酔雲庵


国定忠次外伝・嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)

井野酔雲





11.紅屋の仙太郎




 平塚に帰らず、井上屋に泊まった貞利は次の日の朝早く、久次郎と一緒に伊勢崎に向かった。境から伊勢崎までは二里程の距離で、一時(いっとき)も掛からなかった。

 夜のうちに降った雨も上がり、久し振りのいい天気で、汗ばむ程の陽気だった。

 伊勢崎町には境宿の領主でもある酒井家の陣屋があった。町の北西、広瀬川に面した高台に、二重の堀と土塁に囲まれた殿様の御殿がある。殿様の下野守忠恒(しもつけのかみただつね)は毎年、十二月に江戸に参勤して、翌年の八月に帰って来た。この時期は江戸にいて留守だった。陣屋の東南に町並みが広がり、境宿と同じように絹市も開かれ、城下町として賑わっていた。

 老舗(しにせ)の呉服屋『(べに)屋』は陣屋の南側、西町の大通りにあって、間口も広く店構えも立派だ。その少し南に仙太郎の手習い塾がある。

 久次郎と貞利は十日程前に来て、仙太郎に会っていた。その時は少しも怪しいとは思わなかった。子供たちに読み書きを教えている姿を見て、こいつは違うなと思い、通された部屋の中に難しい書物が積んであるのを見て、益々、こいつは違うと確信してしまった。まさか、その男が貞利の艶本をすべて持っていようとは思いもしない。女遊びもしない癖に、陰に隠れて、そんな本を見ていると聞いて、二人の見方はすっかり変わった。普段、真面目くさった奴に限って、思い詰めると、とんでもない事をやってしまう。仙太郎が下手人である可能性は極めて高いと二人は睨んでいた。

 紅屋の前を通ると小僧が水をまいていたので、久次郎は声を掛けてみた。

「手習いのお師匠さんは具合悪そうだったが、元気になったかい」

 小僧は顔を上げると首を振った。「まだ、悪いみたいです。今日も塾は休みだそうです」

「そうか。そいつア可哀想だ。いつから悪いんだ」

「二、三日前から寝込んでるらしいです」

「誰か、看病に行ってるのか」

「はい。女将さんが時々」

 小僧と別れ、手習い塾の前まで行くと、「平塚の先生」と誰かが呼んだ。

 貞利が振り返ると、髪結床(かみゆいどこ)から職人風の男が手招きしている。

「誰です」久次郎が聞くと貞利は首をかしげたが、「きっと、玉村の親分さんとこの人だろう」と髪結床の方に向かった。

 男は玉村の佐重郎親分の子分、清吉(せいきち)と名乗り、昨日からずっと仙太郎を見張っているという。

「奴は昨日の昼前、境に行ったけど、後はずっと、うちん中にいます。時々、紅屋の女将と女中が差し入れを持って出入りするだけで、後は誰も訪ねて来ません。先生に言われたんで、改めて、奴の事を洗ってみましたが、別に怪しい物は何も出て来なかったですよ」

「奴には女はいねえのか」と久次郎は聞いた。

「どうも、いねえようですね。女中の一人が奴にのぼせてるようだが、不細工(ぶさいく)な女でね、奴も相手にはしねえだんべ」

「そうか」とうなづくと貞利は清吉に久次郎を紹介した。

 境のバラバラ殺人の下手人を追って来た事を知ると清吉は目を輝かせた。

「すると、奴はそっちの下手人かもしれねえって事ですかい」

「二つがつながるかもしれねえって事だ」

「そうなると、こいつア気い入れてかからねえととんだ事になりそうだ」

 清吉は今までに調べた事を話してくれた。

 仙太郎は紅屋の次男で、手習い塾を始めたのは二年前。塾を開いている家は紅屋の持家なので店賃(たなちん)はいらない。生活のために塾を始めたわけではなく、うるさい親元から離れて、好きな書物を好きなだけ読むためだった。高価な書物を手に入れるためには莫大(ばくだい)な金が掛かるが、勿論、親が金を出している。その金を出してもらう条件として手習い塾をやっている。親とすれば、息子が人様からお師匠さんと呼ばれれば嬉しく、女遊びをするわけではなく、書物を買うのにいくら金を使ったとしても惜しいとは思わなかった。

