飄雲庵
あの男が草津にやって来た。 あの男が来てから、 当時、まだ、善太夫とは名乗っていない。 湯本次郎と呼ばれ、大叔父、 次郎がその男を見たのは、草津の入り口にある白根明神の境内であった。 当時、白根神社は現在の運動茶屋公園から草津小学校にかけての一帯にあった。 広い境内には 次郎は武芸の師匠である 「エーイ!」と汗びっしょりの次郎は、円覚坊に向かって木剣を打った。 円覚坊は簡単に次郎の木剣を避けると、「それまで」と言って、鳥居の方を眺めた。 見慣れない武士が鳥居の下で馬を降りていた。 「 次郎には、その真田弾正忠という武士が何者なのか分からなかったが、弾正忠と一緒にいる 「おお、次郎坊か、大きゅうなったのう」と筑前守がニコニコしながら声を掛けて来た。 そして、弾正忠に何事か言うと、今度は弾正忠が、「湯本殿の御子息か‥‥‥いい面構えをしておる」と低い声で言って、うなづいた。 一体、何者だろう、と次郎は弾正忠の顔を見上げていた。 年の頃は三十前後か、左の 弾正忠の後ろには二人の武士がいて、何が可笑しいのか、次郎の方を見て笑っていた。 弾正忠は次郎から隣にいる円覚坊に目を移すと、「おぬし、こんな所におったのか」と驚いたような顔をして言った。 「はい、お久し振りで‥‥‥」円覚坊はニヤニヤしながら頭を下げた。 「確か、 「ようやく、会えました。この地で 「なに、移香斎殿が、この草津におるのか」弾正忠は目を丸くして、円覚坊を見つめた。 円覚坊は首を振った。「もう四年程前にお亡くなりになりました」 「わしらも知らなかったんじゃよ」と筑前守は笑った。「飄雲庵と名乗る変わったお人が 「そうじゃったか‥‥‥移香斎殿はお亡くなりになられたのか‥‥‥後で詳しく、話を聞かせてくれ。しばらく、ここでのんびりするつもりじゃ」 そう言うと、弾正忠は筑前守と共に 「師匠、何者だ」と次郎は弾正忠の後ろ姿を見送りながら、円覚坊に聞いた。 「信州真田の領主じゃ。去年、領地を追われてのう、上州に逃げて来たんじゃよ」 「浪人か」 「まあ、今はそうじゃのう。だが、このまま、浪人で終わる男じゃない。顔を覚えておいて損のない男じゃ」 「そうか‥‥‥真田弾正忠だな‥‥‥」 昨年の五月、信濃の国(長野県) 上野の国の 真田幸隆は管領上杉氏の重臣である 憲政は快く引き受け、その年の七月、村上義清を攻めるために信濃に出陣したが、はかばかしい戦果は得られなかった。 幸隆は長野信濃守の城下箕輪(箕郷町)に一年近く滞在しながら、真田に復帰する機会を待っていたが、管領上杉氏に失望して箕輪を引き上げ、鎌原氏のもとに戻って来た。そして、鎌原筑前守に連れられて、草津の湯にやって来たのだった。 「弾正忠が移香斎と言ってたけど、そいつは何者なんだ」 次郎は幸隆の後ろ姿を眺めながら、円覚坊に聞いた。 「わしの大師匠じゃ」と円覚坊は言った。「 「師匠の大師匠という事は、相当に強かったんだな」 「わしなんか問題にならんわ‥‥‥想像もできん程の強さじゃ」 円覚坊は遠くの山々を眺めながら、目を細めて言った。 「飄雲庵と言ってたんだな」 「そうじゃ。 「知ってる。お爺様の所によく来ていた」 「おお、そうじゃったのう」 「よく、お爺様と一緒にお茶を飲んだり、歌を詠んでいた」 「うむ。移香斎殿は飄雲庵と名乗ってからは、決して、剣を手にしなかった‥‥‥」 「なぜだ」 「分からん。移香斎殿は陰流の極意は『和』じゃ、とよく申しておった‥‥‥」 「和?」と次郎は首をかしげた。 「和じゃ‥‥‥陰流の極意は『和』じゃ」と円覚坊は力強く、うなづいた。 次郎と円覚坊は再び、陰流の剣術の稽古を始めた。
真田弾正忠幸隆は弟の矢沢 滞在中、三人は何度か円覚坊のもとを訪れ、昔話や愛洲移香斎の話を楽しそうにしていた。次郎もその場にいて、皆の話を興味深そうに聞いていた。 草津温泉は群馬県の北西、長野県との県境近くの山中にあり、強烈な 奈良時代に 当時、神社と寺院は一体と見なされ、多数の僧兵や山伏を抱えて、多くの荘園(領地)を支配していた。湯本氏は白根明神と対抗しながら、勢力を広げようとしていたが、容易な事ではなかった。ところが、 真田弾正忠幸隆が草津に来た当時、草津の領主は湯本 次郎は 草津は冬、雪が多く、一年を通して住む事ができず、冬の間は山を下りて暮らしていた。 これを『冬住み』という。 毎年、四月八日の 領主湯本氏の冬住みの屋敷は小雨村にあった。 