酔雲庵

摩利支天の風~若き日の北条幻庵

井野酔雲

創作ノート




「神奈川県史」より





◇北条氏の文化
 
板部岡紅雪と皆川山城守は山上宗二の弟子。
1533年6月、参議勧修寺尹豊が伊豆に下向するについて、天皇は御料所回復の事を氏綱に向け斡旋させる。氏綱はそれに奉答すると共に金一万疋を献じる。
1559年5月、北条氏堯が山伏不動坊を使いとして京都吉田家に黄金三千疋をもたらし祈祷を依頼する。
1568年2月、吉田家より氏政、氏直父子に御祓と書状が送られる。8月、氏康、吉田家に書状と太刀を送る。
伊勢備中守、伊勢兵庫頭、伊勢八郎、大和氏、小笠原六郎、小笠原弥六らは北条家の客人。
1534年6月3日、氏綱、鶴岡八幡に参詣した後、伊勢備中、子息八郎、伊勢又次郎、大和兵部少輔入道、千秋入道らを饗応する。
小笠原信濃守貞宗の兄貞長の子孫に兵部少輔元続という者あり、その主足利義澄(1479-1511)の死後、東下して北条氏に属する。元続は氏綱に仕え、相模国飯泉郷(のち矢畠郷も)を給せられる。その子康広(1531-97)は播磨守と号し、氏康、氏政の下で武者奉行を務め、氏直が1584年徳川家康の娘を娶る事になった時、使節として浜松に赴く。小田原落城後高野山に赴き、1512年以後は家康に仕え、1597年、67歳で没した。
鶴岡八幡宮の供僧相承院快元。
1532年5月、氏綱、鎌倉代官大道寺盛昌を遣わして社頭の古木などを調査させ、小別当を上総国生弓の足利義明の元に遣わし協力を求める。10月17日、氏綱は侍15人、若党20人ばかりを連れて八幡宮に参詣。22日に再び参詣し、修造計画の大綱を示す。
1540年11月、正遷宮を行なうまで、氏綱は毎年2、3回は八幡宮に参詣し、工事の進捗状況を検分している。すなわち、1533年4月には数百人を連れて境内を巡見し、8月にも参詣、巡見し、9月にも社頭に赴き番匠衆へ下知する。1534年2月には修造工事の割り当てを定めて下知の文書を発し、その6月、9月にも参詣する。11月には諸奉行を招集して工事の指示を与え、1535年2月、6月には諸職人に酒、飯などを給し、5月には作料(工事費)として一万二千疋を小田原から届ける。1536年8月には仮殿遷宮が行なわれる。1535年7月、8月、1536年4月、10月(氏康、為昌を伴い、銀奉行も任命する)、1537年4月、5月、1538年2月にも参詣する。1535年9月、1536年3月、1537年5月には建長、円覚両寺の僧が社頭で大般若真読を行う。
鶴岡八幡宮修造工事に参加した職人組織は番匠、鍛冶、石切、塗師(白壁師も含む)、大鋸引、経師、唐紙師、絵師、檜皮師、瓦師、畳指の11種を上回る。
1559年の所領役帳には、その他、切革、青貝師、縫詰、銀師、紙漉、結桶師、笠木師など。
小田原新宿の鋳物師山田二郎左衛門は河内国日置庄狭山から1534年に関東に来住したと伝え、氏康から鍋、かんす、火鉢などの製作を命じられる。1586年には鋳物師棟梁を仰せ付けられる。
1589年末には大筒鋳造を命じられる。下野国の佐野天命釜にならって山田家が製作した茶釜は小田原天命と呼ばれた。
奈良大工与次郎は1533年8月16日、伴工10人を連れて玉縄に到着、三日後には楼門工事に取り掛かる。翌年1月末に与次郎は鎌倉大工新右衛門と共に工事の打ち合わせのため小田原に赴く。2月1日には玉縄、伊豆、鎌倉の各10人づつで番を結ぶ事が定められる。
奈良から来ていた塗師七郎左衛門は長らく小田原に住んでいたが、1535年3月から鶴岡八幡宮の工事に出勤する。
伊勢山田の住人絵師珠牧は1540年7月、内陣の障子に絵を画く事を氏綱より命じられる。
