沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲





第三部




10.逃避行




 千恵子たちは木陰に身を隠しながら東へと向かった。

 照明弾が次々に上がって艦砲弾も落ちていたが、昨夜までとは違って、所構わず続けざまに落ちて来る事はなかった。この辺りにはすでに敵が侵入して来ているので、艦砲弾は波平より南の方に集中していた。遠くから聞こえる艦砲の炸裂音に混じって、近くで鳴いている虫の声が聞こえて来た。あれ程ひどい攻撃にさらされても虫たちは生きていたのかと不思議に思えた。

 小高い山の中を進んで行くと山が切れて、目の前に畑が広がっていた。正面に高橋伍長が戦死した岩山が見えた。右の方に波平の部落も見えるが、きっと、民家はすべて破壊され、民家にいた避難民たちは全員、殺されてしまったに違いない。千恵子たちの治療もまったくの無駄に終わってしまった。

 波平の岩陰にいた浩子おばさんたちは大丈夫だろうかと心配になった。糸洲にアメリカ兵が現れたのだから、波平にも来たはずだった。あんな岩陰はすぐに見つかってしまう。見つかる前に伊原の壕に逃げている事を祈った。

「敵がいる」と先頭にいる今井兵長が小声で言った。今井兵長は岩山の方を指さしたがよく見えなかった。

「畑の中を突っ切って行くのは危険だな」と今井兵長は山の方に戻って来た。

 今井兵長が小野上等兵と寺内一等兵と相談している時、波平部落の上空に照明弾がいくつも上がった。岩山の方を見ると、武器を手にしたアメリカ兵らしい人影が三、四人いるのが見えた。千恵子は恐ろしさで、ゾッとした。あの岩山が敵の陣地になっているようだった。千恵子にはわからなかったが、戦車があったと朋美が言った。隠れる場所のない畑の中を進むのは危険だった。

「向こうを迂回して行く」と今井兵長が北の方を指さした。少し離れた所にサトウキビ畑が見えた。

「身を伏せたまま這って行け」と小野上等兵が言った。「敵に見つかったら殺されるからな」

 今井兵長が身を伏せ、そのままサトウキビ畑を目指して這って行った。

「後に続け」と小野上等兵が言って、トヨ子が従った。

 せっかく制服に着替えたのに汚れてしまうのはいやだったけど仕方がなかった。千恵子も土だらけになって地を這った。敵に気づかれずにサトウキビ畑にたどり着き、サトウキビの中に隠れようとしたら、

「中に入るな」と今井兵長が言った。「中に入るとサトウキビが揺れて音がする。このまま、脇を通って行くんだ」

 サトウキビ畑の端まで進むと、また(さえぎ)る物もない畑に出た。敵の姿は見当たらなかった。

「あそこに艦砲の穴がある」と寺内一等兵が言った。

「あそこに行くしかないな」と今井兵長はうなづいた。

 再び、地を這って艦砲の穴へと向かった。途中に死体が転がっていた。悪臭を放ち、何日も放置されてあるとみえてパンパンに膨れていた。男なのか女なのか、兵隊なのか住民なのかもわからなかった。

 艦砲の穴の中は泥んこだった。梅雨の時に溜まった雨水がまだ乾いていなかった。早く隠れろと言うので、千恵子たちは仕方なく、泥の中に身を隠した。

 照明弾が上がって明るくなった。アメリカ兵の影は見えなかったが、明るい中を進むわけにはいかなかった。暗くなるのを待って、次の艦砲の穴を目指した。足は泥だらけになって重くてしょうがなかった。もうどうにでもなれと自棄糞(やけくそ)になって、次の穴に飛び込んだ。幸い、そこは泥んこではなかった。

 草むらの中を通り抜けようと腹這いになって進んでいた時、突然、アメリカ兵が側を通り過ぎて行った。アメリカ兵は鼻歌を歌いながらゆっくりと歩いていた。千恵子たちは息を殺して、アメリカ兵が去って行くのを待った。心臓が止まってしまうのではないかと思う位に恐ろしかった。近くに戦車があった。このまま進むのは危険だった。草むらの中を逆戻りした。あぜ道に隠れながら、一人づつ這って行き、何とか敵に見つからずに突破する事ができた。

 ここまで来れば大丈夫だろうと草むらの中で一休みしていたら、照明弾が上がり、すぐ近くに艦砲弾が落ちて来た。ヒュルヒュルと不気味な音を立てて破片が千恵子の頭上を飛んで行った。