次郎の母親は下総守の正妻ではなかった。信濃善光寺の門前町から来た商人の娘だった。 現代もそうだが、当時から善光寺と草津の湯はつながりがあり、善光寺参りの帰りには草津の湯に寄って行くというのが当たり前となっていた。当然、草津の者は善光寺にお参りに行くし、善光寺の者たちも草津に湯治に来ていた。 その商人も隠居した後、孫娘を連れて草津に湯治にやって来た。その商人は湯本家にとってお得意様だったので、父、下総守は挨拶に訪れた。父は孫娘を一目見て惚れてしまい、 側室の腹から生まれたため、次郎は 当時、湯宿の主人になるというのは、武士よりも格が低いと見られていた。 湯宿の主人になるには 次郎は御師の資格を取るため、大叔父、成就院のもとで修行を積んでいた。 湯本氏は草津を中心にして周辺の村々を領していたが、米はあまり取れなかった。湯本氏の収入のほとんどは、草津に来る湯治客に頼っていたといってもよかった。湯本氏を初め、家臣たちは皆、湯宿を経営していた。 湯が涌き出て池となり、滝になって流れている 善太夫の湯宿は広小路に面し、滝の湯の近くにあった。現在の大東館の辺りである。湯宿のうちでは最も格が高く、主に武将たちや豪商と呼ばれる商人、名の売れた芸人たちが利用した。 広小路に面した一等地の半分は、湯本一族が押え、善太夫の湯宿の後ろの小高い丘の上に、領主である湯本下総守の屋形が誇らしげに建っていた。 広小路の西南、御座の湯の先に石段があり、大きな山門をくぐって、さらに石段を上ると薬師堂がある。その南隣に光泉寺があった。現在の光泉寺の位置に薬師堂があり、町営駐車場の位置に光泉寺はあった。そして、光泉寺から白根明神(運動茶屋)へと参道が続いていた。 次郎が初めて、草津に来たのは十歳の時だった。 毎年、春になると大騒ぎをして、父親を初め、 十歳になって、初めて、草津に連れて来てもらったが、父親の屋形に入ったのではなく、大叔父のいる白根明神内の宿坊、成就院だった。成就院にて円覚坊という山伏を紹介され、円覚坊を師匠として、修行に励めと命じられたのだった。 次郎はがっかりした。 領主の子として生まれ、当然、武士として生きるものと思っていた。兄がいるため、領主にはなれないにしろ、兄を助けて、立派な武将になりたいと子供ながらも思っていた。それが、突然、湯宿、善太夫を継ぐために、山伏の修行をしろと言う。 次郎はがっかりした。それでも、強くなれば、いくらでも戦で活躍できると円覚坊に言われ、武芸の修行だけは真剣にやっていた。
次郎は五年間、成就院で修行に励み、十五歳の時、 瑞光坊となった次郎は成就院を出て、叔父、善太夫の営む湯宿に移った。五年間の修行で御師の資格も取り、これからは、湯宿の主人になるために、色々と修行を積まなければならなかった。 初めのうちは、立派で豪華な湯宿が珍しかったのと、大勢いる使用人たちから若様、若様と持て こんな事をしていたら、本当に、湯宿の主人で終わってしまう‥‥‥ もっと、強くならなければ‥‥‥ 叔父に話すと叔父は喜んで許してくれた。叔父もまだ三十一歳と若く、隠居する歳ではなかったので、瑞光坊の望みに任せて、さらに円覚坊のもとで修行をさせてくれたのだった。 瑞光坊は円覚坊の住む 円覚坊の住む飄雲庵は、湯気を立ちのぼらせながら湯の川が流れ、硫黄の臭いが立ち込めて、半ば枯れ果てている樹木の立ち並ぶ中にあった。現在は 円覚坊は信濃の国、 当時はまだ、武術を教える道場というものはなく、武術を習うには山伏たちが修行している 当時、武術の流派には、常陸(茨城県)の鹿島神宮と下総(千葉県)の香取神宮で生まれた 神道流からは塚原 念流は信州 陰流を身に付けた武士にとって、流祖である愛洲移香斎という人は神にも等しい存在であった。 真田幸隆は一年間の修行で山を下りたが、円覚坊はさらに陰流の極意を身に付けようと、栄山坊の師匠である 八年前の事だった。 移香斎は山の中のひなびた庵に住んでいた。まさに、円覚坊の想像した通りだった。しかし、円覚坊の想像を裏切って、 円覚坊には信じられなかった。 「この地に来て、もう、二十年にもなりますが、一度も刀を手にした事はございません。自分の息子でさえ、武術を教えませんでした」と志乃は言った。 移香斎と志乃の間には十九歳になる小七郎という子供がいたが、移香斎は自ら、陰流の武術を教えなかった。 移香斎が帰って来たのは日暮れ近くだった。 