上泉伊勢守
あの夢のような夏の夜から一年が過ぎた。 ナツメは来年の夏に必ず来ると言っていたが、あの後、来る事はなかった。 兄の孫太郎も来ない。 小野屋の番頭は『伊勢屋』と称して来たが、ナツメの事はよく知らなかった。最近、見かけないから、伊勢の方に行ったのかもしれないとはっきりしなかった。 もう年頃だし、嫁に行ったのかもしれないと善太夫は諦めた。 諦めたと言っても、心の中の未練が消える事はなかった。 ナツメの事を忘れようと、毎晩のように遊女屋通いを続け、他の女を抱いてみても無駄だった。ナツメによく似た娘を捜し出して、共に一夜を過ごしても、余計に空しくなるばかりで、ナツメを忘れる事などできなかった。 冬住みが始まると、さっそく、敵情を探るために小田原に行こうと円覚坊を誘った。 円覚坊はニヤニヤしながらも、うなづいてくれた。円覚坊もナツメの事は当然、知っていた。 ナツメは伊勢屋の娘として善太夫の宿に滞在し、善太夫とナツメの事は草津中で噂となっていた。誰もが二人は一緒になるものと思い、一緒になれば似合いの夫婦だと噂していた。善太夫の兄、太郎左衛門もその噂は聞いていて、 『小野屋』というのは、箕輪の長野信濃守によって、北条氏の御用商人だと知らされて、太郎左衛門は知っていた。小野屋が白根山の 太郎左衛門は小野屋が以前から、善太夫の宿屋を利用していた事を知らなかった。先代の善太夫も父と共に戦死してしまったため、小野屋について詳しく聞く事はできなかった。太郎左衛門は弟の善太夫に小野屋の事を聞いたが、善太夫はナツメの事があったので、知らないと答えていた。太郎左衛門は善太夫の言葉を信じた。 当時、湯本家にとって、小田原の北条氏というのは、はるか遠い存在でしかなかった。前回、河越の合戦では、北条氏のために多くの者が戦死したが、北条氏が 湯本家の者たちは、ナツメが小野屋の娘だという事を知らなかったが、円覚坊だけは知っていた。知ってはいても、円覚坊が誰かに言い触らす事はない、と善太夫は信じていた。 「 「女子じゃない。敵情視察だ」と善太夫は言った。 「ほう、敵情視察か。去年の冬はそんな事を言わなかったのに、急に、北条氏の事が気になるのか」 「うるさい」 「まあ、いいじゃろう。ただし、小田原に行く前に寄る所がある」 「どこです」 「いい所じゃ。いささか高くなっている、おぬしの鼻を折るのに丁度いい」 「俺が天狗になってると言うんですか」 「いささかのう」 善太夫は今年の夏、円覚坊から陰流の 印可を得るという事は、陰流のすべてを身に付けたという印だった。しかし、武芸の修行がこれで終わったというわけではない。後は自分で工夫しながら修行を続けなければならない。当時の武芸は実戦のためのもので、何種類かの技を身に付けたら、後は実戦において、その技を磨いて行くしかなかった。いくら、 木剣での試合では円覚坊には勝てないにしろ、白根明神の修行者で、善太夫に勝てる者はいなかった。善太夫は実戦での経験がないくせに、自分の腕に自惚れ、いささか天狗になっていた。 円覚坊は善太夫を 上泉城は 上泉城の城主、上泉 伊勢守は 移香斎と上泉家は古い付き合いがあり、伊勢守の祖父、父親、共に移香斎の弟子だった。移香斎は生涯を通して、武士に陰流を教えた事は少なかったが、上泉家だけは例外で、関東に来る度に、上泉家にしばらく滞在しては陰流を教えていた。 父親の代から城内に道場を開いて、近辺の武士たちに陰流を教えるようになった。箕輪城の長野信濃守も父親の弟子だった。信濃守が父親の弟子になったため、長野家の武士たちの多くが父親の弟子となり、代が替わって伊勢守の代になっても、長野家と上泉家は師弟関係で結ばれていた。 伊勢守は移香斎の死後、陰流の武芸をさらに完全なものとして、 善太夫が円覚坊に連れられて、上泉城に来た時も、城内にある広い武術道場では、大勢の若者たちが修行に励んでいた。 その光景を見て、こんな所があったのかと善太夫は驚いた。ちらっと見ただけでも、善太夫以上の腕を持つ若者が何人もいるようだった。 善太夫は目を見張って、若者たちの修行を見つめていた。草津では自分よりも強い者がいないので自惚れていたが、ここに来たら、善太夫の腕など、ほんの子供のようなものだった。善太夫は両手を強く握りしめて、自分の未熟さをかみ締めていた。 円覚坊のお陰で、伊勢守とも会う事ができた。 当時、四十歳前後の伊勢守は背丈が六尺近くもある体格のいい人だった。善太夫は猛将という伊勢守を想像していたが、実際の伊勢守は物静かな人で、武芸の達人でありながら、まったくと言っていい程、威圧感を感じさせない人だった。それでいて、 「湯本殿の御子息ですか。師匠(愛洲移香斎)がおられた頃、わしは草津の山中で修行した事があった。その時、そなたの祖父、 伊勢守は静かな声で聞いた。 「祖父は今年の夏、亡くなりました」と善太夫は答えた。 「そうでしたか‥‥‥お亡くなりになりましたか‥‥‥」 「眠るように、祖父は息を引き取りました」 「そうでしたか‥‥‥梅雲殿は立派な武将じゃった。わしは共に戦った事はなかったが、三日月の 善太夫は初めて、祖父の活躍を聞いた。善太夫が物心のついた頃、祖父はすでに隠居していた。 善太夫は力強く、うなづいた。 