狩野玉楽は氏綱に仕えた絵師。
画僧として有名なのは建長寺の賢江祥啓と円覚寺の如水宗淵。雪舟の破墨山水図は宗淵が雪舟より与えられたもの。
玉縄城主北条左衛門大夫氏繁と幻庵は絵を得意とする。
1508年、早雲は大徳寺73世東渓宗牧から『天岳』の道号と一偈とを与えられた。宗瑞と称したのは1495年以前、早雲庵主と称したのは1499年以前。
以天宗清は蜷川氏の出身。
天台宗寺院‥‥‥土屋村(平塚市)大乗院(仙波中院末)
古義真言宗寺院‥‥‥ 足柄上郡金子村最明寺(京都東寺宝菩提院末)、足柄下郡国府津村(小田原市)宝金剛寺(京都東寺宝菩提寺末)、足柄下郡小田原宿大工町蓮上院(京都東寺宝菩提寺末)
本山派修験寺院‥‥‥ 足柄下郡小田原宿宮前町玉滝坊(京都聖護院先達奉行職)
以天の弟子に大室宗硯、松裔宗佺、南岑宗菊らがあり、大室は1547年頃、北条彦九郎為昌を開基として本光寺を小田原場内に建てる(後、氏康の娘で小笠原播磨守に嫁していた人の計らいで江戸に移り種徳寺と改める)。
松裔は糟屋の出身で、早雲寺山内に天用院を開く。大室の弟子に明叟宗普があり氏康の没後その牌所として大聖院が建立された時その開山となる。明叟の弟子に泰翁宗安があり、彼は岩付太田氏の臣恒岡越後守の弟である。1567年に越後守が戦死すると、還俗して家督を継ぐよう氏政から進められるが、それを辞退し武蔵平林寺(当時岩付にあって後野火止に移る)の再興に尽くす。同じく明叟の弟子に希叟宗罕があり、岩付の太田氏資の牌所としてその養子氏房が1583年頃、小田原に広徳寺を建立した時、中心となって働き、師の明叟を勧請開山とした。以上以天の流れを汲む6人の僧はいずれも早雲寺の住持に就任し、また大徳寺の住持ともなった。
臨済禅の寺院で北条氏一族を開基とするものは、以上の他に氏綱の春松院、時長(1560年没)の宝泉寺、幻庵母の栖徳寺、氏綱室の養珠院、氏康室の願修寺、氏政室の黄梅院など、いずれも小田原に建てられた。
玉滝坊は松原明神の別当を務め、聖護院の配下。その中興者の順愛は1535年春。紀州加多浦で異国人から鉄砲を入手して氏綱に献上する。玉滝坊が年行事として管轄している伊豆国、相模国および武蔵国都築、久良岐、多摩の三郡の先達に率いられる人々は高野山に参詣した際は必ず高室院に宿泊する事に定まっていた。この高室院が高野山における北条氏の檀那寺であった。高室院は古くから伊豆地方に末寺を多く持っており、北条氏と檀宴を結び、更に北条氏の相模進出につれて相模へも檀那網を広げた。
1511年、早雲は底倉村(箱根町底倉)に対し諸公事の免除を下知し、木地挽業を保護する。
1556年、北条氏は畑宿(箱根町畑宿)の源左衛門、九郎左衛門、孫右衛門に諸役の免許を与え、木地挽業を保護する。
箱根山中の木地師たちは箱根権現に杓子を収めていた。
桑原五郎左衛門嘉高は1523年、小田原に来て、1540年8月、1542年8月15日、鶴岡八幡宮にて法楽の舞を務め、氏綱より虎の朱印状を賜る。嘉高の次の代太郎左衛門嘉政より大橋姓に改める。
嘉政の子は治部左衛門嘉義。嘉政は氏康の晩年から氏政、氏直に舞太夫職として仕え、大いに寵愛される。1545年3月21日、氏康の命により松原大明神社殿にて法楽の舞を務める。同年9月26日、氏政より諱一字を賜り、実名を政義と改める。1586年、玉縄城主北条氏勝室より歌舞懇望につき政義、氏勝の被官となる。
鶴岡八幡宮‥‥‥別当、供僧(25坊)、脇堂供僧その他の役職あり。
