酔雲庵

陰の流れ

井野酔雲

創作ノート



鎌倉公方と関東管領上杉氏




◎古河公方
  • 足利成氏
    (1438-1497.9.30)
持氏の4男。1449年、鎌倉公方を継ぐ。1454年、関東管領上杉憲忠を父の仇として討ち、以後、上杉一族と戦う。1455年、幕府軍に追われ、古河に拠る。1482年、幕府及び上杉氏と和議を結ぶが、ついに鎌倉には帰れず。
  • 足利政氏
    (1466-1531.7.18)
成氏の嫡男。家督相続前の1489年には扇谷定正に加担して相模、武蔵で山内顕定と戦うが、後、定正と対立し、1496年、顕定と共に定正の子朝良と戦う。1497年、父の死により家督を継ぐ。両上杉家の和が成立すると、伊勢早雲と対立する。1506年、嫡男高基が早雲と結んだため意見が衝突し、三年間、高基を古河から追放する。
  • 足利高基
    (  -1535)
政氏の嫡男。
  • 足利晴氏
    (1508-1560)
高基の子。妻は北条氏綱の娘。1552年、家督を義氏に譲る。
  • 足利義氏
    (1541-1583)
晴氏の子。母は北条氏綱の娘。


◎堀越公方
  • 足利政知
    (1435-1591.4.5)
義政の弟。1457年12月、関東に下向するが、鎌倉には入れず、山内顕房、顕定の領国だった伊豆堀越に居を構える。1482年12月、成氏と和睦し、政知は伊豆を料国とする事となる。
  • 足利茶々丸
    ( -1491.11.11)
政知の嫡男。政知が死ぬと異母弟潤童子とその母を殺し家督を奪う。早雲に滅ぼされる。



山内(やまのうち)上杉氏(関東管領)
  • 憲実
    (1410-1466.閏2.6)
《1419-1439》越後守護房方の子。上野国白井城。1449年、成氏が関東に下向し、鎌倉公方となると、鎌倉を去り、弟の重方(道悦)と共に諸国を巡歴した。
  • 憲忠
    (1433-1454.12.27)
《1448-1454》憲実の嫡男。妻は扇谷上杉持朝の娘。鎌倉公方持氏を滅ぼした父憲実に従って出家したが、家宰の長尾景仲らの要請で1446年、還俗し、憲忠を名乗り、翌年、山内上杉家の家督を継ぐ。鎌倉西御門の成氏邸にて殺される。22歳。
  • 房顕
    (1434-1466)
《1455-1466.2.12》憲実の五男。1444年、父から越後などの所領を譲られ、上洛して幕府に仕える。1454年に兄憲忠が成氏に殺された後、1455年、長尾景仲、上杉持朝らに迎えられ、山内上杉家を継ぐ。1459年、武蔵国太田庄などの合戦に敗れた後、五十子に陣を構える。陣中にて没す。33歳。
  • 顕定
    (1454-1510.6.20)
《1467-1510》越後上杉房定の次男、房顕の養子となる。上野平井城。弟を殺した長尾為景討伐のため、越後に出陣し、一旦は、為景を越中に追いやるが、やがて、その反撃を受け、越後国長森原(六日町)にて討ち死にする。
  • 顕実
    (1479-1515)
《1510-1512》古河公方足利成氏の子、顕定の養子となる。同じ顕定の養子憲房と対立し、憲房の家宰長尾景長に居城武蔵国鉢形城を攻略され、古河に逃れる。癩病を患い療養のため赴いた諏訪の温泉で没する。
  • 憲房
    (1467-1525.3.25)
《1512-1525》妻は扇谷上杉朝昌の娘。顕定のいとこ、顕定の養子となる。顕定の死後、上野平井城に拠り管領の顕実と争い、1512年、顕実を討ち山内家を継ぐ。
  • 憲寛
    ( -1551)
《1525-1531》古河公方足利高基の子、憲房の養子となる。1531年、憲政に攻められ上総宮原に移り、管領職を憲政に譲る。
  • 憲政
    ( -1579.3.17)
《1531-1557》憲房の子。
  • 謙信
    (1530-1578)
《1531-》越後長尾為景の末子。憲政の養子となる。

