酔雲庵


国定忠次外伝・嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)

井野酔雲

創作ノート







しの木弘明著「佐波伊勢崎史帖」より



  • 利根川には平塚河岸(河岸問屋12軒)、八斗島河岸、靱負河岸(河岸問屋2軒)があり、広瀬川には伊勢崎河岸と中島河岸があった。
  • 沿岸には舟引き人足が多くいて、荷物を下ろした船を船引き唄を歌いながら船問屋まで引き上げた。
  • 平塚河岸が江戸往来する船便の玄関口。この地方からは主として米、薪炭、織物などが江戸へ輸出され、江戸からは塩、魚類、肥料や雑貨類が輸入された。特に塩の輸入が多かった。北清、京屋と呼ばれた河岸問屋が大きかった。江戸には2日路、江戸からは3日路だった。
  • 船頭は危険な仕事だったが、大変いい手間になり、川辺の百姓は皆、船頭稼ぎをした。そのいい賃銭を手にすると、皆、玉村の旅籠屋に繰り出して行った。船頭は玉村の一番いい客だった。
  • 平塚河岸のかたわら、利根川の洲中に伊勢崎藩の荷蔵があり、伊勢崎河岸と中島河岸は伊勢崎藩の専用になっていた。中島河岸から伊勢崎まで荷物を馬に積んで運んだが、それはみんな女馬士だった。みんないい声で馬士唄を歌った。
  • 中瀬の渡しは中瀬と平塚を結んだ。武州の舟頭持ちだったので中瀬の渡しと呼んだ。島村の渡し、山王堂の渡し、長沼の渡し、仁手の渡しなどがあった。
  • 竹石の渡しは舟頭半左衛門が仕切り、渡し賃は2文、馬はその倍額。
  • 井上浮山(1794−1842)‥‥‥画家。名を祐永、字は胤宗、敬斎と号す。樋越村の大百姓の主人だったが、若い時から絵が好きで百姓を捨てて柿沼山岳という画家の門に入る。稼業は人任せで、木崎宿の師匠のもとに通う。1835年、板鼻の島方松蔭と共に仙台に師の梅関を訪ねる。
  • 正月の初市を『寄市』といい、伊勢崎は6日、境町は7日で、いずれもこの日初市祭りがあった。12月は伊勢崎は21日、境町は22日が幕市といわれた。年中の市日には伊勢崎藩の役人が市検断と称して出張した。
  • 伊勢崎の市は1と6の六斎市。
  • 江戸時代後期の1823年、境宿の地元糸絹商人は59人、他所商人54人。
  • 伊勢崎の天王祭りは6月21日、境町は6月27日(22日?)に行われるのが例で、その前の日から宵祭りが行われ、二日あるいは三日間の興行もあった。
  • 女たちは一年中夜昼寝ずに働き、その一年の稼ぎは12両くらいあった。
  • 関東取締出役の道案内は御用聞きと呼ばれた。
  • 日光参りの公家衆の通行は毎年、3月末から4月12日まで続いた。
  • 五料の水神祭りは7月25日。村の沼の上の飯玉神社。
  • 大谷益左衛門尚古(1773−1853)‥‥‥伊与久村の出身で五惇堂に教授する傍ら作詩を楽しむ。金井烏洲の父、万戸が没した時、追悼詠を詠む。1803年、宮崎有成、高井中斎、高井清閑斎、畠野安之、大津正之、宮崎定則らと五惇堂を創設開校する。霞竜と号して俳諧に巧み。