 手習い塾に通っている子供は十人程で、子供の親たちからの評判も悪くはない。仙太郎はあまり近所付き合いをしないが、その分、父親が町のために色々と活躍しているので仙太郎の事を悪く言う者はいなかった。

 仙太郎が手習い塾を休んだのは十二日からで、今日でもう四日めになる。謎の女が平塚に現れた十三日、仙太郎が家にいたかどうか知りたかったが、清吉が仙太郎を見張ったのが昨日からなのでわからなかった。

「すると、奴は時々、境に行くくれえで、後はほとんど、うちから出ねえんだな」久次郎が手習い塾の方を眺めながら聞いた。

「ほとんど、うちに籠もりっきりだ。境に行くったって月に二、三度くれえじゃアねえですか。あっ、それと、月に一度、平塚まで行ってます」

「平塚?」と貞利が聞いた。

「へい。江戸から本を取り寄せてるようで」

「ほう、金持ちはやる事が違うな。今月はもう行ったのかい」

「ええ。確か、四日に行ったはずです」

「なに、四日? そいつは確かなのか」久次郎が顔色を変えて、清吉に聞いた。

「へい、確かです。どうかしたんですかい」

「四日ってえのは、お関がいなくなった日だ」

「そいつは気づかなかった。てえ事は奴がさらったかもしれねえって事か」

「うむ、そいつは充分に考えられる」貞利は(あご)を撫でながら、ゆっくりとうなづいた。

「あの野郎、この前、嘘を付きやがった。その日はずっと、うちにいたと抜かしやがった」久次郎が貞利を見ながら言った。

「仙太郎は舟で平塚まで行くのか」と貞利が清吉に聞いた。

「へい。行く時は舟で、帰りは馴染みの人足に荷車を引かせて運ばせてると聞きましたが」

「行きは舟で、帰りは荷車ってえのはどういう事なんだ」

「何でも、一度、大事な本を川に落としちまったらしくて、それ以来、帰りは荷車にしたようです」

「そうか。奴は大事な本を箱か何かに入れて運ぶのか」

「さあ、そこまでは‥‥‥」

 仙太郎と話をしたかったが、下手に顔を出すと警戒される恐れがあるので、やめた方がいいと清吉に言われた。相手は頭のいい奴なので、こっちが疑っている事に気づいたら、尻尾(しっぽ)を出さなくなる恐れがある。貞利と久次郎も仕方なく、うなづいた。

 奴がどんな風に本を運ぶのか調べてくれと清吉に頼み、髪結床を出た久次郎と貞利は閉め切ったままの仙太郎の手習い塾の前を通り抜けて、手習い塾が眺められる位置にあるうどん屋の暖簾をくぐった。

「どう思います」久次郎はうどんを頼んだ後、小声で貞利に聞いた。

「四日に平塚に行ったってえのは臭えな。それに、十三日は塾を休んでる。奴が女に化けて平塚まで行って、お関の死体をお万に頼み、深谷まで逃げて、着替えて伊勢崎に戻って来たんかもしれねえ。そして昨日、境まで、お関の事を聞きに行ったってえのも気になる」

