草津温泉
◇4月8日(薬師の縁日)から10月8日(薬師の縁日)まで営業。冬は冬住みの里で暮らす。
- 妙立山日晃寺‥‥‥日蓮宗。元浄行庵。安政4年(1857)建立。
- 金比羅神社‥‥‥寛政九年(1792)以前に建立。
- 白根神社‥‥‥真言修験。明治6年、囲山に移遷。7月17、18日祭礼日。
嘉吉3年(1443)、山名宗全が白根神社に百石寄進。
享徳5年(1456)、上杉顕定、黒岩顕季、太田道灌らが、朱泥大植木鉢を寄進。
永正9年(1512)、後柏原天皇が神札を奉納。
弘治3年(1557)、上野国神名帳に従一位にて記載あり。
- 草津山光泉寺‥‥‥真言宗。
文化2年(1810)には、現在の光泉寺の所は薬師堂の大伽藍を中心に釈迦堂、念仏堂、十王堂、無縁寺、鐘楼、仁王門らがあり、光泉寺は現在の駐車場の所に山門をくぐるとあった。4月8日、温泉開きの花祭り。小雨に分院あり。
住職‥‥‥九世存鏡(−1478)、十世隆慶(−1503)、十一世清算(−1533)、十二世清存(−1572)、十三世玄英(1591)
- 薬師堂‥‥‥温泉明神を祀る温泉宮が仁王門の脇にあり。温泉明神の本地は薬師如来。お湯善(とうぜん)さまあり。
- 月洲寺‥‥‥湯本三郎右衛門幸綱が隠居寺兼夏寺として建立。父は湯本三郎右衛門幸運。
- 草津山常楽院‥‥‥熊野権現系修験。
文政12年(1829)、光泉寺に草津山号を譲る。湯本氏と同族の細野氏が草津を宗教的に支配していた。
- 龍沢寺(六合村日影)‥‥‥雙林寺末。湯本氏開基(曇英和尚か?)。
- 熊本院(長野原町大字応桑字小代)‥‥‥真言宗醍醐派の修験。
- 大乗院(長野原町林)‥‥‥浦野氏、六合村日影の浦野氏と同族。
- 金剛院(原町)‥‥‥修験。
◎草津への道
- 保科道‥‥‥善光寺→保科→菅平→鳥居峠→田代→大笹→中居→前口→草津
- 仁礼道‥‥‥越後→善光寺→仁礼→鳥居峠→草津
- 毛無峠道‥‥‥須坂→毛無峠→鳴尾→門貝→西窪→中居
- 万座峠道‥‥‥須坂→万座峠→鳴尾→門貝→西窪→中居
- 地蔵峠道‥‥‥上田→禰津→地蔵峠→山の湯(旧鹿沢温泉)→田代→大笹→中居
- 渋峠道‥‥‥善光寺→渋峠→芳ケ平→草津
- 暮坂峠道‥‥‥中之条→暮坂峠→小雨→諏訪原→草津。大正頃まで往来があった。
- 道陸神峠道‥‥‥横谷(松谷)→道陸神峠→川原畑→長野原→草津
- 大戸道‥‥‥豊岡→室田→三之倉→権田→長井→萩生峠→萩生→大戸→大柏木→須賀尾→横壁→長野原→草木原→草津。宗長が利用。
- 沓掛道‥‥‥沓掛→鼻田峠→狩宿新田→羽根尾→草津→鎌原→草津。
◎五湯‥‥‥御座の湯、カッケの湯、ワシの湯、ワタの湯、滝の湯(打たせ湯)。
- 地蔵の湯は修験常楽院細野氏の私有。
- 宝暦5年(1755)以前に、カッケの湯は熱の湯と名前が変わり、その前にあったタムシ、ミズムシの湯という露天湯(足を浸した)がカッケの湯と呼ばれるようになり、宝暦以後は草津七湯と書かれるようになる。
- 効能‥‥‥頭痛、癩瘡、損傷、打撲、眼病、虚労、議痰、中風、癲癇など。
- 御座の湯、滝の湯は癩に効く。カッケの湯、鷲の湯、綿の湯は癩には向かない。
- 1784年頃、地蔵の湯の辺りをさいの河原と呼び、大日堂、不動堂、月洲寺があった。
◎年表
