「長野県史」より
- 1467年10月18日、海野地方は大乱となり、海野氏幸が村上頼清に攻められ所領の一部を奪われる。
- 小笠原信濃守長棟(1492−1542)‥‥‥林城に拠り、小笠原家の統一に成功する。
- 1523年6月10日、武田信虎、善光寺に参詣する。
- 1561年、川中島合戦、真田幸隆、信綱と共に参戦する。
- 1562年秋、信玄、上野に進攻し、11月、北条氏と共に上杉憲勝の松山城を攻める。
- 1571年、真田幸隆、白井城を落とす。当時、吾妻郡を幸隆、小県を信綱が支配していた。
- 1573年11月22日、河原又次郎に綱家の名乗りを許す。
- 1575年、長篠合戦。山県昌景、馬場信房、波合胤成、望月義勝、真田信綱、真田昌輝、望月重氏、禰津是広、高坂助宣、高坂昌澄ら戦死する。
◇善光寺信仰
- 1553年、川中島合戦、上杉氏、善光寺の仏像、仏具の一部をを越後府中に移す。
- 1557年2月、武田軍、葛山城を攻略し、戸隠、飯綱を占領し、善光寺の仏像、仏具のほとんどを甲府に移す。善光寺町は潰滅する。飯綱神主千日大夫は武田に降伏。
- 1558年9月25日、善光寺如来、甲府に着く。甲斐善光寺。
- 善光寺如来は武田氏滅亡後、織田信長によって岐阜に移され、信長の死後、その次男信雄により清須甚目寺に移されたが、徳川家康は信雄に交渉して、これを浜松鴨江寺に迎え、やがて、甲府に返した。1597年、秀吉は善光寺如来を甲府から迎えて、京都方広寺の本尊とした。秀吉の健康状態が悪化し、善光寺如来の祟りだと噂され、翌年8月、秀吉の死ぬ一日前の17日、如来は信濃に送り返された。
◇諏訪信仰
- 武神として武士に信仰される。狩猟神として山間集落の人々に信仰される。
- 鹿食免(かじきめん)と鹿食箸という御符を配布する。
◇修験
- 善光寺‥‥‥天台宗園城寺の末寺であり、後に聖護院の末寺になる。
- 大井法華堂(佐久市)‥‥‥天台宗聖護院末寺。大井氏の保護の元、東信の修験の中心となる。1568年に法華堂祐源。
- 皆神山和合院(長野市松代町)‥‥‥天台宗。川中島地方の山伏の中心。熊野神社。
- 浅間山、四阿山、白根山の三山を中心とする地域は、天台宗の白山信仰の影響の強い地域。
- 浅間山別当真楽寺(北佐久郡御代田)‥‥‥真言修験。上野は鎌原の延命寺。
- 越後関山宝蔵院(新潟県妙高村)‥‥‥関山神社別当。天台宗。
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