「自分でやっといて、町の者の反応を見に行ったんですかね」

「かもしれねえ。下手人は必ず、現場に戻るって言うからな」

「奴は、あそこで()ったんだんべえか」と久次郎は手習い塾を見ながら言った。

「広瀬川が側だからなア、平塚まで運ぶのは簡単だ」

「死体を運ぶのは簡単だけど、生きてる人間をどうやって運んで来たかが問題ですね」

「大事な書物を運ぶために、奴は箱か何かを使ったに違えねえ。その箱が人が入れる位の大きさなら、奴が下手人てえ事になる」

「書物も結構、重てえから、お関を縛って入れてもわからねえ。行く時は舟ってえ事は荷車は平塚で借りるんだんべえか」

「平塚で人足を調べりゃアわかるだろう」

 久次郎はうなづき、「仙太郎に会えねんじゃア、徳次郎の方を調べてから帰りますか」と貞利に聞いた。

「その前に、ちょっと絵草紙(えぞうし)屋に寄ってみよう。何か、つかめるかもしれねえ」

 うどんを食べた二人は西町を北上した。陣屋の南門の前を右折し、本町通りをしばらく行くと右側に小さな絵草紙屋があった。

 表に広重の風景画が飾ってあり、店内には貞利の『境七小町』も飾ってあった。

「おや、平塚の先生、これは、ようこそ」と鶴のような老人が笑いながら会釈した。

「景気はどうですかな」貞利は店先に座り込むと店内を見回した。

「はい。先生の『七小町』は評判いいですよ。こう言っちゃア何ですが、小町の一人が殺されてから、また、売れるようになりました」

「まったく、困った事だ」貞利は溜め息をついた。

 久次郎は飾ってある錦絵を眺めていた。貞利のお陰で久次郎も浮世絵というものに興味を持つようになり、江戸で活躍している絵師の事も多少知っていた。

「この間、玉村から先生のわ(じるし)を買った者を調べに来ましたよ」と老人が貞利に煙草盆を勧めながら言った。「何でも、玉村のお女郎殺しの下手人は先生のわ印を買った者の中にいるとか。もしかしたら、境の小町殺しも同じ奴の仕業なんですかね」

「さあ、よくわからねえが」と貞利は首をかしげ、「玉村の親分さんに聞いたんだが、俺のわ印を全部、持ってるってえ奴もいるらしいな」と老人に聞いた。

「はい、それはいますよ。去年出した『美女六斬』は大評判でしたからね、それを買った者たちが、是非、他の本も見たいと言って、買い求めます。先生のわ印の好事家(こうずか)は結構、多いんですよ。お武家さんにも隠れた好事家がいます」

「ほう、そいつはありがてえ事だ。この間、紅屋さんの息子さんに会ったが、あの人も俺の本を持ってるとかで、若えわりにゃア色々と知ってるんで驚いたよ」

「はい。あの人はもう、早くから先生の絵を集めてましてね、わ印に限らず、先生の出した絵はすべて持ってんじゃアねえでしょうか。この間なんか、先生が江戸にいた頃に描いた美人絵を手に入れたと言って、わざわざ、見せに来ましたよ」

「ほう、そんな昔の物までもか」

「あの人は江戸から仕入れてますからね、相当なわ印を持ってます。先生のお師匠さんの国貞のもほとんど持ってんじゃねえでしょうか。金持ちにゃアかないませんよ」

「そんなにも持ってんなら、俺も参考に見せてもらいてえもんだな」

「ええ、そりゃアもう凄えですよ。今年は誰がどんな本を出したって、わしよりも詳しいですからね。まったく、まいりますよ」

 久次郎はお紺のために、国貞が描いた役者絵を何枚か買った。

 店を出ると貞利は久次郎を見て首を振った。

「ここで話を聞いてから、奴んちに乗り込もうと思ったが、やっぱり、やめた方がよさそうだな」

「どうしてです」

「前回、来た時、俺は名乗らなかった。ただ、お関を捜しに来たと言っただけだ。今回、名乗れば、仙太郎から色んな話が聞けそうだが、二度も来たとなるとやはり、警戒しちまうだろう。仙太郎の事は清吉に任せて帰った方がよさそうだな」

「確かな証拠がつかめりゃア踏み込めるんだがなア‥‥‥」

 久次郎と貞利は煙管(きせる)屋を回って、徳次郎たちが来たかどうか調べた。伊勢崎に三軒ある煙管屋を調べたが、徳次郎たちが煙管を買った事実は認められず、徳次郎たちを見た者も見つからなかった。