1532年から再建造営始まる。5月18日、鎌倉代官大道寺盛昌と笠原信為が使者として来て、まず社頭の古木や近隣の樹木などの調査をし、また造営について生実御所足利義明の領掌を得るために子小別当の良能が上総真里谷の武田保信の所へ遣わされる。その後、10月22日には氏綱が社参して修理の大概を定め、材木や番匠を手配させると共に、奈良の番匠等の下向を要請している。1533年2月、氏綱は神主の大伴時信らを北武蔵や上野の上杉方の諸将に、3月には小別当の良能を上総、下総に派遣して派遣して勧進させたが、4月11日になると大道寺盛昌と太田正勝を総奉行に、蔭山図書助ら3名を木屋奉行に命じ、仮殿事始めを行い造営を開始した。
氏綱は部将、侍等に対して所領役として間数を定めて普請を受け持たせると共に造営費用の割り当てを行っている。1534年11月までの費用が2908貫815文で、このほかに鉄の代金が120貫文。
材木は社地や禅居庵の山などのものも使用されたが、相模の田名(相模原市)からも切り出されているし、遠く上総、安房、駿河などからも運ばれた。前浜などに到着する材木は伊豆、相模、武蔵の郷村から郷役として駆り出された人足や鎌倉中から動員された人足などが運びあげると共に陣衆もこれに当たっている。領国の郷村には鍛冶用の炭や藤縄なども割り当てられた。
神宮寺の造営も1535年から始められたが、翌年の8月28日には延引されていた仮殿の遷宮が行われて、いよいよ社殿の造営が開始される事となった。
1540年11月21日に正殿遷宮、すなわち落慶式が行われた。当日は下宮で神楽、相撲、経供養等が、翌22日には上宮で転経、舞楽等が、氏綱、氏康、長綱等の北条一門、部将、京都の人々が臨席し盛大に行われた。
小田原攻略に松田氏の活躍。
1498年8月15日、地震による津波のため鎌倉では大仏殿が破壊され200人を越える溺死者が出る。
1504年、京都の医師陳定治が早雲の招きに応じて小田原に下向する。定治は宇野氏を称したが透頂香(外郎の薬、痰の妙薬で髪の臭気を去るのにも用いた)の製造販売についての独占権を与えられる。
1510年、早雲は鶴岡八幡宮別当空然(こうねん、雪下殿)を還俗させ、政氏に対抗させて義明を名乗らせる。
1512年8月13日、早雲、鎌倉に入り鶴岡八幡宮の供僧相承院快元と会う。
1513年1月29日、早雲と三浦義同の戦いがあり、藤沢の遊行寺焼失する。
1513年9月29日、上杉朝興の武将、義同の娘婿太田資康、三浦にて戦死。
1512年10月、早雲、三浦氏に対する前線基地として玉縄城を築城する。
新井城を攻略した早雲は三浦義同の家臣であった横井越前守らを取り立て同城を守備させるとともに、三崎に城を築いて安房の里見氏の来攻に備えた。
1513年、鎌倉を手中にすると寺社領とわずかな私領を除いて、そこを直轄領とした。
鎌倉代官の初代は大道寺盛昌、二代は周勝(1552)、三代は資親(1566)、四代は政繁(1570)。
小代官は後藤若狭守(1520)、後藤孫次郎繁能(1520)、後藤善右衛門(1538)、後藤宗左衛門尉忠成(1538)、後藤右近尉(1550)、後藤備前守(1559)、後藤右近将監(1563-)、富岡美作守(1580)富岡の下に小管民部丞らがいた。
1521年以前、箱根湯本の地に早雲庵が存在し、以天宗清は早雲の招きにより同庵に庵居していた。
笠原信為は1529年12月13日に早雲寺殿御茶湯料として熊野堂(横浜市港北区菅田町)5貫文の地を小机の雲昌院に寄進している。同院は信為の開基といい、彼は1557年7月8日逝去した。
江戸城攻略と共に入間郡毛呂の土豪毛呂氏や岡本氏も氏綱に内応し、北条氏の武蔵における最前線基地は毛呂城や石戸城(埼玉県北本町)に進出した。
1525年2月6日、氏綱は扇谷朝興の武将太田資頼の岩槻城を攻めて奪取し、渋江氏に与える。
