「境町史」より
- 1805年2月、名主は惣左衛門、
組頭は織間源五右衛門、中沢茂兵衛、中沢利左衛門、井上六左衛門、中沢万右衛門。
- 1810年4月、名主は織間源五右衛門、
組頭は飯島藤左衛門、中沢茂兵衛、中沢利左衛門、井上六左衛門、中沢万右衛門。
- 1823年5月、名主は井上六左衛門、
組頭は織間源右衛門、中沢万右衛門、中沢茂兵衛、飯島藤左衛門、中沢利左衛門。
- 1823年8月、名主は中沢利左衛門、中沢万右衛門。
- 1842年7月、名主は中沢茂兵衛、
組頭は飯島藤左衛門、織間源五右衛門、中沢茂七(林太郎)、中沢利左衛門。
- 1835年、上武士村の城山の古城跡、館の山で上州、武州の文人が多く集まり野外大園遊会月開かれる。
- 八木沼村に俳人、千里軒一魚(1756−1840)がいた。本姓は金井杢右衛門。名主を務める。
- 明治9年、高岡村と八木沼村は合併して米岡村になった。
- 境宿は毎年3月の末頃から京都の公家、門跡や諸役衆が毎日のように通行し、4月12日奉幣使が通過するまで忙しかった。
- 境宿の茂七は1823年、藩主酒井氏から苗字御免の沙汰を受け、以後公式文書で中沢茂七を名乗る。1825年には伊勢崎藩の御用達を命ぜられ麻上下着用と帯刀を許される。
- 六斎市‥‥‥境は2、7の日。伊勢崎は1、6の日。柴は5、10の日。太田は3、8の日。桐生新町は3、7の日。大間々は4、8の日。木崎は1、6の日。深谷は5、10の日。
- 香具師の親分は帳元と称し、子分の中の重(おも)立ちを世話人とした。縄張りを高市(たかまち)という。不流一家より伊勢崎町近在の縄張りを任されていたのは伊勢崎町の銭屋七郎兵衛。1823年、境町には不流三左衛門の世話人として柏屋小四郎と翁屋清吉がいた。
- 近江出身者 久保屋新六(1763−)‥‥‥江州日野、綿屋五郎兵衛店。血縁1人、手代1人。
十一屋利兵衛(1785−)‥‥‥江州日野市原村、源五右衛門店。血縁1人、手代3人、下男3人。
川田屋源次郎(1777−)‥‥‥江州愛知郡島川村、茂七店。血縁1人、手代2人、下男2人。
近江屋源蔵(1784−)‥‥‥江州神崎郡小幡村、常右衛門店。血縁1人、下男3人。
江州店では原則として血縁家族は一人、奉公人は江州出身の男性とされ、女人禁制だった。店主は江州本家の当主であったから、店の経営は手代頭の支配人に任せ、当主は年に一度、店に下り数カ月滞在して経営状態を監視した。
- 長さ10m〜24m、幅3m〜4.2m、100俵〜300百俵の積載量を持つ平田船が利根川を行き来していた。
- 艀(はしけ)船は2種類あり、短距離に使われた小艀と長距離用の長艀。中瀬河岸までは数艘の小艀を使い、中瀬から小島河岸までは小艀と長艀各1艘程度を併用し、長艀はそのまま関宿河岸まで行った。関宿で満載して江戸まで下った。艀船は50俵積み。平塚河岸も同じようにして米を運んだ。
- 江戸から上る時、船は風帆だけでは航行できない場合、曳船人足を使った。舞木河岸辺りから曳船人足に曳かれて上って来た船は中瀬河岸、平塚河岸付近でで艀船に積分けて上流へと逆上った。平塚河岸が栄えたのは、荷物の積分け地点に位置し、広瀬川と烏川の舟運の出入り口でもあり、ここまでは地形的に曳船人足により大量の荷物を積載した大船の航行が可能だったから。
- 5俵から25俵程積んで江戸まで往復した小船もあった。
- 平塚は上、中、下と分かれ、上は上(かみ)河岸といい問屋の多くがここにあった。船持船頭や水主(かこ、水夫)は中の集落に住み、下には人足たちが住んでいた。
- 1833年の平塚の河岸問屋は田部井弥惣治、内田源左衛門、田部井儀右衛門、北爪清右衛門(北清、きたせい)、渋沢六左衛門、田部井八右衛門、北爪権兵衛、内田弥左衛門、内田吉左衛門、内田幾右衛門、内田孝七の11軒。
- 平塚河岸の1805年の出荷の中心は薪42,700束、炭21,300俵、木材3,639束、米77俵、大豆156俵、酒12駄、醤油268樽、酒糠367樽。
- 山地の雪解けで水量が増し、気象も安定するため、船の出帆は3月と4月に集中した。
- 1833年10月から翌年9月まで、北清は大豆4,141俵、麦699俵、米591俵、小豆184俵を出荷した。
- 江戸からの上り荷は塩、茶、肴、小間物、綿、太物(綿織物)、水油、藍玉、干鰯(ほしか)、糠、ふすまなど。
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