「くそっ、奴らも嘘を付きやがったか」

「しかし、徳次郎の回りには、お関をさらった女がいねえからな」

「お夢は違ったし‥‥‥奴らの誰かが女に化けたんじゃア」

「女に化けるとしたら鶴屋の耕作ぐれえだ。耕作は村芝居で女形(おんながた)をやった事がある。しかし、お万もその事ア知ってるからな、耕作ならばれちまうだろう」

「そうか‥‥‥となると、やはり、仙太郎か」

 広瀬川の舟着場から舟に乗って平塚に向かった。仙太郎が利用している舟を調べようと思ったが、仙太郎の回りをウロウロしていると清吉の邪魔になるのでやめる事にした。

「いい気持ちだア」と舟の上から景色を眺めながら久次郎は貞利に笑いかけた。

「まったくだな。桜は散っちまったが、綺麗所(きれえどころ)を乗せて船遊びと洒落(しゃれ)てえ気分だな」

「船遊びか。江戸にいた頃は先生も派手に遊んだんでしょうね」

「いや、そんな事アねえ。師匠の連れとして遊ばせてもらった事アあるがな。まだ時期は早えが両国の川開きん時ゃア、豪勢な遊びをしたもんだ」

「花火がドドーンと上がって、玉屋、鍵屋ってえんでしょ。おゆみじゃねえが、俺も江戸に行ってみたくなってきたぜ」

「下手人が上がったら、みんなでお江戸見物に繰り出すか」

「そいつはいいや」

 平塚河岸に着くと船頭の為吉を捜した。

 為吉はお関のいなくなった日、いつものように仕事をしていて、仕事が終わった後、木崎に遊びに行った事がわかっていた。仕事をしていたからと言って疑いが晴れたわけではない。謎の女と組んで、お関をさらい、舟に乗せてどこかに運んだかもしれなかった。

 為吉は仕事中で川の上にいたが、為吉を見張っている茂八から話を聞く事ができた。

 十三日は強風で仕事にならず、仲間三人と一緒に世良田の賭場に行き、幾らか儲けたらしく、平塚に帰って来て、料理屋『林屋』で騒いでいたらしい。仲間たちから話を聞いて、為吉の話は裏付けられたが、世良田の賭場にも確認を取らなければならなかった。

 河岸に来たついでに、人足の溜まり場に行って、仙太郎の荷物を運んだ人足を捜した。思っていたよりも簡単に仙太郎の馴染みの人足は見つかった。伊勢崎まで荷車を引いて行くだけで、相場の数倍の稼ぎになるので、他の人足たちから羨ましがられていた。左吉という四十年配の人足は二年前から仙太郎の本を運んでいるという。

「奴は本を何に入れて運ぶんだ」と久次郎は左吉に聞いた。

「へい、特別に作らせた頑丈な箱なんでさア」と左吉は汗を拭きながら言った。

「どんな箱だ。大きさは」

「雨が降っても本が濡れねえように、ちゃんとしてあるんでさア。大きさはそうさのう、六(しゃく)くれえあるだんべえか」

「六尺か。本をいれるにしちゃア随分とでっけえじゃねえか」

「なに、やけに分厚い本が多いですからのう、そのくれえじゃねえと(へえ)らねえんでさア」

「幅はどのくれえあるんだ」

「二尺くれえかのう。あの先生は若えが(てえ)したもんだ。一度、本を見せてもらったが南蛮(なんばん)文字ってえんですかい、訳のわかんねえ字が並んでましたよ。そいつを読むってえんですからね、凄え人でさア」

「それで、箱の深さは」

「一尺ちょっとくれえじゃねえかのう」

「四日の日も、その箱ん中には本が一杯(いっぺえ)、入ってたのか」

「そうだんべえのう。結構、重かったからな」

「見てねえのか」

「へい、あっしはいつも運ぶだけで。本を積み込むんは先生がなさってるようで」

「中身は見てねえって事だな」

「へい。それがどうかしたんですかい」

「いや」と言って、久次郎は貞利を見た。貞利は目を細めて川の方を見つめていた。

「四日の日だが、先生と会ったんは何時(なんどき)だ」と久次郎は左吉に聞いた。

(ひる)を少し回った頃で、先生はいつも林屋さんでお昼を食べて、それから伊勢崎に(けえ)ります。あっしが他の仕事でどっかに行ってても、先生はあっしを待っててくれるんでさア。先生がどうかしたんですかい」

「いや、何でもねえ。すまなかったな」

 左吉が首をかしげながら行くと、「決まりですね」と久次郎は貞利に言った。

「うむ」と貞利は満足そうにうなづいた。「充分にお関を運ぶ事ができる。しかし、これからが難しいぞ。仙太郎は御用達(ごようたし)までやってる老舗の伜だ。これだけの証拠じゃア簡単に捕めえる事アできねえだろう」

「奴のうちに踏み込みゃア、きっと、証拠の品は出てきますよ」

「多分な。しかし、出て来なかったら、ただじゃアすまねえ。玉村の親分としても慎重に事を運ばなくちゃアならねえだろう。清吉が何かをつかんでくれればいいが」

 河岸から大通りに出た二人は茶屋『(ともえ)屋』の二階から徳次郎を見張っていた宇之吉から話を聞いた。今日は珍しく、家から出て来ないという。噂では、店の金を持ち出したのがばれて、蔵に閉じ込められているらしかった。