 鈴代が「痛い、やられた」と悲鳴を上げた。慌てて駈け寄って傷口を見たが、腕にかすり傷を負っただけだったので、ホッとした。由美が素早く治療をした。

 照明弾に照らされて回りがよく見えても、周囲は畑と草むらが広がっているだけで、集落は見えず、今、どの辺りにいるのかわからなかった。一体、いつになったら真壁に着くのだろう。波平から真壁までの道程はそれ程遠くなかったのに、照明弾が上がる度に声を殺して隠れ、暗くなったら腹這いになって進んでいたのでは、いつになったら着くのかわからず、非常に疲れた。

「あそこに誰かいる」と初江が言った。

 見ると五、六人の人影が歩いていた。子供もいるので避難民らしかった。

「あそこに道があるらしいな」と小野上等兵が言った。

「道があるという事はその先に村があるという事だな。よし、あの人影に付いて行こう」

 腹這いになるよりは道を歩いた方がいいと千恵子たちも賛成したが、今井兵長は道の方には出なかった。敵が地雷を仕掛けたかもしれないので、道を歩くのは危険だと言う。畑の中を道に沿って身を屈めながら人影を追った。

 しばらく行くと集落らしい影が見えて来た。村外れに大きな亀甲墓(かめこうばか)があり、大勢の人が隠れていた。ここはどこかと聞いたら真壁の外れだという。すでに、真壁部落にはアメリカ兵がウロウロしていて危険だから行かない方がいいと言った。

 皆、疲れ切っていた。ここで夜を明かした方がいいだろうと千恵子たちはお墓の後ろの方に入れてもらって休んだ。照明弾が上がるとお墓の回りに死体がいくつも転がっているのが見えた。すぐ前にある死体は長い髪を振り乱した若い女の死体で、岩陰の間に足を投げ出して座り、恨めしそうな顔をして千恵子たちの方を見ていた。千恵子はゾッとして、慌てて視線をそらした。

「これからずっとあんな風にして国頭まで行くの」と千恵子の隣にいた悦子が聞いた。

「これから先はもっと厳しいんじゃないの。敵はもっといっぱいいるはずよ」と千恵子は言いながら、そんな所を無事に突破できるのだろうかと不安になった。途中で怪我をして置いて行かれ、たった独りで苦しみながら死んで行き、あげくの果ては(みにく)く膨れた死体になるなんて、そんなの絶対にいやだった。




 千恵子たちがお墓の中で休んでいた頃、浩子おばさんはまだ波平の岩陰に隠れていた。すでに、先生や生徒たちは伊原の第一外科壕の方に避難していたが、浩子おばさんと上原婦長、国吉看護婦は、重傷を負って動けない棚原(たなばる)看護婦の看護をしながら残っていた。看護婦や生徒たちの先頭になって、民家にいる負傷兵の治療に当たっていた上原婦長も極度の疲労で体調を崩して熱を出していた。

 午前三時頃、伊原から衛生兵と看護婦、生徒たちが迎えに来て、棚原看護婦を戸板に乗せて伊原の第一外科壕を目指した。浩子おばさんも上原婦長をいたわりながら伊原へと向かった。

 伊原にある第一外科壕は第三外科壕よりも手前にあり、壕内には軍医、衛生兵、負傷兵、看護婦、生徒たちが二百人余りも避難していて身動きもできない状況だった。艦砲弾の炸裂する中、ようやく壕にたどり着いたが、ここも危険な状況となって解散命令が下った。衛生兵は武器を持って斬り込みに行き、看護婦、生徒は各自、脱出せよという。浩子おばさんは棚原看護婦に別れを告げて、上原婦長と一緒に第一外科壕を出た。向かったのは第三外科壕だったが、そこも危険が迫っていて、まもなく解散になるというので、すぐにそこを出て南へと向かった。

 伊原周辺は敵に追われた避難民たちが右往左往していて、照明弾の明かりの下、まるで祭りのような人出だった。その人出を目がけて艦砲弾が落ち、人々は次々に吹き飛ばされた。艦砲弾が落ちると慌てて身を伏せ、土煙が消えると、何事もなかったかのように、また歩き始めた。目の前で誰かが死んでも、もう何も感じなくなっていた。人々は仮面のような無表情で当てもなくさまよい歩いていた。

