酔雲庵


国定忠次外伝・嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)

井野酔雲





第一部  美人例幣使道




1.高砂屋のお常




「ねえねえ、お海ちゃん、聞いた? お常ちゃん、まだ帰って来ないんだってさ」

 そう言って、お菊が髪結床(かみゆいどこ)の『尾張(おわり)屋』に飛び込んで来たのは日暮れ間近の黄昏(たそがれ)時。お海は店仕舞いの片付けをしていた。

「ええ、さっき、聞いたのよ。ほんと、どこ行っちゃったんだろ」

 お海とお菊は心配顔で見つめ合った。

「おい、お常ちゃんてえのはあれか。錦絵(にしきえ)になったあの別嬪(べっぴん)か」と驚いたのは、お海の父親に髪を結ってもらっている米屋の親爺。

「そうよ、そのお常ちゃんよ。まったく、どこ行っちゃったんだろ」お海が細い目を見開いて、鼻にかかったような声で言う。

境宿(さかいじゅく)の小町が消えたとあっちゃア、そいつア大変(てえへん)だ」

「おめえら、あんまり騒ぐんじゃねえぞ」とお海の父親が二人をたしなめた。「こねえだだって、何だ、いねえいねえって騒いでたら、ちゃんと帰って来たじゃねえか」

「あん時とは違うのよ」とお海はむきになって首を振る。「お常ちゃん、もう、音吉つぁんとは別れたし、今は平塚(ひらづか)の先生に夢中なのよ」

「それじゃア、先生んとこに行ったんじゃねえのか」

「一人じゃ行かないわ」

 ねえ、と言うようにお海はお菊の顔を見るが、お菊は色白のぽっちゃりとした顔を曇らせて、ぼんやりと大通りを眺めていた。

「平塚なんかすぐだ。一人で行ったっておかしかアあるめえ」

「約束したのよ、抜け駆けは絶対にしないって」

「何だと。それじゃア、おめえらも、あの先生にいかれてんのか」

「当たり前じゃない。絵はうまいし、男前だし、先生に夢中な()は一杯いるんだから」

「確かに、ありゃアいい男だな」と米屋の親爺もうなづいた。「騒いでんのは娘っ子だけじゃねえ。うちの(かかあ)もいい年して、音羽屋(おとわや)尾上(おのえ)菊五郎)のようだと浮かれていやがる」

「まったく、困ったもんだのう。おい、おめえらがいくら騒いだって、先生の方が相手にしやしねえよ。まあ、小町に選ばれたお常ちゃんなら別かもしんねえがな」

「お常ちゃんは抜け駆けなんかしないもん」

「ねえ、あんたの兄さんは」とお菊がお海に聞いた。

「どっかに飛んでったわ。兄貴も未だに未練なのよ」

「勇吉の野郎も仕事をほったらかして、まったくしょうがねえ奴だ」

 父親が文句を言っているが、お海は知らん顔で、「ねえ、あたしたちも捜しましょ」とお菊と店を飛び出して行った。

「おい、ちゃんと片付けてから行け」父親が怒鳴ったが、お海は返事もしない。

 父親は店から出ると、「もうすぐ暗くなるんだから、平塚くんだりまで行くんじゃねえぞ」と叫んだ。

「わかってるわよ」とお海は(たすき)を外しながら手を振った。

「まったく、しょうがねえ奴らだ」父親は米屋の親爺に苦笑する。

「しかし、何事もなければいいがのう。お常ちゃんが錦絵になってから、男どもが目の色を変えて、追っかけ回してるそうじゃねえか」

「らしいな。うちのが選ばれなくてよかったよ」

「お海ちゃんも可愛いかもしんねえが、お常ちゃんにはかなうめえ」

「まあな、うちのにゃア、まだ、色気ってえもんがねえや」

「いやいや、そんな事アねえ。うちの(せがれ)の奴も最近、やたら、お海ちゃんは可愛くなったって言ってるぜ」

「ほう、そうかい」父親は少し嬉しそうな顔をして、思い出したように、「確か、おめえんちの伜は『五月(さつき)屋』のお政ちゃんといい仲だったんじゃねえのかい」と聞いた。

「去年はお政、お政って騒いでたが、どうやら、振られたようだ」

「そうだったのかい。あの娘は器量よしで働き者だって評判だ。いい嫁さんになったのにな」

「ああ、残念だ。もっとも、うちの伜もまだ嫁をもらう程の甲斐性(かいしょ)もねえけどな」

「なあに、うちの勇吉だって同じだアな」

「畜生、雨が降って来やがった」と、のっそり顔を出したのは隣の煙草(たばこ)屋の親爺。

「なに、雨だと?」お海の父親は外を見る。

 大した事はないが雨が大通りを濡らしていた。

「おめえの好きな花見も、これでもう、おしめえだな」と米屋の親爺は煙草屋の親爺を見ながらゲラゲラ笑った。






 その頃、境宿の隣村、百々(どうどう)村の百々一家の表座敷では、お常の兄、小五郎が親分の忠次にお常を捜してくれと頼んでいた。忠次と共に軍師の日光の円蔵と子分の保泉(ほずみ)の久次郎が小五郎の話を聞いている。