その姿は円覚坊が想像していたのとはまったく違っていた。 円覚坊は仙人のような移香斎を想像していたが、実際の移香斎は真っ黒に日焼けして、粗末な野良着を身に付け、どう見ても百姓の親爺だった。とても、武術の達人には見えない。もう八十歳はとうに越えているはずだが、とても、そんな歳にも見えなかった。 円覚坊は、移香斎とは四十も年の違う妻、志乃に言われた通り、移香斎の事を飄雲庵殿と呼び、武術の教えを請う事はしなかった。共に酒を飲み、おとなしく移香斎の話を聞いていた。移香斎は機嫌よく、昔話をしてくれたが、武術に関する話はまったくしなかった。 愛洲移香斎‥‥‥ 移香斎の弟子、八郎坊が信州飯縄山に来て、修行者たちに陰流を教えたため、信州にも陰流は広まった。海野氏、真田氏、同じ一族である上州の鎌原氏、西窪氏、そして、草津の領主、湯本下総守も陰流を身に付けていた。 移香斎の最後の弟子となったのが、上州上泉城主の上泉伊勢守だった。移香斎は伊勢守の才能を見抜いて、自分が身に付けた、すべての技を伊勢守に授けた。そして、自らは武術を捨てて草津に 円覚坊はその晩、飄雲庵に泊まり、次の日、移香斎に誘われるままにお供をした。 もしかしたら、ひそかに、陰流の極意でも教えてくれるのかと期待して付いて行ったが、行った所は、御座の湯の近く、賑やかな表通りの裏にある薄汚い一画だった。 粗末な小屋がいくつも建ち並び、 癩病は十九世紀になってハンセン氏によって癩菌が発見されて以後、治療可能な病気となったが、それまでは不治の病とされていた。癩菌によって神経が冒され、雑菌に対する抵抗力がなくなり、皮膚がただれ、眉やまつ毛が落ち、目は霞み、鼻が崩れ、手足が腐敗してもげたりする病気で、前世の天罰によるものと考えられていた。草津の湯は殺菌作用が強く、すべての雑菌を殺してしまうので、癩病には効果があった。 癩病を患った者は非人と呼ばれて 紀州(和歌山県)の熊野 関東において、熊野権現に相当したのが、白根明神だった。 白根明神は 志乃の弟、黒岩弥太郎が移香斎の医術の弟子となって、移香斎を手伝っていた。しかし、円覚坊は弥太郎のように移香斎を手伝う事はできなかった。 円覚坊は武術を捨てた移香斎のもとに一年余りいた。飄雲庵の隣に庵を結んで、移香斎と共に暮らした。いつの日か、陰流の極意を移香斎から教わろうと願っていたが、ついに、その願いはかなえられなかった。 移香斎は毎日、癩病者の治療に励み、円覚坊が来てから一年程経った頃、突然、亡くなった。自分の死期が分かっていたかのごとく、安らかに 陰流の極意を得る事のできなかった失望から、移香斎の死後、円覚坊は草津を離れた。 当てのない旅を重ねていても、一年間、共に暮らした移香斎の事は忘れられなかった。 陰流の極意、それは、武術の技、人を殺す技術ではなく、人を生かす術なのではないのだろうか‥‥‥と思うようになって行った。 移香斎が亡くなる前の一年間は、まさに、それを実践していたようだった。あの時の円覚坊はとても癩病者の中に入って行く事はできなかったが、移香斎は平気で入って行って癩病者の傷口を綺麗に洗って治療し、しかも、彼らと同じ物を食べていた。 あれが、陰流の極意なのかもしれないと考えた円覚坊は、一年後、再び草津に訪れ、住む者もなく荒れ果てていた飄雲庵を再建して、そこに住み始めた。 移香斎の妻、志乃は移香斎の死後、中居村(嬬恋村三原)の実家に帰っていた。志乃の弟、弥太郎は移香斎の跡を継いで、癩病者の治療を続けていた。 円覚坊も移香斎の真似をして、武術を捨て、癩病者の治療を行なおうと思ったが、実行に移す事はできなかった。円覚坊は移香斎のように薬草に関する知識に詳しくなかった。かと言って、弥太郎の弟子となって、弥太郎から教わろうとは思わなかった。円覚坊も若く、たった五歳しか違わない弥太郎に頭を下げる事はできなかった。 円覚坊は白根明神に行って、薬草に詳しい山伏から教えを請おうと考えた。そこで出会ったのが、瑞光坊の大叔父、成就院だった。 成就院は当然、移香斎を知っていた。移香斎を知っていたというより、飄雲庵という医術者を知っていたという方が正しい。成就院も飄雲庵から医術に関して教えを受けていたという。 円覚坊は成就院から医術を学び、そして、武術の腕を見込まれて、瑞光坊の武術 瑞光坊は、かつて、愛洲移香斎が暮らしていた飄雲庵に移り、円覚坊と共に暮らして、陰流の腕を磨いて行った。
|
草津温泉、湯畑