酔雲庵


酔中花

井野酔雲





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 ねえ、ちょっと聞いて。

 どうして、人間て、今、こんなにもいっぱいいるの?

 あたしが生まれた時なんて、ほんの少ししかいなかったわ。でも、みんな、いい人間ばかりだった。だって、みんな、あたしの事、ちゃんと気づいてくれたわ。みんな、あたしの事、綺麗だとか可愛いって言ってくれたのよ。でも、今の人たちは何? あたしの前を通ったって、全然、あたしの事なんて見てくれないわ。

 いつから人間はめくらになっちゃったの?

 何を考えながら生きてるんだか知らないけど、難しい顔なんかしちゃって、みんな、足元ばかり見て歩いてるわ。足元を見なくちゃ歩く事もできないのかしら。そのくせ、石につまづいて転ぶんだから、どこに目がついてるんだろ‥‥‥どうせ、大した事、考えてないんでしょ。自分のご飯より他人の方が多い、少ないとか、うまそう、まずそうだとか、自分の巣の方が他人より大きい、小さいだとか、自分の方が他人よりも無駄な物をいっぱい持ってるとか、他人から偉いと思われたいとか、結局、自分の事しか考えてないんでしょ。

 ちゃんと目がついてるんだから、もっと色々な事を見なけりゃ損だよ。勿体ないよ。まるで、望遠鏡を覗いてるみたいにさ、ほんの一部しか見ないなんて。それに、もっと悪いのは、色の付いた望遠鏡を覗いてる人間もいるね。これなんか、最悪だよ。もう救いようがないね。もっと、もっと大きいんだよ、世の中っていうのは‥‥‥それに綺麗だしさ。ほんと、楽しくやらなきゃ。

 あたしがこんな事、言ってみたってしょうがないか。今まで、望遠鏡で世の中を見て来た人間が、急に望遠鏡をはずしたら視界が広くなりすぎて、どこを見たらいいか、わかんなくなっちゃうね、きっと‥‥‥

 でもね、最近、ほんと、あたしに気がついてくれる人間、少ないよ。少なすぎるよ。それに最近はほとんど、お爺ちゃんだよ。若い人なんか、全然、見ようともしない。情けないな。もっと、しっかりしなくちゃ駄目だよ。

 そうね、この前、来た若い人っていえば、確か、お坊さんだったわ。人間の時間にしたら、かなり昔になるんでしょうね。そのお坊さん、お経を唱えながら、怖い顔して山に登って来たわ。勿論、あたしには気がつかなかったけど面白かったわ。そのお坊さん、なかなか、いい男だったし、真剣に困っている人たちの事を考えてたの。あたし、彼を色々とからかってやったの。お坊さんてなぜか、女の人嫌いでしょ。だから、あたし、人間の女に化けて色々と彼を悩ませちゃった。ほんと面白かったわ。でも、彼、山を下りる時は晴れ晴れとさっぱりした顔をして、ちゃんと、あたしに気づいてくれて、あたしに合掌までしてくれたのよ。あたし、もう嬉しくて、また、人間に化けて彼の後をついて行こうかなって考えたくらいよ‥‥‥ほんと、いい男だった‥‥‥もう、とっくの昔に死んじゃったんでしょうね。山から下りて、彼が何をしたのか、あたしは知らないけど、きっと、みんなのために頑張ったんでしょうね‥‥‥

 あ〜あ、人間の命なんて短いのね‥‥‥

 あっ、誰か来る。若い男だわ。スケッチブックなんか抱えてるわ。絵画きの卵ってとこかしら。あまり、人相、よくないな。何か悪い事でもして来たのね。自分の心に反する事をして来た顔だわ。あんな顔してたら、あたしに気づくはずはないわ。まだ若いのに可哀想ね。彼はきっと、この先、ひどい世界をさまよい歩く事になるわ‥‥‥あっ、あたしの前で止まった。やっぱり、あたしには気づかないわ。山の方を見ている。彼、わりと可愛いじゃない。そうだわ、もし、彼が泉の水を飲んだら、助けてやってもいいわね‥‥‥どうかな、飲むかな?

 まだ、山の方を見てるわ。やっと、歩きだした。泉の前を通る。チラッと泉を見るけど、そのまま行くのかな‥‥‥いえ、荷物を下に置いたわ‥‥‥飲んだ、飲んだわ‥‥‥まだ、見込みあるじゃない。よし、決まりね。彼と遊ぼう。

 あっ、そうだ。その前に彼を若返らせなくっちゃ。今の彼じゃ、もう立ち直れないわ。せめて、罪を背負っていない頃、人間時間で三年前まで戻しちゃお。





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