  • 高井中斎(1774−1854)‥‥‥通称黙右衛門。伊与久村の出身の儒者。俳諧号は穀斎。
  • 吉沢糟溪(1797−1872)‥‥‥通称市郎右衛門。伊与久村の名主。五惇堂の教授。俳諧号は一鳥。
  • 五惇堂‥‥‥束脩(授業料)はなく、希望の者あれば他村の者の入学も差し支えなかった。学科は寺小屋教育を終えた者で主に漢文の教授。農繁期は休み、農閑期に授業を行い、大体冬中の教授で、科目は論語、小学などの勉強で、礼儀道徳を主眼としたもの。
  • 鈴木広川(1780−1838)‥‥‥保泉村生まれの儒者。名は四九郎、大谷尚古の同友。郷里に私塾を開き、その門から金井烏洲、吉沢糟溪、天田熊郊らが出る。
  • 深町北荘正信(1802−1870)‥‥‥伊与久村の出身で伊勢崎藩御用達を務めた富農。重右衛門と称す。若い頃、遊行を好み奥州から九州まで歩く。常に紀行文を製し、『草津温泉紀行』は一読に値する。伊勢崎藩御用達を務めたため、有り余る財産をすっかり取り上げられてしまう。
    『忠治引』──逆走横行山また川、広瀬川上に酒銭を掠め、また聞く郷の利根の川、波心僧を投じ常三を屠ると、掠奪攻盗いたらざるは無し、昼は山壑に蟄して捕吏を避け、夜は徒卒を引いて通衙を侵す、処女暴に遭うて婚儀を廃し、娶婦節を失して且つ倶に泣く──
  • 田島弥兵衛‥‥‥上州種を開発した島村の養蚕長者。
  • 木島村の高木幸助は元機屋(下げ糸を買い集め、これを織物の段階に下ごしらえし、村々に配り歩き女たちに賃織させた)の元祖。
  • 女たちは一年中、昼夜寝ずに働き、一年の稼ぎは12両位あった。伊勢崎藩の武士は3両二人扶持位が大部分。これに対して男稼ぎは2、3反の田畑の百姓で毎日の農作業はないので、薪取りとか駄賃馬稼ぎなどをしているが、暇にあかして遊び歩く事になった。
  • 寺子屋に寺入する年齢は一般的には七歳が多く、それに次ぐのは八歳、九歳、十歳だった。修業年限は5ケ年位が最も多く、その授業は冬季の農閑期を中心に行った。始業時刻は午前8時頃、終業時刻は午後4時頃。
  • 伊勢崎町の天王祭りは6月21日、境町は6月27日に行われた。前日から宵祭りが行われ、二日あるいは三日の興行もあった。
  • 桃井可堂‥‥‥通称儀八。天朝組。武蔵中瀬村生まれ。1863年11月、岩松満次郎を盟主として蜂起しようとするが、雪のため中止となる。
  • 岩松満次郎‥‥‥新田郡下田島村の新田家の末裔。
  • 桑原五郎‥‥‥後の金井之恭。木崎宿。
  • 大館謙三郎‥‥‥上田中村。
  • 宮崎修吉‥‥‥伊与久村。水戸浪士に関与していると1864年、伊勢崎藩に逮捕される。
  • 旗本久松氏は1825年、佐位郡東小保方村120石、新田郡西鹿田村500石、邑楽郡西岡新田村70石と武蔵国内500石、下野国内430石、常陸国内420石を領有し、東小保方村に陣屋を置いていた。東西75メートル、南北120メートル、周囲に堀が巡らされていた。