 浩子おばさんたちは千恵子たちが山部隊の第二野戦病院に移った後も艦砲射撃の合間に波平部落に出掛けて行って、負傷者の治療に当たっていた。九日から始まった集中攻撃で民家は片っ端から破壊されて炎上し、民家にいた避難民や負傷兵は皆、死んでしまった。千恵子たちがいた小屋も直撃弾を受けて吹き飛び、跡形もなくなっていた。浩子おばさんは驚いて駈け寄ったが死体はなかった。バラバラに飛び散ってしまったのだろうかと周辺も捜したが、人の死体らしい物は何もなく、きっと、逃げたに違いないと安心した。安心したもののどこに行ったのだろうと心配していたら、糸洲の第二外科壕から本部壕へと伝令受領に行く生徒が波平に寄って千恵子の言伝(ことづて)を伝えてくれた。山部隊の病院壕にいるのなら安心だと伊原に移動したのだった。

 第三外科壕にいた姉の奈津子は浩子おばさんが来た事も知らず、師範女子と一高女の生徒たちが歌う『別れの歌』を聞いていた。第三外科壕には先生と生徒が約五十人、軍医、看護婦、衛生兵らの病院関係者が約三十人、他の部隊の通信兵や民間人が約二十人入っていて、解散を前に分散会が催されている最中だった。なお、糸洲の第二外科壕は十八日の朝、馬乗り攻撃を受けて、壕内にいた人たちは暗くなるのを待って脱出した。




 十九日の夜が明けた。ウトウトしていた千恵子は目を開けた。開けた途端に目に入ったのは老婆の姿だった。目の前の岩陰に老婆の死体がちょこんと座り込んでいた。千恵子は悲鳴を上げた。千恵子の悲鳴に皆が目を覚ました。

「チーコ、どうしたのよ。アメリカーが来たの」と初江が聞きながら外を眺めた。

「そうじゃないのよ。あれよ」と千恵子は老婆の死体を指さした。

「あのおばあさん、生きてるの」

「そうじゃないわよ。あの人、夜、見た時、若かったのよ。それが今、おばあさんになってるのよ」

「チーコ、寝ぼけてんじゃないの」と初江は相手にならなかったが、

「あたしも見たわ」と悦子が言った。「確かに若い女の人で、恨めしそうな顔をしてたのよ」

 若い女の死体を見たのは千恵子と悦子だけだった。そんな馬鹿なと誰も信じなかったけど、千恵子と悦子は絶対に昨夜は若かったのよと譲らなかった。きっと、何かをあたしたちに伝えたかったのよと悦子は言ったが、若い女の幽霊が、一体、何を伝えたかったのかはわからなかった。

 昨夜、照明弾の明かりで見た以上に、お墓の回りには死体がいっぱいあった。古いのから新しいのまで、まるでゴミのように捨てられてあった。明日の我が身を見ているようで悲惨だった。

 夜明けと共にトンボとグラマンが飛び回って、機銃攻撃を始めた。真壁部落の方からも機銃の音が聞こえて来た。今井兵長は小野上等兵と寺内一等兵を連れて、真壁部落に偵察に出掛けた。千恵子たちは乾パンを食べながら待っていた。昨日の朝から何も食べていなかった。緊張状態が続いていたので、それ程、おなかは減っていなかったが、先の事を考えると食べられる時に食べておかなければならなかった。何げなく、外を見た千恵子はまた悲鳴を上げた。老婆の死体が再び、若い女の姿になっていて、苦しそうな顔して口から血を流していた。

「チーコ、一体、どうしたっていうのよ」と初江が聞いた。

「また、出たの」と千恵子は顔をそむけながら老婆の死体を指さした。

「チーコ、疲れたのよ」と初江は慰めた。

「エッコ、あんたなら見えるでしょ」と悦子に聞いたが、今回は悦子にも見えなかった。

「少し、休んだ方がいいわよ」とみんなが言った。

 極度の緊張と疲労で幻覚を見ているのだろうかと千恵子は首を振って、恐る恐る老婆の死体を見た。やはり、若い女の死体に見えた。しかも、それは姉の姿に似ていた。

「お姉ちゃん」と千恵子は思わず、つぶやいた。死体が微かに笑ったような気がした。もう少しよく見たいとまばたきをした途端、姉の姿は消えてしまって、老婆の姿に戻っていた。

「見えたのね」と誰かが言った。

 振り返ると中年の女の人が立っていた。

「そのおばあさん、首里から来た有名なユタ(霊能者)らしいのよ。五日位前にそこの道で艦砲にやられて、亡くなる前に海の方を向けて座らせてくれって言い残したのよ。それで、そこの岩陰に座らせたの。誰か身内の者が亡くなるとおばあさんの姿を借りて現れるらしいわ。あたしはまだ見た事ないけど、ここに避難していた人で、嫁に行った娘の姿を見て、慌てて、娘のいる壕に飛んで行ったら、亡くなってたって言ってたわよ」