1523年6月12日以降1524年11月23日以前に氏綱は北条姓を名乗る。
1533年3月11日以前に氏綱は従五位下、左京大夫に叙任される。
1533年6月、参議勧修寺尹豊が勅使として氏綱の元に遣わされ伊豆の御料所の貢租献上を命じられている。7月に入って小田原に到着。後奈良天皇は氏綱に太刀を賜ったが、尹豊は氏綱からの御礼物などを携えて10月末に帰京している。
1533年3月には近衛尚通の娘で関白近衛稙家の姉にあたる女性が氏綱の内室となっていた。
1523年10月、尚通から氏綱に『酒天童子絵詞』が贈られている。1530年2月、1531年3月、1532年4月にも贈答が行われている。1532年12月尚通は氏綱の要請を入れて鶴岡八幡宮造営のために奈良番匠等の下向を許す。尚通は扇谷朝興に対しても1529年6月『伊勢物語』を書写して贈っている。
1532年12月、扇谷朝興は先代朝良の子藤王丸を殺し、翌年、その娘を甲斐の武田信虎の子晴信に嫁がせ、武田氏との友好関係を深めた。
1539年、氏綱の娘が古河公方晴氏に嫁ぐ。
1522年9月、氏綱、相模一の宮寒川神社を再建。
1523年6月、氏綱、箱根権現の再建。
1524年頃、相模六所明神(小田原市国府津)と伊豆山権現の再建。
1526年9月8日、氏綱は伊豆三島社の社人に対し同社造営費用を諸国で勧進するよう命じる。
氏康の嫡男新九郎は1552年3月21日死亡する。
1541年10月、河越城を守備する北条軍と上杉軍との間で二度にわたり攻防が展開され、相模田原城(秦野市)を本拠としていた大藤一族(大藤信実、大藤金谷斎信基、大藤与次郎)は河越城の北曲輪を守備して戦功を立てる。
氏康は1542年、相模の中央部と武蔵の東南部、翌年には相模の中央部と武蔵の南部および同東南部さらに伊豆の韮山付近で検地を実施する。
1542年4月、鶴岡八幡宮の大鳥居を由比ケ浜に再建する。
1542年6月、後奈良天皇は北条家の菩提所早雲寺を勅願寺としている。
聖護院道増(近衛稙家の弟)、北条氏康と今川義元の和睦を努めたが成功しなかった。
1545年7月、義元は駿河善徳寺(吉原市)に兵を進め、8月氏康の軍と今井狐橋で戦いを交えたが、この時、武田晴信は義元を援助している。義元の進撃に呼応して憲政は9月に扇谷朝定と共に河越城を攻囲するに至り、氏康は重大な危機にたたされた。
10月10日、氏康は鶴岡八幡宮に願文を納めて義元に対する戦勝を祈り、3年間毎月参詣し万度祓を行うと誓う。10月末、古河公方晴氏も河越城攻めに加わる。
1546年の河越合戦の後、松山城は北条の手に落ち、滝山(八王子市)の大石定久、天神山(秩父郡長瀞町)の藤田邦房らが氏康に服属する事となる。9月に松山城は太田資正に奪われたが、翌年になると資正の部将上原出羽守が氏康に来属した。
1547年12月、資正は松山城を上田又次郎朝直(案独斎宗調)に預け岩槻城に移ったが、氏康は上田の内応と共にただちに岩槻城を攻囲した。1548年1月18日になって氏康は資正と和したが、資正の許を去って北条方に寝返る武士が多かった。
1546年3月、氏康は相模の寒川神社の宝殿を再興する。
1546年7月、武蔵小沢郷(川崎市多摩区)218貫文の地を垪和左衛門大夫に与える。
1547年、氏康は鎌倉中に検地を行う。
1542年5月3日、玉縄城主為昌、死亡する。1547年になって菩提所本光寺が小田原に建立され、その9月、氏康は相模の下中村のうち上町分百貫文の地を寺領として寄進する。
1552年12月、足利晴氏はその子義氏に家督を譲る。義氏は氏綱の娘と晴氏の間に生まれた子であるが、晴氏にはこのほか梁田晴助の娘との間に生まれた藤氏らがいて、義氏の兄となっていた。
