酔雲庵


国定忠次外伝・嗚呼美女六斬(ああびじょむざん)

井野酔雲

創作ノート







しの木弘明著「日光例幣使道 境町織間本陣」より



  • 玉村宿では塩市が常に立てられていた。
  • 柴宿では煙草市が立てられていた。
  • 木崎宿は四、九の六斎市があったが、あまり機能しなかった。
  • 太田宿は一、六の六斎市。新田米といわれた優良米の集散地で、良質のため市場に集められた新田米は多く江戸に運ばれた。
  • 深谷は五、十の六斎市。尾島宿は五、十の六斎市。
  • 上丁切の南の方に火の見櫓と番小屋があった。
  • 境宿から、中瀬村まで1里半、伊勢崎町まで2里、小斎村まで2里余り、小保方村まで2里余り、西小保方村まで2里余り、尾島宿まで1里半、木崎宿まで1里半、大原本町まで3里、下植木村まで2里、平塚河岸まで18丁、世良田村まで18丁、芝宿まで2里16丁、本庄まで2里余り。
  • 飯盛女のいない旅籠屋を平旅籠といい、一般的には商人宿と呼んだ。商人宿は相宿で、決して一人で一部屋を買い占める事はできなかった。食事は各自、食事場で食う。
  • 井上六左衛門(1770−1833)は笠形(かさなり)と号した狂歌師で、立川焉馬(妻は本庄の梅子、三味線の名人)、浅草庵市人、風来山人(森羅万象)、川村碩布、身軽織輔(山東京伝)、大垣守舎(浅草庵二世、大間々出身)らが境宿に来遊した。
  • 1831年の秋、村上随憲を訪ねて、高野長英が境宿に来る。井上屋に数日逗留し、金井烏洲らを往訪する。
  • 境宿の大通りは道幅八間だった。
  • 渋川の馬市、高崎の煙草市は特に有名だった。
  • 境の六斎市には四方から糸絹売りの百姓が集まったが、特に武州方面から持ち込む百姓が多かった。
  • 境の市神である天王宮祭礼(祇園祭り、市祭り)は毎年6月22日の前後3日間に行なわれた。
  • 平塚河岸の北清は塩屋ともいわれ、塩の買い付けをし、これを四方に売りさばいていた。
  • 平塚河岸の田部井弥惣治は京屋と称した。
  • 境町の諏訪神社の祭礼(八坂祭り)は7月27日。市祭の時の芝居興業(祭礼踊り)も諏訪神社の境内で行なわ れた。
  • 六斎市場の守り神、天王宮は高札場の脇にあった。
  • 祭りの時の興行は馬乗り、人形操り、角力興行、義太夫、手つま、軽業など。
  • 寄市祭り(1月7日)と夏の天王祭り(6月22日)は上市場が本番とされ、中、下の2町は協力した。
  • 寄市祭りには番太の惣七芝居が例で、神宮寺境内に舞台がかけられて行われた。見物人はみんな花料金と言われた若干の銭包みを持って見物に行った。
  • 八坂祭りと言われた諏訪祭礼は3町持ち合いだった。文政の改革以来、舞台掛けを禁じられ、以後は花屋台興行になった。3町がそれぞれ祭り屋台を備えた。
  • 1833年の天王宮祭礼には買芝居興行で、江戸と高崎から役者芸人を呼んでいる。この時の祭礼惣入用は34両余であった。この年の境町の行政的町入用は20両余だったので、一度の市祭りに一年間の町予算以上を使った。
  • 1836年には24両の買芝居、1837年は大飢饉の後で御輿渡りだけだった。
  • 萩原にいた不流三左衛門が文化文政頃より大きな組織を持つようになり、芝居興行やその他色々な芸事を仕切っていた。不流に頼めば、すぐに芸人の手配をしてくれ、境宿はこれを不流座と呼んだ。
  • 1838年の市祭りには江戸、川越から役者を呼んで『俄所作真似事(歌舞伎物)』が興行された。市日前日は上町で興行し、当日は中、下、横、八軒、十九分、萩原の各町内に分散巡業した。市日翌日は再び、上町で興行。この時の入用は買芝居が23両、役者連の宿賃食費や掛合い入用などが25両も掛かった。
  • 文政年間頃より若者仲間(15歳〜40歳)が中心になって祭りを行なった。
  • 毎年3月27日から4月12日の例幣使が通り過ぎるまで、公家衆が通過し大騒ぎだった。
  • 1825年、境の文人 織間源右衛門(1775−1843.3.4)‥‥‥寛松。生華盆景、千歳庵。
                井上宗周  (  −  )‥‥‥五楽。医師、風流、遊々斎、猶林堂。
                石原弥七  (1762−1842)‥‥‥有物。風流、蛙声斎。
                石原和助  (  −  )‥‥‥筝露。俳諧、南風軒。
                飯島忠兵衛 (  −  )‥‥‥撰蝶。風流、梅林堂。
                石原半七  (  −  )‥‥‥珍遊。狂歌、無中斎。
                橋本又四郎 (  −  )‥‥‥一喬。風流、其童斎。下武士村萩原住。
                岡本良左衛門(  −  )‥‥‥岳元。少小風流、明白堂。
                内田幸七  (1747−1837)‥‥‥柿元成。狂歌、七徳庵。
                織間常右衛門(1778−1844.6.22)‥‥‥桃中。俳諧、千春軒。晩年は硯賀斎。
                中島七平  (1757−1836)‥‥‥南楚。俳諧。
                新井    (  −  )‥‥‥荘々。
                金井寿平  (1806−1879)‥‥‥研香。絵師。
                板垣常八  (1813−1880)‥‥‥信人。歌人。太織物商。
  • 1640年、金井烏洲は破産する。










