氷雨
長野原で戦死した一徳斎の弟、 父と共に長野原城を守っていた長男の永助が 伊予守の初七日が過ぎるまで、一徳斎は延命院に籠もったまま、誰とも会おうとしなかった。 善太夫は裏工作が済むと一旦、草津に帰って、戦死した孫左衛門らの葬儀をして、冬住みを済ませてから、一徳斎が動くのを待っていた。 十月の九日、一徳斎はようやく動き出した。 充分に休養した三千近くの兵を率いて、 途中、羽尾道雲の籠もる羽尾城の前を通ったが、完全に無視したまま進んで行った。道雲は百人余りの兵と共に立て籠もっていた。急いで攻めなくても、自滅するのは目に見えていた。 善太夫は長野原城にて一徳斎の軍と合流した。 長野原城には海野長門守の兵が五十人程守っていたが、長門守はすでに寝返りが決まっていて、抵抗する事なく、城は明け渡された。 驚くべき事に、長野原城内にはたっぷりの 「味な事をするわい」と一徳斎は笑った。 長門守が有利な条件で寝返るために、一徳斎に 一徳斎はさっそく、兵糧米を皆に分け与えた。 長野原で一夜を明かした真田軍は二手に分かれて進軍した。前回、 一徳斎は三人の息子、源太左衛門、 善太夫と鎌原宮内少輔は一徳斎と共に須賀尾峠に向かった。その日は大柏木まで進み、三光院に陣を敷いた。 陣を敷くと間もなく、大戸真楽斎が伜の丹後守と共に陣中見舞いにやって来た。 一徳斎は真楽斎を歓迎し、箕輪の長野氏に対する押えとして、 次の日、山中を三島に抜けて、岩櫃城を見渡せる すでに、斎藤勢が吾妻川の向こう側、 善太夫と宮内少輔は類長ケ峰の北側の中腹辺りにある浦野 一徳斎の本陣を中心にして前方に鎌原宮内少輔、右前方に善太夫、左前方に浦野下野守、後方に矢沢薩摩守と小草野若狭守が陣を敷き、敵の動きを見守った。 今頃、暮坂峠を越えて行った源太左衛門率いる二千の兵が折田の 予定では明日、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の 仙蔵城は佐藤 稲荷城は蜂須賀伊賀守の城で伊賀守自身は岩櫃城内にいるが、内応する 善太夫は岩櫃城を眺めながら、すでに、円覚坊が配下の山伏と共に城内に潜入して、敵の山伏と戦っているに違いないと思った。円覚坊がやられる事はないとは思うが、敵もかなりの山伏を使っていると聞く。敵の山伏を倒して、うまくやってくれる事を善太夫は祈った。 吾妻郡は古くから 彼ら山伏は、武士同士の合戦が行なわれる以前に活躍しなければならなかった。彼らの持って来る情報によって、今後の作戦を練り、絶対に勝てると確信できるまでは、総攻撃をかけてはならなかった。また、味方の行動を敵に知られないように、敵の山伏を捜し出して殺すのも彼らの役目だった。 今回、一徳斎は、山伏たちが味方同士で殺し合うのを避けるため、味方の山伏、すべてを集めて、彼らの指揮を円覚坊に任せた。円覚坊はその中から腕のいい山伏を百人選んで、敵情を探らせていた。決して表面には現れないが、敵味方の山伏たちが今も戦っているに違いなかった。円覚坊が今、どこで何をやっているのか、善太夫にも分からなかった。 次の日、真田軍と斎藤軍はお互いに動く事なく、吾妻川を隔てて 善太夫は奇岩のそそり立つ岩櫃山の後方をずっと見つめていた。高野平城からの狼煙はいつになっても昇らなかった。予定では、昼過ぎには昇るはずだったが、八つ時(午後二時)になっても、七つ時(午後四時)になっても、その気配はなかった。そして、日暮れ頃から雨が降って来てしまい、ついに、狼煙を見つける事はできなかった。 