- 嘉禎3年(1237)、三原庄領主に海野左衛門尉(小太郎)幸氏。
- 建長3年(1251)、赤城山麓の寺院(粕川村大字室沢字宇通)全焼する。
- 弘安4年(1281)、浅間山噴火する。
- 文明16年(1484)4月、太田金山城の由良成繁が三百人の供を連れて湯治に来る。
- 文明18年(1486)9月、藤之坊堯恵、草津湯治。
- 文亀2年(1502)3月26日、宗祇、宗長、草津湯治。
- 永正6年(1509)9月12日、宗長、草津湯治。大胡城の大胡上総介を訪ねる。
- 大永7年(1526)秋、越後守護代長尾為景、草津入湯。室田の長年寺長老と会談。
- 永禄2年(1559)小幡信貞入湯中、居城を奪われる。
- 永禄3年(1560)5月、小幡信貞、草津入湯。
- 永禄7年(1564)、湯本善大夫、武田信玄より岩櫃城攻めの功により本領草津谷の他、羽根尾氏領分であった立石、長野原を合わせて与えられる。善大夫、信玄に硫黄5箱献上する。
- 天正15年(1587)3月30日、近衛前久竜山、草津に湯治に来て、5月、薬師堂の本尊の名号 を歌の頭に十首詠む。
- 天正15年(1587)5月、秀吉の異父妹朝日姫、草津入湯。7月、本願寺顕如光佐、教如光寿、顕尊佐超、草津湯治。
- 天正16年(1588)9月、秀吉の養子秀次、草津入湯。
- 文禄3年(1594)10月、大谷刑部少輔吉継、草津湯治。吉継の娘は真田幸村の妻。
- 文禄4年(1595)秀吉、草津湯治を計画するが適わず。
- 慶長3年(1598)4月、前田利家、草津湯治。
- 慶長11年(1606)、湯本三郎右衛門、館林城主榊原康政に硫黄15貫目贈る。
- 天知元年(1681)、沼田城主真田伊賀守改易され、以後草津は天領となる。
- 宝永7年(1710)、光泉寺火災。正徳3年(1713)光泉寺再興される。
- 寛政2年(1790)、この頃より湯の花を採取する。
- 明治2年(1869)4月7日、草津全焼する。以後、冬住みの習慣なくなる。
- 明治5年(1872)、運動茶屋にあった白根神社、現在地に移る。
- 明治15年(1882)、白根山大爆発、樹木立ち枯れ。
- 明治20年(1887)、癩病者を湯の沢に移転。御座の湯を湯の沢に移す。
- 明治22年(1889)、光泉寺薬師堂焼失。
- 明治25年(1891)、白根山大噴火。
- 明治34年(1901)、光泉寺を薬師堂跡に移転。
- 明治37年(1904)、白根山弓池爆発。
- 大正5年(1916)、リー女子、湯の沢地区に聖バルナバ医院設立。
- 大正8年(1919)、草津に初めて電灯が灯る。
- 大正12年(1923)、草津新四国八十八ケ所霊場開山。
- 大正15年(1926)、草津電鉄軽井沢草津間全線開通。
- 昭和6年(1931)、栗生楽泉園国立療養所開設。この頃、湯の沢地区の人口は800人で全町の三分の一を占める。
- 昭和16年(1941)、湯の沢地区解散式。
- 昭和23年(1948)、天狗山ヒュッテ完成。
- 昭和26年(1951)、群馬大学付属病院草津分院、湯の沢地区に設置。
- 昭和37年(1962)、草軽電鉄廃止。
- 三原庄‥‥‥海野一族である羽尾氏は長野原区域、鎌原氏は嬬恋村西部区域、西窪氏は嬬恋村東部区域を支配。