  • 執事
長尾景仲(1388-1463)
長尾景信(1413-1473)
長尾忠景( -1501)


扇谷(おおぎがやつ)上杉氏
  • 持定
    ( -1419)
氏定嫡男。
  • 持朝
    (1416-1467.9.6)
持定弟、持定の養子となる。修理大夫。成氏が鎌倉公方になると、家督を嫡男顕房に譲り隠居し、出家して道朝と号す。1457年、太田資長に命じて、江戸、河越、岩付の諸城を築かせ、自らは河越城に拠って成氏に対抗する。1462年、堀越公方政知と不和になり、成氏と和議しようとするが、将軍義政から慰留される。
  • 顕房
    (1435-1455.1)
持朝嫡男。1449年、家督を継ぐ。成氏の軍勢と戦い、敗れて逃げる途中、武蔵国夜瀬で討ち死にする。21歳。
  • 政真
    (1450-1473)
顕房嫡男。武蔵国五十子で討ち死に。
  • 定正
    (1443-1494.10.5)
顕房弟、持朝の3男。修理大夫。1473年、扇谷上杉家を継ぐ。1486年、道灌を暗殺。武蔵国高見原の陣中で落馬が原因で急死。52歳。
  • 朝良
    ( -1518)
朝昌の子、定正の甥、定正の養子となる。早雲、今川氏親と結んで山内顕定と戦う。
  • 朝興
    (1488-1537.4.27)
朝良のいとこ朝寧の子、朝良の養子となる。
  • 朝定
    (1525-1546.4.20)
朝興の嫡男。

  • 執事
太田資清道真(1410-1492)
太田資長道灌(1432-1486)
太田資康  (1471-1513)山内顕定に従う。


犬懸(いぬかけ)上杉氏
  • 氏憲禅秀
    (-1417)
関東管領《1411-1415》。山内憲定の後を受けて管領となり、鎌倉公方持氏を補佐する。1416年、持氏の屋敷を襲撃して鎌倉を制するが、敗れ自害する。
  • 憲顕
    ( -1455)
父禅秀が敗死した後、京都に逃れ、将軍義持に仕える。1422年、持氏討伐を幕府に願い、義持の許しを得て弟の教朝と共に軍兵を率いて東下し、持氏の軍と戦う。1455年正月、成氏と武蔵国分倍河原で戦い傷付き、高幡にて自害する。
  • 教朝
    (1408-1461)
堀越公方政知の執事。禅秀の子。結城合戦で活躍し、1457年、将軍義政の弟政知の下向に従い、執事となる。1461年、流行の疫病のため病死したとも自害したとも言われる。54歳。
  • 政憲
    (    )
堀越公方政知の執事。


越後守護の上杉氏
  • 房朝
    ( -1449)
朝方嫡男。
  • 房定
    ( -1494)
房朝のいとこ、房朝の養子となる。
  • 定昌
    (1453-1488,自殺)
房定嫡男。
  • 房能
    ( -1507.8.7)
房定三男、関東管領顕定の弟。守護代長尾為景に攻め殺される。
  • 定実
    ( -1550)
房実の子、房能の養子となる。守護代長尾為景に擁立されて房能を自害させ、越後守護となる。1510年、上杉顕定を滅ぼし、1513年宇佐美房忠と結んで為景を除こうとしたが敗れる。為景の没後は長尾晴景に擁されたが、晴景が弟景虎(後の謙信)と争うと両者を和解させ、景虎を春日山城主につける。

  • 守護代
長尾重景(1425-1482)
長尾能景(1459-1506)重景嫡男。
長尾為景(1471-1536)能景嫡男
長尾晴景(1509-1553)為景嫡男。
上杉謙信(1530-1578)晴景弟。




創作ノートの目次に戻る



inserted by FC2 system