 柳屋の番頭に会って話を聞くと、噂通り、徳次郎は今朝から蔵に閉じ込められていた。

「いつまで、閉じ込めておくんだ」と久次郎が聞くと、「さあ」と番頭は首をかしげた。

「親が甘いですからね。せいぜい二日ってとこでしょう。でも、蔵から出たら江戸に行くかもしれません」

「徳次郎が江戸へ?」

「はい。向こうの出店にいる番頭が怪我して寝込んじまったんですよ。うちの旦那としても、ゆくゆくは江戸の店を徳次郎さんに任せるつもりでおりますので、これを機に江戸に送るようです。江戸に行って真面目に働くとは思えませんが、親としては期待してるんでしょう」

 江戸に行かせるなと言いたかったが口には出せなかった。徳次郎を疑うべき確実な証拠は何もなかった。

 蔵に閉じ込められている徳次郎を見張ってもしょうがないので、久次郎は宇之吉を伊勢崎に送って、清吉を手伝わせる事にした。

 平塚から世良田村に向かった久次郎と貞利は孫三郎と会った。お関のいなくなった十三日、孫三郎はずっと家にいたと言い張った。しかし、その素振りに不審を持った二人は近所で聞き込みをして、すぐに真相をつかむ事ができた。

 孫三郎はその日、女と一緒にいた。ただ、その女が孫三郎にとって公表したくない女だったので必死に隠していたのだった。お春という女は孫三郎の幼なじみで、幼ない頃から孫三郎の嫁になるのが夢だった。その事は村中の者が知っていた。ところが、お春は力士なみの巨漢だった。孫三郎は相手にしなかったが、お春の方は孫三郎以外の男とは一緒にならないと二十歳になっても嫁に行かない。もっとも、そんな大女を嫁にくれという男もいなかったが。

 その日、強い北風が吹きまくっている中、孫三郎は祇園(ぎおん)さんの鳥居前にある料理屋『朝日屋』に向かった。朝日屋では賭場が開帳していた。遊び仲間がいるだろうと顔を出したが、その日に限って誰もいない。しかも、あっという間にオケラになってしまった。うなだれて賭場を出た所で、ばったりと出会ったのがお春だった。お春は嬉しそうに孫三郎の側に寄って来た。孫三郎はお春から金を借りて賭場に戻った。失った金を取り返すつもりだったのに、お春の金もすぐに消えて、再び、うなだれて賭場を出た。お春はニコニコしながら待っていた。金を借りる時、もし、返せなくなったら、今日一日、お春に付き合うと約束をした事を思い出して、孫三郎はゾッとなった。何とかして逃げようと思ったが無駄だった。

 孫三郎はお春に抱えられて、お春の家まで連れて行かれた。お春の親たちにも歓迎され、御馳走が出て、酒が出て、帰るにも帰れず、酔っ払って、やけになって、お春を抱いてしまったのだった。お春の親たちは、これで孫三郎が婿(むこ)に来てくれるだろうと大喜びして、二人の仲を村中に触れ歩いている。孫三郎がそんな事実はないと否定しても無駄だった。

 どんな女だろうと久次郎と貞利はお春を見に行った。お春は巨体を揺すりながら畑仕事に精を出していた。

「えれえ女に惚れられたもんだな」久次郎は気の毒そうに唸った。

「働き者でいい女房になるかもしれねえ」と貞利は笑った。

 百々一家の代貸で世良田を仕切っている茂吉に孫三郎と平塚の船頭、為吉の事を聞くと、孫三郎が賭場に来た事は知っていたが為吉の方はわからなかった。平塚の船頭が何人か来ていたのは事実だが、名前まではわからないと言う。貞利がとっさに為吉の顔を絵に描くと、こいつなら昼前から夕方まで遊んでいたと思い出してくれた。

「孫三郎も為吉も白ですね」

「そういう事だな」

 翌日の十六日、雨降りの中、お関の葬式が行なわれた。久次郎は小町たちを守るために見回りをした。貞利は仙太郎の事は玉村の親分に任せるしかないと葬式がすむと平塚に帰って行った。

