酔雲庵


酔中花

井野酔雲





16




 ラーラと昭雄は森の中から、小川のほとりに出て来た。

 辺りは月の光に照らされて意外な程、明るい。

「へえ、こんな所にこんな綺麗な所があったのか?」昭雄は感心して辺りの風景を眺めている。

「今はないわ」とラーラは言った。

「えっ?」

「この景色はね、五十年位前の時よ」

「あんたと話してると俺まで頭がおかしくなってくるよ」

「あなたはね、頭の中に、ある基準を勝手に作っているから頭が混乱するのよ。もっと頭を柔らかくしなさい。そうすれば色々なものがわかるわ」

「ここで何が起こるんだ?」

「もうすぐ始まるわ。ゆっくり見物しましょう」

 ラーラはかたわらの石に腰掛けた。昭雄も隣に座る。

 月に照らされて、小川は光りながら流れていた。

「景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」

「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。

「月見酒でしょ」とラーラはどこからか、一升どっくりを出す。昭雄は呆れて声も出ない。

「いつも、あなたは酒をぶらさげて散歩してるんですか?」

「そうよ。わたし、お酒、大好き」とラーラは言って、ラッパ飲みする。

「ああ、おいしい」と幸せ一杯の顔をした。「あなたも飲む?」

 昭雄もラーラから、とっくりを受け取り、一口飲んでみる。何とも言えないうまさだった。日本酒のようで、ブランディのようでもあり、今まで飲んだ事がない味がした。しかし、アルコール度はかなり強かった。

「うまいでしょ?」

 昭雄はうなづいた。「うまい。こんなうまい酒、飲んだ事ないよ」

「そりゃそうよ。この大自然が作り出したお酒よ。人間なんかに作れるわけないわ」

「自然が作っただって? それじゃあ、まだ、いっぱいあるのか?」

「あるわ、たっぷり。わたしが死ぬまで飲んでも飲みきれない程ね」

「どこにあるんだよ、教えてくれよ」

「駄目。これを人間に飲ませたら大変な事になるわ。昔から、よく言うでしょ。不老長寿のお酒があるって。これが、そのお酒よ」

「それじゃあ、これを飲むと死なないのか?」

「そうね、何百年も生きられるでしょうね。でも、このお酒が欲しいという人間に殺されちゃうから、結局、同じよ。百年も生きられないでしょ」

「うん、そうかもしれないな」と昭雄はもう一口飲む。

「うまい‥‥‥」

「そんなに飲むと後で腰が立たなくなるわよ」ラーラは昭雄から、とっくりを奪い、自分で飲む。

「ああ、いい気分だ‥‥‥景色はいい。天気はいい。気候も丁度いい。うまい酒もある。こんな所に男と女がたった二人きりでいる。こんな時、人間は何をするか知ってる?」

「知ってるわ」とラーラはニヤリと笑う。昭雄もニヤリと笑う。

「殺しよ」とラーラは笑いながら言う。

「ちょっと待てよ。せっかく、いい気分になってるのに、何が殺しだよ。もっとロマンチックな事を言えよ」昭雄はラーラから、とっくりを取り、一口飲む。突然、ハッとしてラーラを見る。ラーラは相変わらずニコニコしている。

「ちょっと聞きたいんだけど、まさか、俺を殺す気じゃないだろうな?」

「フフフ」とラーラは笑う。「あなたを殺したら、わたしは永遠に存在しなくなるじゃない。それより、楽しく飲みましょう」

 ラーラはまた、とっくりから酒を飲み、幸せ一杯と無邪気に笑う。そんな顔を見ていると昭雄には彼女の口から『殺し』なんて言葉が飛び出して来るとは、とても思えない。ただの可愛い女にしか見えない。昭雄はラーラを抱き寄せた。

「さっきより冷たくなったみたいだぞ」

「あら、そう‥‥‥まだ、お酒が足りないんじゃない」とラーラはとっくりを昭雄に渡す。

「そうだな」と昭雄は酒を飲む。酒はうまい。景色もいい。隣の女も最高だ。しかし、昭雄は考える。彼女の体温の冷たさは、今が夏だったら気持ちいいだろう。毎晩、彼女を抱いて寝ればぐっすりと眠れるだろう。だが、今はまだ陽気が寒い。彼女を抱いて寝たら、俺は氷にされてしまう。

「やっぱり、あんたは人間じゃないな」

「まだね‥‥‥あなたの孫よ」

 昭雄はラーラから離れた。離れたくはないのだが、限界を感じたのだ。彼女を抱いていた手は冷えきって軽い凍傷のようになっていた。昭雄は慌てて、息を吹きかけたり手をこすったりした。