「例幣使街道」より



  • 木崎音頭
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蒲原郡柏崎在で、小名を申せばあかざの村よ
雨が三年ひでりが四年、都合あわせて七年困窮
新発田様への年貢に迫り、姉を売ろうか妹を売ろか
姉はジャンカで金にはならん、妹を売ろうと相談なさる
妹売るにはまだ年若し、年が若くば年期を長く
五年五ケ月五五二十五両、売られ来たのはいといはせねど
顔も所も知らない方に、足をからむの手をさしこめの
五尺体の五寸のなかで、もくりもくりとされるがつらい

 
A 木崎街道の三本辻に、お立ちなされしお地蔵様は
男通れば石取って投げる、女通ればにこにこ笑う
これがほんとの色地蔵様よ
色にまよって木崎の宿に、通う通うがたびかさなれば
もった田畑もみな売り払う、田地を売ろうか娘を売ろか
田地は小作で金にはならぬ、娘売ろうとの相談かける
姉を売ろうか妹を売ろか、姉はあばたで金にはならぬ
妹売ろうと相談きまる
売られ買われて木崎の宿は、仲の町なる内林様よ
五年五ケ月五五二十五両、つとめする身はさてつらいもの
毎夜毎夜に枕をかわし、今日は田島の主さん相手
明日はいづくの主さんなるか
返事わるけりゃあのばあさんが、こわい顔して又きめつける
泣いてみたとて聞いてはくれぬ
客をだまして体を売って、情かけぬが商売上手
妾しや貧乏人の娘に生まれ、かけし望みも皆水の泡
金が仇のこの世の中よ
金がほしいよ、お金がほしい、二朱や三朱で抱き寝をされて
歯くそだらけの口すいつけて、足をからめの手をさしこめと
組んだ腰をゆりうごかして、夢の心地に一人いる
上る段梯子は針の山
 
※木崎宿仲町の『内林』の女郎たちが唄い始めたのが広まって行った。


  • 1845年の木崎宿には大店8軒、中店14軒、女郎は183人いた。天保年間には36軒、女郎260人に至る。
  • 木崎宿の女郎は正月15、16日と盆の7月15、16日は格子作りの中の生活から解放された。





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