日暮れと共に岩櫃城内から火の手が上がり、それを合図に、三方から総攻撃が始まる手筈だったが、延期となった。円覚坊らが敵味方の陣地を行き来して、うまく連絡を取っているようだった。 雨は夜になって雪まじりとなり、兵たちを冷たく濡らした。 善太夫が天幕の下から敵陣の 本陣に行くと円覚坊がいた。 一徳斎を中心に河原丹波守、丸山土佐守、矢沢薩摩守、小草野若狭守、浦野下野守が並んでいた。善太夫が腰を下ろすと、鎌原宮内少輔がやって来た。 「雪になりそうですな」と宮内少輔は言いながら、善太夫の隣に座った。 「まったくじゃな。明日も雨降りじゃ狼煙が見えん」と一徳斎は言ったが、顔は穏やかだった。「さて、その狼煙の事じゃが、もう、用はなくなった」 「という事は‥‥‥」と若狭守が言った。 一徳斎はうなづいた。「円覚坊より説明してもらおう」 「源太左衛門殿の軍勢は昨日までは予定通りじゃった」と円覚坊は皆の顔を見回した。 長野原を出発した二千の軍は赤岩から暮坂峠を越え、その日は 二日目、 三日目、三枝土佐守が五百の兵と共に仙蔵城に残り、源太左衛門は一千の兵を率いて山田の稲荷城に向かった。稲荷城は蜂須賀伊賀守の弟、新右衛門が守っていたが、これも約束通りに降伏して城を明け渡した。ここまでは予定通りだった。 問題は兵部丞と武藤喜兵衛の向かった高野平城だった。前回、あっさりと逃げ出した斎藤但馬守が、今回はしぶとかった。二人は五百の兵と寝返った佐藤、富沢、唐沢の兵二百を連れて攻め登ったが、但馬守はひるまずに攻撃して来た。一岩斎もここを敵に取られたら危ないと兵力を増やして、防御を固めたらしかった。 高野平城は岩櫃城のすぐ北、四阿山頂にあり、東西に細長い城である。東側が 高野平城の占拠に成功して、狼煙を上げようとしたら雨が降って来てしまった。 「という訳じゃ。予定は狂ったが、まずまずじゃ」と一徳斎は坊主頭を撫でた。「すでに、岩櫃城内の内応者にも知らせてある。明日も雨降りなら延期するが、やんだら、予定通りに決行する。少し寒いかもしれんが、交替しながら休んでくれ」 善太夫は宮内少輔と共に本陣を出た。 みぞれのような雨はやみそうもなかった。 「うまく行ったようじゃな」と宮内少輔は満足そうに言った。 善太夫はうなづいた。 宮内少輔は敵陣の篝火を眺めながら、「岩櫃はもう、落ちたも同然じゃ」と言って笑うと、自分の陣地の方に帰って行った。 善太夫も確かにそう思った。しかし、あの岩櫃城が落城するなんて不思議な気がした。 城主の一岩斎は好きではないが、何度も共に戦って来た仲だった。それが、今、敵味方に分かれて戦っている。明日は城内まで攻め込む事となるだろう。 岩櫃城が落ちれば吾妻郡は武田信玄の支配下となる。これで、吾妻郡内での戦はなくなるだろうが、今度は、武田軍の先鋒として越後の上杉氏と戦わなくてはならなくなる。 まだまだ、戦は続き、平和な時は来そうもないと善太夫は感じていた。
雪にはならなかったが、雨は翌日の昼過ぎまで降っていた。 雨がやむと一徳斎は、善太夫と鎌原宮内少輔と浦野下野守の陣を前方に進めた。吾妻川のすぐ近くまで陣を進めたが、敵は動かなかった。 一岩斎はすでに、岩櫃城の北にある高野平城と北東にある稲荷城が真田軍に奪われた事を知っているはずだった。むやみに攻撃を仕掛けるより、来月には来るであろう越後の上杉軍を待って、籠城作戦に入ったかも知れなかった。 円覚坊の知らせによると、岩櫃城には充分過ぎる程の兵糧が蓄えられているという。上杉輝虎が来るまでの一月や二月は楽に籠城する事ができた。 その日も何事もなく終わるかに見えた夕方、突然、岩櫃城内から物凄い爆音が響いた。