「お姉ちゃんが‥‥‥そんな馬鹿な‥‥‥」

 姉は大きな自然壕にいた。艦砲がいくら落ちても大丈夫だろうが、アメリカ兵に見つかって、入口から爆弾を投げ込まれたら安全とは言えなかった。そんな事、信じたくはなかった。信じたくはなかったが、あれは紛れもなく姉の姿だった。すぐにでも伊原まで飛んで行って安否を確かめたかった。

「チーコ、昨夜(ゆうべ)、見たのは古堅さんじゃないかしら」と話を聞いていた悦子が言った。

「何となく気になっていたのよ。古堅さんに似てるって思ってたんだけど、今の話を聞いたら、そんな気がしてきたわ。身内じゃないけど、チーコとあたしにしか見えなかったんだから、あれは古堅さんよ。古堅さんがあたしたちにお別れを言いに来たのよ」

 千恵子も古堅看護婦に似ていると思ってはいた。でも、古堅看護婦がこんな所で死んだなんて信じたくなかったので、心の中で否定していたのだった。千恵子たちが認めなかったので、あんな恨めしそうな顔をしていたのだろうか。千恵子は老婆の死体に向かって両手を合わせた。

 今井兵長たちが戻って来た。真壁部落はすでに敵に占領されているという。敵の戦車がいくつもあって、機関銃を持ったアメリカ兵が民家を回り、生存者を集めて捕虜(ほりょ)にしている。戦車に()かれて殺されると思うと可哀想だが、助ける事はできない。奴らはやがて、ここにも来るだろうから早く逃げたほうがいいと言った。千恵子たちは荷物を背負うとお墓を後にした。

 上空を飛び回っている敵機に気をつけながら身を屈めて、畑の中を南へと向かった。後ろを振り返ったら、お墓にいた人たちが、ぞろぞろと後に従っていた。鈴代が先頭を行く今井兵長に知らせた。

 今井兵長は振り返り、「何てこった」とつぶやいて空を見上げた。「これじゃあ、敵に丸見えじゃないか。とにかく、あそこまで走るぞ」とサトウキビ畑を指さした。

 千恵子たちが走り出すと、後ろの人たちも走り出した。サトウキビ畑の中に三十人以上の人たちが集まった。年寄りもいるし子供たちもいた。寺内一等兵が付いて来られても困ると言ったが、避難民たちも必死だった。どうか、一緒に連れて行ってくれと頼み込んだ。

 今井兵長が避難民たちから、この辺りの地理を聞いた。このまま南へ向かえば米須(こめす)という部落に出て、さらに南に行けば海に出るという。南東の方に丘が見えて、艦砲の集中砲火を浴びていた。あそこが摩文仁(まぶに)かと聞くとそうだとうなづいた。摩文仁には首里から撤退した司令部があると千恵子たちも聞いていたので、あそこかと納得した。敵も司令部の位置を察知して集中攻撃を仕掛けているようだった。

 今井兵長は地面に地図を書きながら、あちこちの地名を聞いていた。真栄平、具志頭(ぐしちゃん)富盛(ともり)という千恵子たちの知っている地名も出て来たし、知らない地名も出て来た。国頭突破をするため、地名を頭に入れているようだった。

「よし、取り敢えずは米須に向かう。そこまで行ったら解散だ。いいな」

 千恵子たちは草むらや艦砲の穴に隠れながら南へと向かった。




 千恵子の姉の奈津子が亡くなったのは本当だった。分散会も終わった夜明け近く、壕を出る準備をしていた時、入口近くにいた衛生兵が「敵襲!」と叫んだ。

「静かにしろ」と衛生兵が言いながら、機関銃を入口に向けて身構えた。

 アメリカ兵の声が聞こえて来た。壕内にいた者たちは動きを止めて息をひそめた。

「コノゴウニジュウミンハイマセンカ」と変な日本語が聞こえて来た。「ムダナテイコウヲヤメテデテキナサイ。デテコナイトバクダンヲナゲコミマス」

 日本語での敵の呼びかけは何度もあったが、誰も答えようとしなかった。物音一つ立てずに押し黙っていた。

 とうとう爆弾が投げ込まれた。爆弾は岩にぶつかって青い火が飛び散った。

黄燐弾(おうりんだん)だ」と衛生兵が叫んだ。また、黄燐弾が投げ込まれた。次に投げ込まれた爆弾は白い煙を噴き出していた。あっと言う間に、何も見えなくなってしまった。