 日光例幣使(れいへいし)街道、上州(群馬県)境宿の足袋(たび)屋『高砂(たかさご)屋』の娘、お常が昨日の昼頃、出掛けたきり、まだ帰って来ないという。

 昨日の夕方、仲のいい友達を当たってみたが誰も知らない。以前、大騒ぎしたら、翌朝、ケロッとした顔で帰って来た事があるので、今回は騒ぎにならないように捜し回ったがどこにもいない。今日の夕方になって父親も決心して、島村の伊三郎親分に頼もうと横町にいる伊三郎の子分、小島の彦六のもとに出掛けて行った。息子の小五郎は伊三郎が好きではないので、忠次のもとへとやって来た。

「心当たりは一応当たってみたんだな」と腕組みしながら円蔵が小五郎に聞いた。

 小五郎は疲れた顔付きでうなづいた。「常は昨日、うちを出てから大黒(だいこく)屋の娘と会ってんです。その娘の話によると中瀬(なかぜ)のしんさんに会いに行くと言ったそうです。中瀬のしんさんなんて聞いた事もありません。常と仲のいい尾張屋の娘に聞こうとも思いましたが、あの娘に聞くとすぐに町中の噂になっちまうのでやめて、平塚に行ってみました。平塚の先生んちに行って、常の事を聞いたら、確かに、昨日の昼過ぎ、常が一人でやって来たと言いました。でも、中瀬に用があると言って、すぐに出掛けたそうです。先生も丁度、中瀬に用があったらしくて一緒に行こうとしたらしいんだけど、いやだと言って先に行っちまったそうです。わたしは利根川を渡って中瀬に行ってみました。渡し舟の舟頭(せんどう)も常の事を覚えてました。常が中瀬に行ったんは確かです。でも、中瀬のどこに行ったのか、まったくわかりませんでした」

「中瀬か‥‥‥」と円蔵は眉間(みけん)にしわを寄せながら忠次を見た。

「軍師、藤十(とうじゅう)の身内にしんさんとかいう奴はいねえのか」忠次が長火鉢(ながひばち)の向こうから円蔵に聞いた。

「中瀬のしんさんと言やア、伊三郎といつも一緒にいる信三(しんざ)の事じゃねえのかい。奴は確か、中瀬の生まれだと聞いたが」

「ああ、あの野郎か」と忠次は舌打ちをした。

「その人の事は大黒屋の娘から聞きました」と小五郎が言った。「その娘もしんさんと聞いて、信三ってえ人を思い出したそうです。でも、その信三ってえ人が特に、常と親しかったってえ事はなかったそうです」

 円蔵は外には心当たりはないというように首を振った。

「一応、聞いとくが、お常さんは博奕(ばくち)打ちとも付き合ってたのか」

 忠次が聞くと、小五郎は首をかしげた。

「付き合っちゃアいねえと思いますが、何しろ、錦絵に描かれてからというもの、常は有名になっちまって、色んな男が言い寄って来ます。そん中に博奕打ちがいなかったとは言い切れません」

「だんべえな。うちの若え奴らも、お常さんの錦絵を持って、わざわざ、本人を見に出掛けてるからな」忠次は軽く笑いながら久次郎を見た。

 久次郎は小五郎の横顔を見つめながら何かを考えていた。

「まあ、今日はもう暗くなっちまうから、もう一晩待ってみて、帰って来ねえようなら捜してみようじゃねえか。なあ、親分」円蔵が言うと、

「そうだな」と忠次はうなづいた。「ただ、明日になりゃア伊三郎の奴らも捜し回るに違えねえ。そうなると当然、町中、大騒ぎになるぞ。何しろ、境の小町がいなくなっちまったんだからなア」

「仕方ありません。今日中に帰って来なけりゃ何かあったに違えありません。こんな事、考えたくはありませんが、誰かにさらわれたのかもしれません。中瀬の河岸(かし)には人相の悪い人足(にんそく)たちが大勢いました。あんな奴らに捕まったのかと思うと‥‥‥」小五郎は苦しそうに顔を(ゆが)め、両手を握り締めた。

「悪い事ばかり考えちゃアいけねえよ」と円蔵が小五郎の背をたたいた。「できるだけの事アする。望みを捨てずに待ってる事だ。それで、お常さんの姿格好はどんなだ。噂はたっぷり聞いちゃアいるが、残念ながら、あっしらはお常さんを拝んじゃいねえ。すまねえが聞かせてくれ」