円覚坊らが敵の火薬庫に火を点けたに違いない。最高の合図であると共に、敵の火薬を消滅させる事にもなった。 爆音を合図に真田軍は岩櫃城めがけて突撃を開始した。 善太夫は家臣たちを指揮しながら、吾妻川の岸まで進んだ。川向こうの敵が爆音に驚いて、ひるんでいるのが見える。 善太夫は作戦通りに、黒岩忠右衛門率いる鉄砲隊に対岸を攻撃させた。鉄砲が玉込めしている間は石つぶてと弓矢で攻めた。 敵も鉄砲と石と矢で応戦して来るため、なかなか、川を渡る事はできなかった。 鎌原宮内少輔も浦野下野守も鉄砲の玉よけの 敵味方の兵力はほぼ互角、このままでは決着は着きそうもなかった。しかし、岩下城から富沢新十郎と横谷左近が打って出たため情勢は変わった。 新十郎は雁ケ沢方面から攻めて来る真田軍に対して、岩下城を守っていたが、一岩斎に恨みを持っていて、早いうちから寝返りが決まっていた。新十郎は真田軍である横谷左近を岩下城内に入れて、出撃の合図を待っていた。 新十郎の妻は左近の妹で、二人は義兄弟という間柄だった。岩櫃城内から爆音が響き渡ると、待ってましたとばかりに、二人は斎藤軍に向かって行ったのだった。 新十郎と左近の兵は善太夫らと戦っていた敵の側面を付く事となり、敵兵は混乱した。さらに、切沢の善導寺に陣を敷いていた蜂須賀伊賀守までも寝返って斎藤軍を攻めたので、斎藤軍は三方から攻められ、大混乱に陥り、我先にと岩櫃城内へ逃げ去った。 敵が混乱している隙に、一徳斎率いる真田軍は吾妻川を押し渡って敵陣になだれ込んだ。 善太夫は敵兵を馬上から すでに、岩櫃城ではあちこちから火の手が上がり、 敵兵の死体があちこちに転がり、女や子供が悲鳴をあげて逃げ惑っている。 善太夫は海野長門守の屋敷の前を通って、中城へと向かった。 中城には六連銭の旗がたなびき、味方の兵で溢れていた。やがて、二の丸にも六連銭の旗が上がった。二の丸は海野長門守と能登守の兄弟が守っていたので、入るのは簡単だったに違いなかった。 辺りはすでに暗くなっていた。 善太夫のもとに一徳斎からの伝令が来た。 攻撃を中止して、所定の位置にて守りを固めろとの事だった。 善太夫は家臣たちを集めると、あらかじめ決められた通り、二の丸の南下にある 若狭守は一徳斎の重臣の一人だった。いかにも戦慣れした武将という感じで、無駄口など一言もきかない男だった。善太夫も前回、今回と共に一緒だったが、口をきいた事もなかった。しかし、一応、同じ曲輪を守る者として、善太夫は挨拶に出掛けた。 若狭守は篝火の下で 「祝い酒じゃ」と若狭守は手に持ったお椀を持ち上げた。 「少し、早いようですが‥‥‥」と善太夫は言った。 「なに、構わん。お屋形様(一徳斎)には内緒じゃ。おぬしも飲め」 若狭守は善太夫にお椀を渡した。 「しかし、陣中で酒など飲んでは‥‥‥」 「わしにとっては、これは飯と同じじゃ」 善太夫は断る訳にもいかず、若狭守から酒を貰った。 それは 「飲め、うまいぞ。戦の後の酒は格別じゃ」 善太夫は一口飲んだ。 「うまい!」と思わず口から出た程、その酒はうまかった。 「うまいじゃろう。これ程の酒はなかなか飲めん」 「確かに‥‥‥こんなうまい酒を毎日、飲んでるのですか」と善太夫は聞いた。 「まさか」と若狭守は笑った。「こんなのめったに手に入らんわ。これは 「一岩斎? すると、これは‥‥‥」 「二の丸から持って来たそうじゃ」と若狭守は二の丸の方を見上げた。「わしの家来にのう、鼻の利く奴がおってのう。どこに行っても必ず、酒を見つけて来るんじゃ。