「あなた、酔うと踊る癖があるの?」とラーラは笑いながら言った。

 小川の向こう側に、若い男と女が現れた。男は昭雄の祖父、二郎。女は昭雄の祖母、美枝子である。

「誰か来た」と昭雄が言った。「馬鹿に古臭い格好をしてるな」

「あの二人はね、あなたのお爺さんとお婆さんよ」

「まさか?」

「あの二人は、この山で知り合ったのよ」

「どっちの爺さんと婆さんだ?」

「あなたのお母さんの方よ」

「お袋のお袋は若くして病死したって聞いたけど」

「見てればわかるわ」






17




「気持ちいい」と美枝子は小川のほとりにしゃがみ、手を水の中に入れて言った。

 二郎は美枝子の後ろ姿を優しく見守っている。

「冷たいですか?」

「ええ‥‥‥見て、月が映ってますわ」

「三日月ですね」と二郎は美枝子の隣にしゃがみ、川の中で遊ぶ美枝子の手を見ている。

「お爺さんは絵画きだったな」と昭雄は言った。「昔、お婆さんの若い頃の肖像画を見た事がある」

「わたしに似てた?」とラーラは言う。

「似てるわけないだろう」と昭雄は言ったが、よく見ると似ているような気もする。

「わたしね」と美枝子が言った。「前にも一度、ここへ来たような気がしますわ」

「いつ頃ですか?」と二郎は美枝子の横顔に聞いた。

「わかりません‥‥‥もしかしたら、夢の中だったのかもしれませんわ」

「そういう事、よくありますよ」

「何となく、懐かしいような気がします」

「いい景色ですね」

「彼女のお母さんがね」とラーラは言った。「彼女がまだ、おなかの中にいる時、ここに来た事があるのよ」

「ほんとかよ」と昭雄は本気にしない。

「ええ、ほんとよ。あなたはなぜ、この山に来たの?」

「何となく、絵になりそうな気がしたからさ」

「あなたの一族は必ず、この山に来るわ。何かに引っ張られるようにして」

「俺のお袋も来たのか?」

「ええ、小さい頃、あなたのお爺さん、ほら、あの人よ、あの人に連れられて何回か来たわ」

「俺は一度もお袋から、そんな事、聞いた事もない」

「あなたのお母さんは嫌な事を知ってしまったのよ。それで、この山の事は思い出さないようにしてるの」

「嫌な事? 何だい、それ?」

 二郎と美枝子は石に並んで腰掛け、小川の流れを見ていた。

「わたしね‥‥‥」と美枝子は言った。

「えっ?」と二郎は美枝子を見る。

 美枝子は小川を見つめたまま、「何でもないの‥‥‥」と小さく呟いた。

「美枝子さん‥‥‥」

「何ですか?」と美枝子は顔を上げて二郎を見る。

「‥‥‥」二郎、美枝子を抱き締める。

 二人は石になったように身動きもせずに抱き合っている。

 突然、二郎が消える。

「何だ?」と昭雄は瞬きをする。「どうして、あの男は消えたんだ?」

「それはね」とラーラは酒を一口飲む。「それはね、彼女の心の中で、あの男が消えちゃったのよ」

「なぜ?」

「冷めたのよ、二人の仲が」

「いつだ、それは?」

「子供ができてからみたい。あなたのお母さんがね」

「どうして?」

「そんな事、知らないわよ。いくら、わたしだって人の心の中まで覗けないの」

「ほら」とラーラは昭雄にとっくりを差し出す。「そんな細かい事、いちいち気にしないで、もっと大きくなりなさい」

 昭雄はとっくりをラーラから引ったくり口に持って行く。

「空っぽじゃないかよ」

 ラーラはゲラゲラ笑う。

「この酔っ払い女め、勝手な事ばかり言いやがって」

「もう一度、口に当ててみて、今度はちゃんと入ってるわよ」

 昭雄は疑いの眼でラーラを見ながら、とっくりを口に持って行く。彼女の言う通り、酒は入っていた。

「やっぱり、あんたは女ギツネだな」

「そうよ。わたしは可愛い女ギツネよ。あなたをからかってんの」

「勝手にしろ!」

 美枝子は一人、石に腰掛けたまま川を見ている。そこに新たな男が登場。麗子の祖父、義夫である。義夫の方に振り向く美枝子。

「あなた、どこに行ってらしたの? 突然、消えたりして、わたし、とても心細かったのよ」

「何を言ってるんだい。君が喉が渇いたって言うから水を捜しに行ってたんじゃないか」

「そうだったかしら。わたし、随分と長い間、ここで待っていたような気がするわ」

「君は大袈裟だよ。ほんの一、二分だろ」

 義夫は水筒を美枝子に渡すと隣に座った。