鎌原氏は文明の頃より管領上杉顕定に属す。
・下屋修験‥‥‥滋野一族。熊野系統。
- 細野御殿之助(三友助)幸久‥‥‥望月姓。源頼朝より湯本姓を頼る。
- 湯根三右衛門‥‥‥源頼朝より湯根姓を賜る。湯の花採取の権利を持つ。湯小屋の清掃、旅行病者の始末、乞食などの取り締まり、夜番を任されていた。
- 沢渡の湯を支配したのは、草津湯本の分家湯本九郎右衛門。
- 木曽義仲の家来‥‥‥今井四郎兼平、樋口次郎兼光、楯六郎親忠、根井太郎行親、望月十郎重頼、
樋口氏は兼光の死後も伊奈郡樋口村に居住していたが、文安2年(1445)に、樋口の当主は吾妻郡小宿村に移住し、そこに43年居住し、延徳元年(1489)に、平井城にいた上杉民部大 輔顕定に仕えるために吉井町馬庭に移った。
- 岩櫃城‥‥‥吾妻太郎維元から4代の孫吾妻四郎助光の時、承久3年(1221)の乱に北条義時軍に加わり、宇治川の合戦で戦死。家臣の大野越前は、主君を太田の城に押し込めて、かつて、吾妻氏の有力な地侍であった塩谷日向、秋間三郎と3人で相談し、吾妻氏の領地を3 分して横領してしまった。秋間三郎は太田城(吾妻町植栗)の二の曲輪に住み、大野越前は原町の平川戸にあった稲荷城に住み、塩谷日向は中之条横尾の和利宮の城に住んだ。文明の頃、大野は秋間を滅ぼし、次いで塩谷も降ろして岩櫃城を乗っ取った。太田金山城の由良国繁に従属して吾妻東部を独裁していたが、その家来の植栗河内守元吉は吾妻太郎の同族だったので、大野の家来であり、大野に怨を抱いていた斎藤三郎憲実をそそのかして、大野を攻め、これを滅ぼした。
- 室田長年寺
初代 曇英慧応(−1504)、2代 宝光智証(−1519.2.25)、3代 桂室伊繁(−1523.4.8)、4代 器山宗範(−1537.3.17)、5代 養室紹舜(−1576.12.20)、6代 鳳室青丹(−1570.10.24)
- 1681年の沼田領覚書によると、草津の湯宿表屋敷35軒、1軒に付き湯鐚2貫775文づつ、裏屋敷25軒、1軒に付き416文づつ、毎年、湯銭として徴収した。
- 1686年の検地帳によると、草津には、百姓居敷23軒、表屋敷40軒、裏屋敷18軒、計81軒。
- 1690年の村費取立記録によると、表通33軒、中通25軒、裏通60軒、計130軒。
- 1732年、滝下、南ノ台、さいの河原、浄土、入口、北ノ台、泉水などを開いて新屋敷地を作り、見取検地を受ける。
- 1764年の三ケ村明細村差出書上帳によると、
草津村‥‥‥家数150軒、人数807人、男406人、女401人。女馬75疋、牛無。山伏1人本山常楽院、座頭1人、大工7人、鍛冶その他職人無。
前口村‥‥‥家数33軒、人数128人、男64人、女64人。女馬7疋、牛無。大工職人無。
小雨村‥‥‥家数14軒、人数88人、男40人、女48人。馬10疋、牛無。大工1人、職人無。
- 1788年の巡見使に差し出した絵図の添え書きによると、
草津村‥‥‥家数182軒、人数717人、男402人、女315人。女馬75疋。
小雨村‥‥‥家数22軒、人数103人、男52人、女51人。女馬22疋。
前口村‥‥‥家数17軒、人数94人、男50人、女44人。女馬6疋。
- 1825年の三ケ村明細村差出書上帳によると、