伊勢守の案内で城内を見学した後、善太夫は伊勢守の弟子、原沢 伊勢守は 木剣で試合をする場合、寸止めと言って、相手の体を打つ寸前に木剣を止める事が一応の規則となっていた。お互いの技量が違う場合は、木剣で試合をしても怪我をする事はなかったが、同じ位の者同士で試合をした場合、どうしても、負けた方が怪我をする事が多かった。悪くすれば骨を折って、一生、剣を持てなくなる場合もある。 稽古や試合で怪我をする事程、馬鹿げた事はないと、伊勢守が考えたのが袋竹刀だった。竹を割って、なめした鹿革の袋に入れただけの簡単な物だったが、袋竹刀のお陰で怪我人は減り、実際に打ち込む事によって実戦と同じように戦う事ができた。 善太夫はその袋竹刀でしたたかに打たれていた。佐右衛門に敗れた悔しさから、善太夫は伊勢守に頭を下げ、門弟に加えてもらえるように頼んだ。円覚坊の口添えもあって、善太夫は門弟になる事ができた。 ナツメに会うために小田原に行く事も忘れ、善太夫は上泉伊勢守に入門した。 上泉道場には四天王と呼ばれる高弟がいた。 羽田源太郎は箕輪の長野氏と同族で、上泉家の家臣の 奥平孫次郎は三河の国(愛知県)の 神後藤三郎は長野家の家臣の伜だったが、三男だったため、上泉家の家臣となっていた。 疋田豊五郎は伊勢守の 四天王の下には十人の師範代がいて、その下に伊勢守の 道場には善太夫と同じように、住み込みで修行している者も多かったが、皆、十五、六歳で、善太夫よりも年下だった。彼らは正月に上泉に来て、一年間の修行をして年末には帰って行った。次男や三男の場合、帰らないで、そのまま上泉家の家臣となって修行を続ける者も多かった。自然、上泉家の家臣は名人揃いという事になり、回りの武将たちからは 善太夫は半年間、上泉城下にある修行者たちの長屋に住み込んで、年下の修行者と一緒に、新入りとして雑用などもやりながら、ただ、強くなる事だけを考えて修行に励んでいた。 長野家の家臣たちの多くが上泉に通いながら修行していた。その中に羽尾 半年間はあっと言う間に過ぎて行った。 四月の初め、円覚坊が迎えに来た。善太夫は伊勢守を初め、世話になった先輩たちに別れを告げなければならなかった。 半年間の修行で善太夫の腕はかなり上達していたが、原沢佐右衛門を倒す事はできなかった。佐右衛門も善太夫には負けるものかと修行に励んだため、二人共、回りが驚く程、半年間で腕を上げていた。佐右衛門だけではなかった。修行者全員が善太夫に刺激されて、例年以上に修行に励んでいた。 「また、冬になったら来い」と伊勢守は言ってくれた。 「待ってるぞ」と四天王の面々も言ってくれた。 「痛い目に会わせてやるから、絶対に来いよ」 佐右衛門は城下のはずれまで見送ってくれた。 「それは俺の言う事だ。覚悟してろよ」 善太夫は佐右衛門と別れた。 「どうじゃった」と円覚坊が聞いた。 「よかった」と善太夫は答えた。 「うむ。天狗の鼻も折れたようじゃな」 「はい。半年前の自分が恥ずかしいです」 「うむ。武芸は天狗になったら進歩はしない。武芸だけじゃなく、何でもそうじゃ。何事も一生、修行じゃからな」 「はい。いい経験になりました」 円覚坊は満足そうに、うなづいた。 善太夫は自分で作った袋竹刀を背負って、草津へと向かった。 その年の冬も善太夫は上泉伊勢守のもとで厳しい修行を積んだ。 年末の稽古納めの試合の時、善太夫は原沢佐右衛門に勝つ事ができた。 佐右衛門はその年、伊勢守の娘を嫁に貰っていた。伊勢守の娘婿として、善太夫に敗れたのが、余程、悔しかったとみえて、稽古納めになった後、正月も祝わないで、 年が明けて鏡開きの日、二人は山から出て来て、修行者たちの見守る中、再び、試合を行なった。 試合は文句なしの相打ちだった。 その後、善太夫と佐右衛門の二人は、伊勢守から新陰流の目録一巻を伝授されて、共に師範代となった。師範代となったと言っても、上泉の道場において、若い者たちに教える事ができるというもので、自ら道場を持って、新陰流を教える事を許されたわけではなかった。自ら道場を持って新陰流を教えるには、さらに修行を積んで、印可状を貰わなければならなかった。 善太夫はすでに、円覚坊から陰流の印可を授かっていた。陰流の印可と新陰流の印可は性質が違っていた。陰流の印可は、陰流の技を身に付ければ貰う事ができた。現に、伊勢守も十九歳の時、愛洲移香斎より印可を受けていた。 陰流の印可は、道場を開くためのものではなく、印可を貰ったら、それ以後は、自分で工夫しろというものだった。陰流の印可を貰った者は多い。しかし、陰流を人に教えるためには、さらに修行を積まなければならなかった。また、印可を貰って道場を開いたからといって、門人が集まるという時代でもなかった。移香斎のように有名になれば、門人は集まって来るが、移香斎の弟子というだけでは門人は来ない。自ら、実戦で活躍しなければ、道場を開く事などできなかった。 移香斎が亡くなってから十年以上が経ち、時代も変わって行った。移香斎や 善太夫と佐右衛門は目録を授かった後も、天狗になる事なく、四天王を相手に修行に励んでいた。
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上泉城跡