自分では飲めん癖にな、うまい酒を見付けて来る。おかしな奴じゃ」 善太夫は以前、小野屋から貰った伊豆の江川酒という銘酒を飲んだ事があったが、この酒も、江川酒と同じ位にうまかった。 「明日はきっと、この酒が配られるじゃろうな。わしらで毒味をしてやったというわけじゃ」 若狭守は豪快に笑った。 酒が入ると若狭守は機嫌がいいのか、よくしゃべった。善太夫は信州での合戦の事や武田信玄の事など、若狭守から聞いていた。酒を飲みながら、半時(一時間)近くも若狭守と話し込んでいた。 自分の陣に戻ると、 杢右衛門は青ざめた顔をしてうつむいていた。 「どうした」と善太夫は聞いた。「兵糧が足らんのか」 「いえ。兵糧は充分にございます。敵から奪った兵糧が届きましたので、充分過ぎる程ございます。それと武器も配られましたので、三郎右衛門殿に預けました」 「そうか。鉄砲の玉と玉薬(火薬)もあったか」 「はい。玉も玉薬も矢も充分ございます」 善太夫はうなづいてから、「次郎右衛門の具合が悪いのか」と聞いた。 「はい。危ないかもしれません。何とか血は止まりましたが‥‥‥」 「そうか‥‥‥」 善太夫の義兄、次郎右衛門は切沢の搦手口を真っ先に突撃して行ったが、敵兵に馬を射られ、落馬した所をさらに射られ、それでも、太刀を振り上げて敵に向かって行って一人を斬り倒した。さらに二人目の敵に向かって行こうとした所、力尽きて倒れてしまったという。楯に乗せられて後方に運ばれたが、体に五本の矢が刺さり、首の付け根に刺さった矢は致命的だった。 次郎右衛門は母違いの姉の婿で、善太夫よりも七歳年上だった。父が戦死した後、湯本家を継ぐのは自分に違いないと信じていたのに、善太夫に領主の地位を奪われた。初めの頃、善太夫に反抗していた面もあったが、何度も戦を共にするうちに善太夫の事を認めるようになり、善太夫の補佐役として、なくてはならない存在となっていた。 合戦の時、善太夫が先頭に立って突撃しようとすると、「お屋形がそんな軽はずみな事をすべきではない」と次郎右衛門は家臣たちを励まして、自ら先頭に立って敵陣に飛び込んで行った。今回も敵の攻撃に臆している家臣たちを力づけ、善太夫に代わって真っ先に吾妻川を渡って行ったのだった。 「他に負傷した者はどの位いるんじゃ」 「槍奉行の小林長右衛門殿も危ないかもしれません。他、重傷の者は三名おりますが、命には別条ないでしょう。それよりも、斎藤弥三郎殿によって天狗の丸から善導寺に人質が移されましたが、その中に、姫様がおりません。他の者たちは全員おりますのに、姫様だけがおりません」 「その事か、心配いらん。姫は無事じゃ。道雲殿が預かっている。ヤエは道雲殿の孫じゃからな」 「という事は羽尾に?」 善太夫はうなづいた。 「大丈夫でしょうか」 「この城が落ちれば、道雲殿も降参するじゃろう。姫は戻って来る」 「そうでしたか‥‥‥」 「心配させてすまなかったのう」 「いえ」 「今回の戦はもうすぐ、終わるじゃろう。しかし、来月には、越後の管領殿が攻めて来る事となろう。今回以上の 「かしこまりました」 杢右衛門が帰ると善太夫は陣内を見て回った。 皆、疲れているようだったが、勝ち戦なので張り切っているようだった。 本丸の方を見上げると異様に静まり返っている。二千人余りいた兵は五百人余りに裏切られ、援軍の白井勢、沼田勢には逃げられ、五百人足らずに減っているはずだった。 敵を本丸まで追い込んだとしても、本丸を落とすのは難しい。無理に押し破ろうとすれば、味方にかなりの犠牲者が出るだろう。 善太夫は本丸から二の丸、三の丸、中城と目を移し、東の空に浮かんでいる円い月の所で目を止めた。 善太夫はその月に、次郎右衛門が死なないようにと祈った。