草津村‥‥‥家数181軒、大工9人、桶屋2人、畳屋2人、石切3人、左官2人。
小雨村‥‥‥家数26軒、職人無。
前口村‥‥‥家数23軒、職人無。
- 1800年頃の居酒屋、料理屋
・桐屋(金比羅の近く)・美濃屋(光泉寺山門前)・浪花屋・天の字屋・元木屋・朝日屋・難波屋
- 江戸時代初期(沼田藩真田支配)1681年
湯支配 湯本平兵衛
目付 宮崎文右衛門
湯入改 宮崎十郎右衛門、中沢杢右衛門
大笹関番 坂上武右衛門、富沢権右衛門、湯本弥五助、湯本伝右衛門
名主 新納伊右衛門
肝煎 湯本覚右衛門、湯本安兵衛
百姓代 黒岩忠右衛門
- 入湯税として、毎年800貫文前後、沼田藩に納めた。
- 7日間〜10日間を一廻りと言って、湯治客から416文づつ湯銭を徴収した。真田氏はこの重税によって改易された。天領になってからは湯銭が免除され、宿賃だけになる。
- 1681年、沼田藩が断絶すると、草津は幕府の直轄地となり、名主は入札によって2年毎に改められ、年寄は江戸時代通じて、湯本覚右衛門と湯本安右衛門が世襲した。
- 1865年の宿屋 大家と呼ばれる勢力のある宿屋が11戸あった。
山本十右衛門、湯本平兵衛、湯本安兵衛、湯本角右衛門、中沢善兵衛、黒岩忠蔵、坂上治右衛門、山口幸右衛門、宮崎文右衛門、中沢杢右衛門、市川権兵衛。
- 客の部屋の事を壷と呼んでいた。草津の習わしとして、刀や懐中の金などは、すべて、主人に預けた。
- 広小路‥‥‥今の湯畑。湯畑の地名は明治四十年頃、付けられた。
◇1902年の温泉旅館
- 一等温泉宿(皆内湯あり)
望雲館(黒岩忠四郎)、一井(市川善三郎)、日新館(湯本柳三郎、旧名安兵衛)、大東館(山本与平次)、長善館(中沢市郎次)、山本館(市川久三郎)
- 二等温泉宿
福栄館(湯本半平)、昇英舎(桐山仁平)、松盛楼(富永徳次郎)
- 三等以下五等に至る温泉宿
民屋(中沢善十郎)、松の屋(市川〆蔵)、七ツ星(新納伊三郎)、林屋(小林善太郎)、松村屋(宮崎五郎平)、山幸(山口幸八郎)、穀屋(小林長蔵)、旭屋(松田徳郎)、月の井館(湯本登作)、一田屋(宮崎常吉)、万屋(伊能弥平)、改良館(羽田五平)、郭公館(田村長作)、大津屋(山口栄太郎)、対瀧舎(成沢せい)、山木屋(山口久八)、新納屋(丸尾きさ)、綿屋(天野千代)、遠州屋(黒岩宮次郎)
◇1904年の集落構成
- 宿泊施設 温泉旅館8軒35棟、温泉旅舎6軒11棟、温泉宿屋1軒1棟、旅館2軒2棟、旅舎10軒17棟、入湯旅館3軒5棟、旅人宿6軒7棟、下宿1軒1棟、木賃宿3軒3棟 計40軒82棟
- 飲食店 料理屋8軒8棟、食堂4軒4棟
- 食糧品店 酒・穀類店5軒5棟、牛肉店2軒2棟、野菜・豆腐・牛乳店4軒4棟、菓子店3軒3棟
- 太物・呉服・荒物・雑貨店7軒7棟、薬・時計・陶器店4軒4棟、湯の花販売店2軒2棟、置物等製造10軒10棟、大弓場1軒1棟、貸本店1軒1棟、運送業2軒2棟、写真店1軒1棟、理髪店4軒4棟、医院3軒3棟、その他16軒16棟
合計117軒159棟
◇1915年の湯の沢
- 旅館16軒、商店14軒、理髪店2軒、飲食店2軒、大工1軒、左官1軒、建具屋1軒、農業20軒
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