「はい。年は十八、背丈は五(しゃく)そこそこ、体つきは普通です。わたしは出掛けるとこを見てなかったんですけど、大黒屋の娘の話だと黒(えり)の付いた路考(ろこう)茶の縦縞(たてじま)(あわせ)に黒と紅の昼夜帯(ちゅうやおび)をしめてたそうです。常は午前中は店番してたんですけど、そん時の格好のまま、出掛けたようです。ただ、藤色のおこそ頭巾(ずきん)を持ってたそうです」

「お常さんは出掛ける時は、いつも頭巾をかぶったのか」

「錦絵に描かれてから回りの者があまりにもうるせえんで、かぶるようになったんです。最近はそうでもありませんが、錦絵の出た正月はもう大変でした。店の前に常を見に来た男どもが群れをなして、うちから一歩も出られなかったんです。友達に会いに行くのも裏口からこっそり出て、頭巾で顔を隠さなくちゃアならなかったんです。大黒屋の娘の話だと、中瀬まで行ったらしいんで頭巾で顔を隠してったのかもしれません」

「成程な」

 円蔵は小五郎にお常と親しかった者とお常に言い寄っていた男たちの名を書かせた。

「錦絵に描かれなかったら、こんな事にはならなかったのに‥‥‥」小五郎はそうつぶやくと雨降る中、肩を落として帰って行った。

 忠次は小五郎が書いた紙切れを眺めた。


 境中町(さかいなかちょう)、古着屋『佐野屋』の娘、お菊。

 境下町(さかいしもちょう)、髪結床『尾張屋』の娘、お海。

 境下町、建具(たてぐ)屋『五月屋』の娘、お政。

 境下町、料理屋『大黒屋』の娘、おとし。

 境上町(さかいかみちょう)煙管(きせる)屋『村田屋』の娘、おたか。

 境上町、研師(とぎし)の音吉。

 境上町、煙草屋『(かつら)屋』の伜、善次。

 境中町、『石屋』の伜、与之助。

 境中町、太物(ふともの)屋『井筒屋』の伜、新六。

 境中町、足袋屋『高砂屋』の職人、吉松。

 境下町、髪結床『尾張屋』の伜、勇吉。

 境下町、煙草屋『越後屋』の伜、六郎。

 平塚、河岸(かし)問屋『柳屋』の伜、徳次郎。

 百々(どうどう)一家、富塚の角次郎。

 百々一家、新川(にっかわ)秀吉(ひできち)

 島村一家、中瀬の信三。

 島村一家、女塚(おなづか)の豊吉。

 島村一家、矢島の勘五。

 不流(ふりゅう)一家、武士(たけし)の藤次。


 五人の娘の名と十四人の男の名が書いてある。男は境宿に住む者が七人、忠次の子分が二人、島村の伊三郎の子分が三人、香具師(やし)の不流一家の子分が一人、それと、平塚の河岸問屋の伜が一人いた。

「おい、(ひさ)、角と秀の名があるが、奴らもお常を追っかけてたのか」

 忠次が聞くと久次郎は紙を覗き込んだ。

「秀の野郎は確かに追っかけてましたが、角の方はそんな事アねえと思います。角の野郎はお常よりも(たちばな)屋のお関に夢中ですよ」

「橘屋っていやア高砂屋の隣辺りにある商人宿か」

「へい、高砂屋の隣が常盤(ときわ)屋で、その隣です」

「そのお関ってえのもいい女子(おなご)なのかい」

「へい、お常よりも年下なんですがね、背がスラッとしてて、目がクリッとして可愛い娘です」

「おめえもやけに詳しいじゃねえか」

「最近は伊三郎の子分どもがうるせえんで、用がねえのにあの辺りまで行く事アありませんが、桐屋の賭場(とば)がうちの縄張りだった頃、何度か話した事があります。あの頃はまだ、お常もお関も十三、四だったけど、あの頃から可愛いかったですよ」