「ガス弾だ」と誰かが叫んだ。

「手拭いを濡らして口と鼻を押さえるんだ」と別の声が言った。

 奈津子もすぐに水筒の水でガーゼを濡らして口と鼻を塞いだ。

「苦しいよー」と生徒たちが叫んでいた。

 奈津子も苦しかった。やがて手足が(しび)れて来て、誰かが歌っている『海ゆかば』を聞きながら意識は薄れて行った。薄れる意識の中で、千恵子と康栄、父と浩子おばさんの顔が浮かんだ。疎開した母や祖父母、妹や弟の顔が浮かんでは消え、南風原で戦死した同期生の道代と有紀に誘われるように、あの世へと旅立ってしまった。

 この時、八十余名がガス弾にやられて戦死した。軍医二人、将校一人、衛生兵三人、看護婦十一人、患者一人、先生一人、生徒七人が奇跡的に生き延びた。生き残った将校は看護教育が始まったばかりの頃、教官として二高女にも来ていた野口少尉だった。

 初江が会いたがっていた野口少尉は山城の本部壕にいたが、将校として部下を引き連れて前線に斬り込みに出た。しかし、敵の攻撃は激しく、前線に着く前に多数の部下を失って、仕方なく生き残った部下を連れて引き上げ、第三外科壕に入っていた。ガス弾にやられて意識を失い、気がついてみると辺り一面、死体の山になっていた。野口少尉は生き残った鶴田軍医、福原看護婦らと壕を出て国頭を目指したが、山城の丘へ追い詰められて、最期は拳銃で自決した。野口少尉と同じように、ガス弾では死ななかったが、壕を脱出した後に何人かは戦死して、無事に生還したのは軍医一人、衛生兵一人、看護婦六人、患者一人、生徒五人だけだった。

 奈津子が亡くなった頃、浩子おばさんは山城の丘を登っていた。伊原から山城への道は避難民と一緒に、看護婦や生徒たちが群れをなして、ぞろぞろと動いていた。

 夜が明けると同時にトンボが何機も飛んで来て機銃を撃ち始めた。人々は悲鳴を上げながらパッと散って行った。あちこちから砲弾が次々に飛んで来て炸裂した。グラマンも低空で飛び始め、機銃を撃って来た。逃げ惑う人たちが次々に倒れて行った。

 北の方からはキャタピラの音を響かせて戦車が火を吹きながら近づいて来る。辺り一面、土煙が舞い上がり、硝煙の臭いが立ち込め、耳をつんざく砲弾の炸裂音の合間に人々の悲鳴が絶え間なく聞こえて来た。必死になって丘を登っても、向こうに見える海は水平線が見えない程に敵の軍艦がずらりと並び、艦砲を撃ち上げている。海岸には打ち上げられた魚のように避難民たちの死体が波に洗われている。もうどこにも逃げ場のない地獄絵が展開していた。

 浩子おばさんは比嘉(ひが)軍医、上原婦長、国吉看護婦、仲里看護婦と一緒に、艦砲弾の中を夜通し歩き続け、夜明け頃、ようやく山城の丘にたどり着いた。グラマンが飛んで来ると草むらの中に逃げ込んだ。喉が渇いていたけど水はなかった。こんな所にいたら、いつかはやられてしまうとわかってはいても、雨のように落ちて来る砲弾の中、移動する事はできなかった。

「もし、結婚したら子供をたくさん作りたいね」と突然、上原婦長が言って、やつれた顔して笑った。

 上原婦長は浩子おばさんより一つ年上だった。五歳の時、父親が亡くなり、二十歳の時に母親が亡くなった。四つ年下の妹と二人だけになって、妹が嫁に行くまでは自分は結婚しないと決めていた。妹は国頭に疎開しているので心配はなかった。戦争が終わったら、妹を立派な家に嫁がせ、自分も結婚したいと願っていた。浩子おばさんは末っ子なので、妹を思う気持ちはわからないが、結婚して子供を作りたいという気持ちはよくわかった。

「あたしもよ」と浩子おばさんが言った時、直撃弾が飛んで来た。

 上原婦長は危険を感じて、とっさに仲里看護婦をかばった。浩子おばさんは身を伏せる暇もなかった。浩子おばさんも上原婦長も国吉看護婦も比嘉軍医も即死だった。上原婦長のお陰で仲里看護婦だけが生き残って、米軍の病院で意識を回復した。






山城の丘



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