酔雲庵


酔中花

井野酔雲





18




 昭雄は川のほとりに立って反対側を見つめていた。石にはまだ黒い影が残っている。

 ラーラは石の上にあぐらをかいて酒を飲んでいる。

 昭雄はラーラの方に振り返って言った。

「あれは本当なのか?」

「ちょっと違うけどね、まあ本当よ」

「ちょっと違うって?」

「あれはあなたのお婆さんの思い出なのよ。だから、自分の都合のいいように美化しているの」

「お婆さんはあの男に絞め殺されたのか?」

「本当は二人とも薬で死んだらしいわ」

「全然、知らなかった」

「もっと過去までさかのぼれば色々と面白い事がわかるわ」

「あの男は一体、誰なんだ?」

「あなたの奥さんのお爺さん」

「俺はまだ結婚なんてしてないよ」

「あら、そう。でも、あなたは麗子という女と一緒になるのよ。そして、彼女を殺すの。さっきの男みたいに」

「嘘だ! そんな事、わかるわけがない」

「わかるのよ。わたしが生まれてから先の事はわからないけど、過去の事は全部わかるの」

「なぜ?」

「わたしはまだ魂だけなのよ。肉体を持ってないの。だから、過去の事は一切見えるのよ」

「なぜ、肉体があると見えないんだ?」

「わからないわ。でも、人間ていうのは都合の悪い事はすべて忘れてしまうのよ」

「それじゃあ、生まれてすぐの時はどうなんだ?」

「生まれてすぐの時はまだ、過去が見えるはずよ。でも、未来に向かって生きて行こうとするの。過去の事なんて必要なくなるのよ。過去なんて実体のないものだから、それより、お母さんのおっぱいの方が嬉しいのよ」

 昭雄の祖父、二郎が十歳位の女の子を連れて、小川の反対側に現れた。

「ほら、あなたのお母さんが来たわよ」

 昭雄、振り返って、二郎と女の子を見る。

 女の子は小川で遊んでいる。二郎は石に腰掛け、スケッチを始めた。すでに、黒い影は消えている。

「人間は死んだらどうなるんだ?」と昭雄はラーラに聞いた。

「知らないわ、そんな事。地獄に落ちて苦しむんでしょ」

「ちゃんと答えてくれよ」

「知らないのよ、ほんとに。わたしはまだ生まれていないし、死んでもいないのよ」

「麗子とか言ったな。なぜ、俺がお婆さんを殺した男の孫なんかと一緒にならなけりゃならないんだ?」

「そう決まってるのよ」

「誰がそんな事、勝手に決めたんだ?」

「自然よ」

「自然?」

「人間は神って呼んでるんじゃないの」

「神? 俺は神なんて信じてないよ」

「でも、自然が決めたのよ。さっきのあなたの奥さんのお爺さんが、あなたのお婆さんと心中するのも、あなたが奥さんを殺すのも、すべて、自然が決めて、人間はただ、その通りに動いてるだけよ」

「自然なんて言ったって、大して力なんか持ってないじゃないか。人間はどんどん自然を破壊している」

「それも自然が決めた事、人間は自然を破壊したり、勝手に作り変えたりして、自然を支配してるつもりだろうけど、それは人間の思い上がりよ。人間自身が自然の一部なのよ。自然の一部に過ぎないものが、自然を支配できるわけないでしょ」

「もし、みんな決められているんだったら、人間は何のために生きているんだ?」

「自然の一部として役割を果たしているのよ」

「たった、それだけのために、毎日あくせくと生きてるわけか?」

「そうよ。でも、人間は何も知らないわ。みんな、一生懸命、生きてるじゃない」

「あらかじめ、決められたコースをか?」

「ええ、あなたはそれではつまらないとでも言うの?」

「当たり前だろ。自分の未来がすっかり決められてるのに生きる馬鹿はいないさ」

「それはそうよ。だから、みんな、未来の事は知らないのよ。一秒先の事だってわからない。ただ、自然だけが知っているのよ」

「自然て、一体、何なんだ?」

「そんな事、わかるわけないでしょ。人間ていうのはわからないものがあると勝手に言葉を並べてわかったような振りをしてるけど、あれは本当にわかっているわけじゃないのよ。わからないと不安なのね」

「面白くないな。人間て、そんなちっぽけなものなのか?」

「それは仕方のない事よ。人間は鳥のように空は飛べないし、魚のように海では生活できないし、決められた範囲の中で生きていくしかないのよ。たとえ、それがあらかじめ決められた生き方だったとしても、未来の方に向かって生きて行くのね、死ぬまで毎日」

「もし、俺が麗子なんて女と結婚しなかったら、どうなる?」

「わたしはいなくなるわ。でも、そんな事は絶対にありえないの」

「ふん。俺はそんな女と結婚なんかしないぞ、絶対に‥‥‥」

「好きにしなさい」

 ラーラは立ち上がると、とっくりをぶら下げて森の中に入って行った。

「どこ行くんだ?」

「あなたの未来を見せてあげるわ。興味あったらついてらっしゃい」

「俺の未来?」

 昭雄はしばらく、スケッチしている二郎と小川で遊んでいる女の子を見ているが、ラーラの後を追って森の中に入って行く。




酔中画3-E018




19




 原生林に囲まれて綺麗な小さな沼がある。

 小枝の先に綺麗な小鳥が止まって月を見上げている。

 林の中からラーラと昭雄が出て来る。

「見て」とラーラは小鳥を指さした。「ねえ、綺麗でしょ」

「うん、あんな綺麗な鳥、見た事ないよ」

「あの鳥はね、あなたの祖先よ。ずっと昔の事だけど」

「俺の祖先は鳥だったのか?」

「もとは人間だったのよ。彼女はこの沼で死んだの」

「自殺か?」

「いいえ、違うわ。この沼で水浴びしてたら、波に飲まれて溺れ死んだのよ」

「こんな小さな沼で溺れ死んだ?」

「昔はもっと大きかったのよ。この沼にはね、竜が住んでると言われてたの。この辺に住んでた人たちは誰も近づかなかったわ。彼女は隣村の男の人と恋をしてね。彼女の村とその人の村っていうのが仲が悪いのよ。それで、二人は誰も近づかないこの沼で逢い引きする事にしたの。彼女はいつも、彼に会う前にここで水浴びしてたのよ」