「さっきから八年後よ」とラーラは言った。

「何?」と昭雄は驚く。「八年もあそこにいたのか?」

「まさか、これは彼女の思い出なのよ。彼女の心の流れを再現しているの」

「へえ、便利なもんだな。人の心を勝手に、こんな所で公開なんかしてよ、あんたは大した演出家だよ」

「うるさい。静かに見てなさい」とラーラは昭雄を睨んだ。

 昭雄はゾクッと寒気を感じておとなしくなる。

「わたし」と美枝子は言った。「喉なんか渇いていません」

「ここは」と義夫は言った。「君の思い出の場所なのかい?」

「ええ、わたしが生まれた所、わたしが結婚した所、そして‥‥‥」

「君はここで生まれたのか?」

「そんな気がするだけよ」

「だから、ここを死に場所に選んだわけか?」

「えっ? 何を言ってるの? わたし、まだ死にません」

「君こそ何を言ってるんだよ。僕と一緒に死のうって約束したじゃないか。今になって急に気が変わったのか?」

「そんな約束してないわ、わたし」

「君が約束したから、二人して、こんな山奥まで来たんじゃないか。君がここで死にたいって言ったんだぜ」

「嘘よ。わたし、まだ死なないわ。子供だっているし、夫だっているもの」

「僕だって、子供もいるし妻もいる」

「それなのに、なぜ、死ななければならないの?」

「もう、それしかないんだよ。僕らに残ってるのは」

「いいえ、わたしには、まだ夢があるのよ」

「夢? どんな?」

「‥‥‥言えないわ」

「もう手遅れさ。すべて、もう駄目だよ‥‥‥死ぬしかないんだ」

「わたしね、さっき、一人の時、色々考えてたの。もう二度とここには来ないんじゃないかって気がしたわ」

「そうさ。僕らはもう、二度とこの山にも来ないし、あの腐った都会にも帰らない。ここで、二人だけで静かに死んでいくんだよ」

 美枝子は首を横に振りながら、義夫の顔を見つめる。義夫はゆっくりとうなづくと水筒から水をコップに移した。ポケットから薬を出すとコップの中に溶かした。

「何、それ?」

「これを飲めば、眠るように死ねるんだ」

「わたし、まだ眠くないわ」

 義夫はコップを美枝子の手に握らせる。美枝子はコップを両手で包むようにして口元まで持っていき、コップの中の水を見つめた。

「月が‥‥‥」

 コップの中の水にちょうど三日月が映っている。

「それを飲めば、楽になれるんだよ」

 美枝子はしばらくコップの中の月を見つめていたが、急に水を投げ捨てた。

「わたし、三日月なんて飲めないわ」

 義夫は思い詰めたように美枝子の顔を見つめている。

「ねえ、やめましょう‥‥‥ねえ、もう帰りましょう。子供が待ってます」

 美枝子、コップを置き、立ち上がろうとする。義夫は素早く、美枝子の首をつかんで絞める。

「やめて! わたし、まだ死なないのよ」

「一緒に死ぬんだ」

「いやよ、やめて‥‥‥」

「やめろ!」と昭雄は怒鳴った。

「駄目よ」とラーラはたしなめた。「あなたの声は聞こえないわ」

「俺が行って止めてやる」

「駄目よ。あなたはあの世界には入れないのよ」

 美枝子はもがき苦しんでいる。

 美枝子はぐったりと動かなくなる。

 美枝子は死んだ。

 死んだ美枝子を呆然と見ている義夫。荒い息をしながら水筒に手を伸ばし、水を浴びるように飲む。ポケットからタバコを出すと死人の前でちょいと一服。タバコを投げ捨てると美枝子を石の上に寝せ、着物を直してやる。乱れた彼女の髪を綺麗に直し、静かに眠っているような安らかな顔を優しく撫でながら、義夫は独り言をブツブツ言っている。

 ようやく、義夫はポケットから薬を出して口の中に入れた。水筒を口に持っていくが中は空だった。辺りを見回し、コップで小川の水をすくうと目をつぶって一息に飲み干した。ゆっくりと美枝子の隣に行き、横たわる。美枝子の横顔を見つめ、そして、空を見上げ、次に並んでいる二人の姿を見る。まだ、右手にコップを持っているのに気づき、コップを投げ捨て、美枝子の手を握ろうとするが、急に顔を歪めて体を丸め、両手で腹を押さえたまま、ガクッと死んだ。

 並んだ二つの死体。

 やがて、死体は消えた。死体の跡に黒い影が残る。





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