いずれ、落城するにしろ、上杉輝虎が来るまでは籠城して抵抗を続けるだろう、と誰もが思っていた。ところが、斎藤一岩斎は本丸を囲まれた、その夜の内に、長男の越前守と数名の家臣を引き連れて逃げ出してしまった。岩櫃山中を通り薬師岳を越えて、北へ逃げて行ったと思われた。 夜が明け、一岩斎のいなくなった本丸は何の抵抗もなく門が開かれ、守っていた兵たちは投降した。 本丸の 本丸が落ち、岩櫃城の支城である 一徳斎は兵たちの乱暴 敵兵の死骸は 味方の死骸は名を記帳されて丁寧に 城内を片付け終わって、岩鼓の城下にある金剛院の山伏たちに清めの 一徳斎は今回の戦の一部始終を細かく記録すると、金剛院内の徳蔵院という山伏を使者として、検使役の武藤喜兵衛と共に、甲斐の武田信玄のもとに送った。 岳山城を包囲していた兵も引き上げさせ、援軍として信州から来ていた芦田下野守、室賀兵部大輔にも帰って貰った。 信玄より正式に岩櫃城主が決まるまで、一徳斎と斎藤弥三郎が本丸に入り、三枝土佐守が二の丸に入り、鎌原宮内少輔が三の丸を守り、善太夫は海野長門守、能登守兄弟と共に中城を守る事になった。さらに、天狗の丸は真田兵部丞、西窪治部左衛門が守り、岩鼓の城は真田源太左衛門、常田永助、丸子藤八郎が守った。そして、今回寝返った者たちの人質は岩下城に集められて、富沢新十郎が預かる事になった。ただ、新十郎の人質は三枝土佐守が預かっていた。 重傷を負った次郎右衛門は治療の甲斐もなく亡くなってしまった。遺体は息子の小次郎に伴われて沼尾村に帰って行った。 次郎右衛門の父親は十二年前の平井の合戦にて戦死していた。次郎右衛門が十八歳の時だった。そして、今度は次郎右衛門が戦死して、後を継ぐ小次郎は十九歳だった。巡り合わせというか嫌な巡り合わせだった。戦国の世とは言え、一族の者が亡くなるのは辛い事だった。善太夫には、父親に負けない武将になれと小次郎を励ます事しかできなかった。 善太夫は海野兄弟と共に一月近く、中城を守っていた。 長門守は善太夫の舅だった。長門守は中城を守っている間、これからどうなるのかと心配そうに善太夫に聞いていた。 寝返るのが遅かったし、兄の道雲が一徳斎の弟を殺してしまったため、本領が 「そろそろ、隠居をする時期かもしれんのう」と何度も言っていた。 長門守には三人の息子がいたが、二人を平井の合戦で亡くし、もう一人は八歳で病死してしまっていた。娘が三人いて、大戸丹後守、鎌原筑前守、そして、善太夫の妻になっている。隠居したくても、長門守の跡を継ぐ者はいなかった。 善太夫は何と答えていいか分からなかった。 能登守の方は、これからどうなろうとなるようにしかならんと開き直っていた。 善太夫は今まで、能登守とは面と向かって話した事がなかった。 「おぬし、 「わしはのう、移香斎殿と一度、会ってみたかった。移香斎殿の噂を聞いては、会いたいとあちこち出掛けて行ったが会う事はできなかった。それが八年程前、久し振りに羽尾に帰って来ると、移香斎殿はずっと草津にいたと聞いたんじゃ。わしが羽尾を飛び出す前から草津にいたという。すぐ、目の前にいたのに、わしはあっちこっち捜し回っていたわけじゃ‥‥‥わしは羽尾に帰って来るとすぐに草津に行った。移香斎殿が住んでおられた 能登守は若い頃より故郷を出て、武芸の修行に明け暮れていた。常陸(茨城県)の鹿島にて塚原 故郷に帰って来たのは、平井城が落城してから三年後で、八年程前の事だった。