「男の方はどうなったったんだ?」

「彼女は沼の奥深くに沈んじゃったんで、彼には彼女が死んだっていうのがわからなかったわ。しばらく待っていたけど、彼女が現れないので仕方なく帰ったの。そして次の日、彼女の村の人たちが、彼女を返せって彼の村まで押しかけて行ったわ。そして、戦争よ。彼は戦死したわ」

「ふうん‥‥‥それで、あの鳥は?」

「彼女の霊が小鳥に生まれ変わったのよ。そして、この沼、自分の命を奪っただけでなく、恋人や村人たちを戦争に追いやった、この沼に復讐しようとしてるの」

「復讐?」

「ええ、この沼を埋め尽くそうとして、毎日毎日、小枝や小石をクチバシで運んで来ては、この沼に落としてるの」

「小枝や小石で、この沼を埋め尽くすだって?」

「彼女は毎日、やってるわ」

「そんな事、できるわけないじゃないか」

「でも、何千年と掛かって、大分、この沼も小さくなったわよ」

「何千年‥‥‥気の遠くなるような話だ。この沼を埋めるまで、毎日、やるつもりなのか?」

「彼女に聞いてみたら?」

「鳥がしゃべるかよ」

「ただの鳥じゃないわ。あなたの祖先よ」

「そうか」と言って、昭雄は鳥の側まで行く。

 鳥は昭雄の方に振り向いた。昭雄は軽く頭を下げた。

「あの、あなたは僕の祖先ですか?」

 鳥は何も言わない。ラーラの方を見る昭雄。ラーラはもう一度、聞いてみろと合図する。

「失礼ですけど、あなたは僕の祖先なのですか?」

「知りません」と鳥は可愛い声で言った。

「あなたは何をしてるんですか?」

「疲れたから休んでいます」

「毎日、小枝や小石をこの沼に運んでいるんですか?」

「ええ、そうです」

「大変ですね。もう、どの位、やってるんですか?」

「忘れました。ずっと昔からやっています」

「この沼を埋めるためですか?」

「そうです」

「なぜ?」

「考えた事もありません。わたしはこれをやらなければならないのです」

「それじゃあ、これからもずっと、やっていくんですか?」

「ええ、この沼が埋まるまでやります」

「この沼が埋まったら、どうするんですか?」

「考えた事もありません。今は小石や小枝を運ぶだけです」

「そうですか‥‥‥」

「失礼します」と鳥は飛び立って行った。

 飛んで行く鳥を見ている昭雄。

 ラーラは切り株に座って、酒を飲んではニコニコしている。

「あんたね」と昭雄はラーラを見ると言った。「ちょっと飲み過ぎじゃないのか」

「いいじゃない」とラーラは笑う。「あんたもやれば」

 昭雄も酒を飲み、鳥が飛んで行った方の空を見る。

「毎日毎日、あんな事をしていて楽しいんだろうか?」

「他人にはわからない事よ」

「あの鳥、もし、この沼が埋まったら、どうするんだろう」

「きっと、この沼は永遠に埋まらないのよ。だから、あの鳥も永遠に仕事を続けて行くと思うわ」

「うん、そうかもしれない」

 鳥がクチバシに小枝を挟んで戻って来て、沼に小枝を落として、また飛び去った。

「悲しい話だな。永遠に埋められないものを埋められる日を夢見て、毎日毎日、埋めようと努力している‥‥‥まるっきり、無駄じゃないか」

「そうね。無駄ね。でも、みんな無駄な事をやってるのよ。少しでも夢に近づこうとして」

 昭雄はラーラの顔を見る。

「これは心の問題だけどね」

「心?」

「そう、心よ。心っていうのはね、無限なの。宇宙みたいなものよ。果てがないの。永遠なもの。頭で考えれば、すべてが無駄なものよ。でも、心で見れば、無駄なものなんて一つもないのよ。すべてがあるべきようにあるの」

「心か‥‥‥」

「たとえば、あなたは今、絵を描いてるでしょう。あなたは真実を描こうとしている。そうでしょう?」

「真実? よくわからないな。でも、描きたいものがなかなか描けない」

「真実っていうのは、あなたの心なのよ。あなたは、そのつかみ所のない心を絵にしようとしてるのよ。心っていうのはね、みんな、同じようなもの。たった一つのものよ。形のないもの。そして、どんな形にでもなるもの。あなたがあなたの心を絵に描けば、他の人がそれを見ても何かを感じるはずよ。絵って、そういうものじゃないの?」

「うん、わかるような気もする」

「頭でわかっても駄目よ。心で感じなくちゃ」

「心か‥‥‥」

 鳥がまた飛んで来て、小枝を沼に落として飛び去る。

「そあ、行きましょう」

「うん」

 ラーラと昭雄、林の中に入って行く。

 ピヨピーピーと小鳥が飛びながら鳴いた。





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