「そうか。とりあえず、角と秀を呼んでくれ」

 久次郎が出て行くと、「明日あたり、伊三郎の奴がお常を出せって、やって来そうだな」と円蔵が眉間を寄せて忠次を見た。

「くだらねえ言い掛かりをつけるつもりか」

「奴の事だ、何をするかわからねえ。百々一家がお常をかどわかしたと言い触らすかもしれねえ。角と秀をしょっ引いて行くかもしれねえぞ」

「くそったれ。そんな事はさせねえ」

「うめえ手を打たなくちゃアならねえな」

 久次郎が角次郎と秀吉を連れて来た。

「親分、お常ちゃんがいなくなったってえなアほんとですか」秀吉は部屋の隅に座るよりも早く言い出した。

「らしいな」と円蔵が答えた。「まず聞くが、おめえらはお常の事を本当に知らねえんだな」

 二人とも知らないと首を振った。

「俺ア先月に振られてから、一度も会ってません」と秀吉は真剣な顔をして、きっぱりと言った。

「俺は話らしい話なんかした事もありやせん。どうして疑われるのか、さっぱりわからねえ」と角次郎は首をかしげた。

「多分、お常ちゃんが一時、富塚の兄貴に憧れてた事があって、それで疑われたんだと思うけど」と秀吉が言った。

「そいつア本当かい」角次郎は驚いて秀吉を見た。

「へい、お常ちゃんが錦絵に描かれる(めえ)です。俺が誘いを掛けたら兄貴が一緒ならいいって言ったんでさア。でも、兄貴を連れてったら取られちまうんで俺ア黙ってたんですよ」

「ほう、そんな事があったのか。おめえはわりともてるんだな。橘屋のお関とはうまく行ってんのかい」忠次がニヤニヤしながら聞いた。

 角次郎はたれた目を細めて、「いや、そんな、まだですよ」と照れながら首の後ろをかいた。

「今はもう、角に夢中じゃねえのか」と円蔵が秀吉に聞いた。

「ええ。絵かきの先生に夢中みてえですけど、よくわかりやせん。先生、先生って騒いでんのはお常ちゃんだけじゃアねえですから」

「お常の兄貴が言ってたが、お常が朝帰りして大騒ぎになったそうじゃねえか、そん時の相手は誰だったんでえ」

「へい、あん時は研師の音吉です」

「なに、奴だったのか」

 音吉は腕のいい研師で百々一家にも出入りしていて、忠次も面識があった。

「へい、去年の秋の事でさア。お常ちゃんが伊勢崎に行く音吉についてって、音吉の仕事が長引いて帰って来れなくなったとか。ほんとんとこアわかりやせんが、お常ちゃんの親父が音吉に文句を言いに行って、それ以来、音吉とは切れたみてえです」

「ほう、音吉の奴もなかなかの色男だからな」忠次が言うと、

「しかも、腕は確かだ。娘たちが放っちゃアおくめえ」と円蔵は笑った。「ところで、おめえ、中瀬のしんさんてえのを聞いた事アねえか。お常に言い寄ってる奴ん中にそんなのアいねえか」

「さあ、聞いた事ありませんけど」秀吉はポカンとした顔をして、円蔵を見て、忠次を見て、久次郎を見た。「そいつがどうかしたんですか」

「お常はそいつに会いに行くと言って出掛けたそうだ」

「中瀬のしんさんと言やア、伊三郎んとこの信三ですか」

「奴とお常は関係あんのか」

「聞いた事アねえですよ。奴は伊三郎と一緒にちょくちょく境に来てるから会った事はあるだんべえけど、お常ちゃんといい仲になってるたア思えませんよ」

「そうか。彦六の子分の豊吉と助次の子分の勘五はどうだ」

 円蔵は小五郎が書いた紙を眺めながら秀吉に聞いた。

「二人もお常ちゃんに言い寄ってたようだけど、相手にされなかったんじゃアねえですか。親がうるせえらしくて、あまり、渡世人(とせえにん)にゃア近づかなかったようです。ただ、中瀬の藤十の子分で万吉ってえのがいて、そいつがやたらと付きまとってたようだけど、はっきり振られたってえなア聞いた事あります」

「万吉だな」円蔵は小五郎が書いた紙に万吉の名を加え、顔を上げると、「それより、おめえらは昨日、どこにいた」と二人に聞いた。

「どこにって、昨日アずっと伊勢屋の賭場にいましたよ」と角次郎は答えた。

「おお、そうだった。昨日は市日(いちび)だったな。これで、おめえらも助かった。伊三郎が来ても申し開きができる。捕まらなくてすんだな」

「伊三郎が乗り出して来るんですかい」

「お常の親父が頼んだそうだ」

「へっ、得意んなって十手(じって)を見せびらかしに来んのか」

「そういうこった。奴が来ても騒ぐんじゃねえぞ。わかったな」

「へい」角次郎と秀吉は神妙にうなづいた。






境宿




嗚呼美女六斬の創作ノート

1.登場人物一覧 2.境宿の図 3.「佐波伊勢崎史帖」より 4.「境町史」より 5.「境町織間本陣」より 6.岩鼻陣屋と関東取締出役 7.「江戸の犯罪と刑罰」より 8.「境町人物伝」より 9.国定一家 10.国定忠次の年表 11.日光の円蔵の略歴 12.島村の伊三郎の略歴 13.三ツ木の文蔵の略歴 14.保泉の久次郎の略歴 15.歌川貞利の略歴 16.歌川貞利の作品 17.艶本一覧




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