一流の武芸者である能登守は、兄の推薦もあって斎藤一岩斎に仕える事となった。 管領上杉氏が北条氏に敗れて、故郷が危ない。自分が何とかしなければならないと思って帰って来たのだったが、八年間、ここにいて、自分の無力さを嫌という程感じるようになっていた。いくら武芸の達人と呼ばれても、上杉や武田の大軍の前では、どうする事もできなかった。 能登守は自分の武芸をもう一度見直さなくてはならないと思った。羽尾と鎌原程の規模の戦なら、能登守の武芸も役に立つ。しかし、何千、何万の兵がぶつかる戦では役に立たない。一人や二人の武芸者がいた所で戦況に関わる事はなかった。しかし、本物の武芸はそんなちっぽけなものではないはずだった。自分の武芸を生かす道が必ず、あるはずだと信じていた。 「わしはのう、陰流の極意が『和』であると円覚坊から聞いた時、正直いってよく分からなかったんじゃ。武芸というのは人を殺すための技術じゃ。人は皆、戦で活躍するために武芸を身に付ける。殺しの技術が、どうして、『和』になるのか、わしには分からなかった‥‥‥移香斎殿の 能登守はもう一度、自分の生きる道を捜してみると言った。 能登守は二十年程前、武田信玄に仕えた事があった。まだ、信玄が晴信と名乗っていた若い頃だった。能登守は晴信に武芸の指導をしながら、山本勘助の旗下に入って戦でも活躍した。甲府にて妻を貰って子供もできた。そのまま、晴信に仕えていれば今頃、真田一徳斎に代わって、自分が中心になって吾妻郡に攻め込んだに違いないと思うと少しは悔やまれるが、能登守は武将になるよりも、武芸者になる道を選んだのだった。 能登守が晴信のもとを去ったのは、山本勘助から愛洲移香斎の事を聞いたからだった。 甲府を去って、能登守の移香斎を捜す旅が始まった。移香斎を捜して北から南へと旅を続けたが、結局、会う事はできなかった。会う事はできなかったが、後悔はしていない。移香斎が求め続けていた武芸の道を自分も歩きたいと思っていた。 移香斎は陰流の極意は『和』だと言った。 移香斎の弟子、上泉伊勢守もまた新陰流の極意は『和』だと言って、城を捨て、武将である事を捨て、ただの浪人となって旅立って行った。 伊勢守の弟子は上野の国中に何人もいた。自分の弟子が、自分の教えた武芸で殺し合いをしている。殺し合いをさせるために武芸を教えたのではない、新陰流は戦のために使う 伊勢守がこれから何をやるつもりなのかは分からない。しかし、『和』のために、新陰流を生かすに違いなかった。 能登守もこれから自分の武芸を生かすべき道を見つけようと思っていた。その事を考えるためにも、しばらく、ここを去って、甲府で暮らすのもいいだろうと思った。ただ、山本勘助が二年前の川中島合戦で戦死してしまい、もう、甲府にいないのは残念な事だった。 十一月の半ば近く、ようやく、徳蔵院が信玄の書状を 真田一徳斎が吾妻郡の守護となり、岩櫃城主になる事が正式に決まった。そして、一徳斎が信濃、あるいは甲府に行って留守の時は 寝返った者たちは人質を甲府に送って本領を安堵された。 斎藤弥三郎は伯父の一岩斎がいなくなれば、自分が岩櫃城主になれると野心を抱いて寝返ったが、その望みは断たれ、一岩斎の所領のうちの五分の一を手に入れただけだった。 海野長門守、能登守の兄弟は一徳斎に預けられる事となり、領地は没収され、その代わりに信濃にわずかばかりの土地を与えられた。 長門守は先祖からの土地を失って 二人は真田源太左衛門率いる兵と共に、家族と家臣を連れて、雪の降る中、信濃へと旅立って行った。
|
岩櫃城跡
岳山城跡