1558年8月頃、義氏を鎌倉葛西ケ谷から関宿城に移す。
1555年11月、氏直の兄生まれるが夭折する。母は晴信の娘黄梅院。
1557年11月、晴信は黄梅院の安産を甲斐勝山の浅間神社に祈る。
1560年3月、常陸の佐竹をはじめ、秩父、千葉、佐野、大胡、正木、宇都宮、結城、小山、太田などの関東諸国の大名衆、国人らが関東管領職内定を祝い長尾景虎に太刀を贈る。
景虎の来襲の時、氏康は本願寺の協力を得るため、一向宗禁止令を解除する。
1559年は天候が不順で、1560年は長雨が続き飢饉となる。1559年には疫病が流行り、それが三年間も流行した。
将軍義輝の母は近衛尚通の娘で、妻は近衛稙家の娘。
1566年9月、由良成繁、国繁父子が北条方に寝返る。
1567年4月、北条高広、梁田晴助、持助父子が北条方に寝返る。
1569年11月、武田軍の撤退後、小田原城の修築を行う。
1570年8月6日、奉行安藤良整らは円覚寺の僧に鶴岡八幡宮神前で大般若経を真読させ、氏康の病気平癒を祈る。この頃、氏康は中風のため子供達の見分けもできず、言葉も話せない状態だった。1571年10月3日死す。
浦賀と西浦(沼津市)が北条水軍の二大基地。
相模前川(小田原市)や武蔵の金沢付近で製塩業が行われていた。
北条氏は30日以上職人衆を使役する場合、一日一人50銭(文)の作料を与えた(1568年)。
人足の雇賃は一日一人当たり20文(1571年)。
1562年7月、鎌倉円覚寺正続院にて芳春院(晴氏室)の一周忌の仏事が営まれる。
米の価格は100文当たり榛原枡で1斗2升。米1俵は欠米1升を含め3斗6升詰で、通常、米1俵は300文。麦の価格は100文当たり榛原枡で2斗4升。
土地の売買は北条氏の規定した国法により、貫高の6倍で行われた。
1560年の物価‥‥‥6、7寸の鯛(10文)、1尺の鯛(15文)、1尺5、6寸の鯛(30文)、鰹(12文)、大鯵(2文)、鮑(3文)、鰯2匹(1文)、いなだ(5文)
1562年の物価‥‥‥饅頭(3文)、布3段(250文)、畳1帖(75文)
1563年の物価‥‥‥大和竹1束(5文)、縄2房(1文)、萱1把(1文)
1566年の物価‥‥‥漆(杣-250文、あきみ-200文)、綿1把100匁(上-230文、中-200文)、塩1升(5文)、鯵3匹(1文)
1567年の物価‥‥‥畳1帖(100文)、蝋燭1挺(10文)
1584年の物価‥‥‥上紬1段(1貫500文)、中紬1段(1貫300文)、下紬1段(1貫文)
1530年以前、京大工の彦左衛門、小田原に移り住み御用職人となる。
1582年、宮前町の加藤は武蔵、上野、上総、下総から集まり来る商人らの問屋を経営していた。
相模における主要交通路は、小田原→酒匂→国府津→二宮→大磯→平塚→茅ヶ崎→藤沢→玉縄。小田原→大磯→平塚→大神→厚木→当麻→武蔵国。
小田原→早川→岩→土肥→熱海→軽井沢→韮山。小田原→湯本→箱根山→三島。
小田原→関本→足柄峠越え。
1554年12月、武田信玄の娘、黄梅院殿春林宗芳は輿12挺。長持42挺、供の人数一万人という大行列で甲府を出発し、小田原に嫁入りした。黄梅院は1569年6月死亡。
1581年6月、氏政、信長に馬3疋献上する。
1582年3月21日、氏政、信長の戦勝を賀して馬、江川酒、白鳥などを贈る。26日にも馬の飼料として米が一千俵ほど諏訪に届ける。以後、4月にも馬や雉、鷹などを贈る。
氏政、氏直が信長の死を知ったのは6月11日。




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