 ◇出流山の変の参加者

  • 高橋亘‥‥‥木島村出身。気楽流の斎藤武八郎の門下、一時は新徴組にも加わる。
  • 斎藤泰造(文泰、1838−82)‥‥‥境町出身。
  • 吉沢富蔵‥‥‥馬見塚出身。
  • 久保田弥吉‥‥‥馬見塚出身。
  • 深町金之助‥‥‥富塚出身。





機織唄 機織り上手な嫁取り当てて 家のしんしょも太り縞
忍ぶ大間々 浮名はたてど ぬしにみさおを わしゃたてばやし
機場育ちは一目で知れる 着物きこなし 身のこなし
       やさしいなかにも しんがある しんがある
可愛がられた蚕の虫も 今じゃ煮られて なべの中
可愛殿御は 仁田山通い 小倉峠が淋しかろ
機織すりゃこそ お召しの羽織り 家じゃご飯も喰いかねる
桐生新宿 女の夜ばい 男後生楽ねて侍る
 
糸ひき唄 可愛がられた蚕の虫も 今じゃ煮られて なべの中
糸は千たび 切れてもつなぐ 主と切れたらつながらぬ
五十三八 一六よりも わたしゃ二七がまだつらい
恋の駒形 なさけの都 なさけ知らずのいなり山
糸引きしまえば 七つの銭湯 銭湯ゆかずに主のそば
江戸へござるより 世良田へござれ お江戸まさりの長楽寺
糸は正直 むらから切れる むらがなければ切れやせぬ
越後屋根八と関東のカラス 色が黒くて目が光る
まゆは上繭 煮かげんもよいが わが手が下等でままならぬ
繭に煮かげん ぶアーとりかげん 糸目でないのは手のかげん
のたり目のたし つげぐしアーおまけ 喧嘩するとき邪魔になる
粟つき唄 わたしゃ武士(たけし)の あわがら育ち 米の生る木をまだ知らぬ
 
稲刈り唄 わたしゃ大田の金山育ち ほかにきはない まつばかり
保泉(ほずみ)たけしは 粟がら育ち わたしゃ中島芋育ち
 
島村船頭唄 前は利根川 うしろは広瀬 なぜかわたしは川の中
行こか深谷へ 帰ろか境 ここが思案の中瀬橋
舟の舟頭さんに まことがあれば 立てた帆ばしらに花が咲く
吹けよ川風 あがれよすだれ なかのお客の 顔見たい
沖でかもめの なく声きけば 舟乗り稼業が やめらりょか
 
桑摘み唄 男だてなら あの利根川の 水の流れを 止めてみな
利根をはさんだ あの島村へ 嫁にくれるな この娘
前は利根川 うしろは広瀬 わたしゃ桑摘み はたけ中
行こか境へ 帰ろか家へ ここが思案の武士橋
春はせわしや 蚕の世話よ 娘かしたり 貸されたり
蚕上手な嫁御をもらい 細いしんしょも 太織縞









「伊勢崎の史話」より



  • 1836年1月25日暮れ6つ時から伊勢崎新町(大手町)の細野四郎兵衛の店(貸家)の鍛冶屋五郎左衛門表から火事が始まり、当日は下風(南東風)が強かったので西へと焼け抜け、間の町(曲輪町)の御堀端で、富岡真左衛門様の御宅まで、その向かい側にあった白木屋多助の家は無難。それより火はお堀を越して御屋敷(城)内へ移り、米村儀蔵様の物置小屋に火がつき、米村様の御長屋より西へと焼け、関都守様、伊与久弘多様、石原純助様、速見式蔵様、長尾一雄様、学校(学習堂)まで焼けぬき、御長屋の数も6つも燃えて、ほとんどお屋敷の中は御殿を残して大部分が灰となる。翌日、火が消えた後で、直ぐに復旧のための普請が始まる。
  • 伊勢崎には木戸が10ケ所あった。@本町通り、太田道。A川岸町(三光町)通り、前橋道、高崎道、本庄道。B西町から川岸の方へ曲がる所、茂呂への道。C川岸町、川岸の舟着場へ。D広瀬川の水車小屋の付近。E紺屋町(大手町)北口、大胡街道、大間々街道。F袋町(曲輪町)から大胡街道へ出る同聚院前の南北の道の北側。G八軒町(大手日吉町)の東、桐生道、足利道。H裏町(三光町)I西町、陣屋の大手門前。
  • 伊勢崎の市は1、5、6、10の12斎市。6と21は本町。1と16は西町。11と26は新町(大手町)。









「探史帖」より



  • 1833年、平塚の河岸問屋は12軒。京屋、北清、北権など。
  • 江戸から来る船は江戸川を上り関宿から天屋新川に入り、茨城の境町で利根川に入って平塚河岸に上って来る。下り3日、上りは4日かかった。シタケ(東南風)があると2日で上った。
  • 荷物を保管した蔵を荷蔵という。
  • 平塚の村人はほとんどが船頭か馬方稼ぎだった。馬方は下河岸に住んでいた。
  • 平塚河岸の近くに、1836年に建てられた馬頭観音塔があった。高さ2,32m、幅61cm。
  • 平塚は人形芝居が盛んで、赤城神社の大祭や利根川に浮かべた船中で旦那衆によって操り人形が演じられた。浄瑠璃語り、三味線弾き、人形使い。普通、人形芝居をするには30個以上の人形を必要とした。
  • 女塚の薬師の湯(女塚湯殿)‥‥‥忠次も度々、利用した。
  • 伊勢崎藩は参勤交代の時、境本陣で休息した。
  • 木戸口の事を町の者は丁切と言った。
  • 例幣使が通過する時は前以て、道の草刈りをした。





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