2日 本能寺の変。織田信長死す。
6月7日 滝川一益、信長の死の知らせを受ける。
6月10日 滝川一益、廐橋長昌寺で能興行を行なう。
6月18日 滝川一益、上野武蔵国境の金窪(埼玉県上里町)において北条氏邦を先鋒とする北条軍と対戦する。
7月 真田氏、北条氏に帰属する。
9月 真田氏は北条氏から離れ、徳川氏に属す。
10月 北条氏と徳川氏、同盟する。
1585年 5月26日 由良氏、北条氏に降伏し、金山城を去り、桐生に移る。




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