 木島の助次郎は深谷での捜索をやめて、平塚近辺を捜し回っていたが、何の手掛かりも得られなかった。八州の旦那は後の事を助次郎に任せて玉村宿に移って行った。

 八州役人がいなくなったので、十七日の市には忠次と文蔵が戻って来て、市の警固に当たった。

 その日、伊勢崎から仙太郎がやって来た。仙太郎の後を追って来た清吉の姿もあった。仙太郎は下市をブラブラした後、お奈々がいる煙草屋『越後屋』に入った。

 久次郎は物陰に隠れて見張っている清吉に近づいて声を掛けた。

「奴は尻尾を出したかい」

 清吉は首を振った。「手習い塾の方は昨日から開いたが、怪しい素振りは見せねえ。今日は早仕舞えして、いそいそ出掛けると思ったら、ここに来たってえわけだ。もしかしたら、奴は尻尾なんか持っちゃいねえのかもしれねえ。いい加減、いや気がさして来たぜ」

「奴じゃねえのかな」

「そんな気がするな。そっちはどうなんだ。下手人の目串(めぐし)はついたのか」

「まったく駄目だ。仙太郎の奴が本星でなかったら、手掛かりは何もなくなっちまう」

「あんな野郎、脅せば白状しちまうとは思うが、紅屋の伜じゃ、それもできねえ。まったく歯痒(はがゆ)いぜ」

「こっちはおめえさんが唯一の頼りだ。もう少し、見張っててくれ」

「ああ。親分にも絶対に目を離すなって言われてるしな」

「宇之吉の奴はどうしてる」

「裏口の方を頼んどいた。こっちも人手が足らねえんで助かってるぜ」

「まあ、こき使ってやってくれ」

 仙太郎がニヤニヤしながら越後屋から出て来たので、久次郎と清吉は目でうなづき合うと別れた。仙太郎は諏訪明神の前を通り、お粂のいる『桐屋』を覗いていたが店には入らず先に進んで、お通のいる干菓子屋『翁屋』に入って行った。

 久次郎は越後屋に入った。看板娘のお奈々が笑顔で迎えた。お奈々を守っている幸次が、

「いらっしゃい、いつも、どうも」と商売人らしく声を掛けて来た。

「今、来た野郎を知ってるか」と久次郎が聞くと、「伊勢崎の紅屋の息子さんでしょ」とお奈々は知っていた。

「よく来るのか」

「よくって事もないけど、月に一、二度です」

「一番高えのを買ってくのか」

「よく知ってますね。その通りです。お得意様ですよ」

「おめえを口説いたりするのか」

「まさか。ただ、国分(こくぶ)をくれって言うだけです」

「内緒で(ふみ)とかよこすんじゃねえのか」

「そんな事ないですよ。ただのお客さん」

「そうか‥‥‥」

「あの人がどうかしたんですか」

「どうかしてくれりゃアいいんだが、どうもしねえそうだ」

 お奈々は首をかしげて、幸次を見た。幸次も首をかしげた。

 久次郎は安い煙草を買うと店を出た。

 お通の干菓子屋に顔を出すと、仙太郎はここでも高価な干菓子を買っていた。その後、随憲先生の家に寄って、伊勢屋で茶漬けを食べると機嫌よさそうに帰って行った。

 仙太郎の後ろ姿を見送りながら、あいつじゃアねえかもしれねえと久次郎は頭を抱えた。

「くそっ! 奴じゃなかったら、一体(いってえ)、誰なんでえ。また、初手(しょて)からやり直しだ」

 独り言をつぶやくとおりんの店の縄暖簾をくぐった。






嗚呼美女六斬の創作ノート

1.登場人物一覧 2.境宿の図 3.「佐波伊勢崎史帖」より 4.「境町史」より 5.「境町織間本陣」より 6.岩鼻陣屋と関東取締出役 7.「江戸の犯罪と刑罰」より 8.「境町人物伝」より 9.国定一家 10.国定忠次の年表 11.日光の円蔵の略歴 12.島村の伊三郎の略歴 13.三ツ木の文蔵の略歴 14.保泉の久次郎の略歴 15.歌川貞利の略歴 16.歌川貞利の作品 17.艶本一覧




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