沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




沖縄第二高等女学校(白梅学徒隊) 関連年表




明治 38 9月 10 私立那覇技芸学校(二高女の前身)開校
大正 10 9月 私立那覇技芸学校、那覇市立実科高等女学校に昇格。
12 那覇市立実科高等女学校、那覇市久米の松尾山に新校舎完成。
大正 13 那覇市立実科高等女学校、那覇市立高等女学校となる。
昭和 3年 4月 那覇市立高等女学校、沖縄県立第二高等女学校に昇格。
5年 ・紙芝居に『黄金バット』が登場。
6年 1月 ・田河水泡の『のらくろ二等兵』が少年倶楽部に連載始まる。
8月 1日

日本初の本格的トーキー『マダムと女房』封切り。

9月 18 満州事変勃発
7年 1月 28 第一次上海事変勃発
5月 4日 沖縄の平和館にトーキー映写機が据え付けられる。
15 五・一五事件
11

沖縄県で学校給食始まる(県下の児童93%が欠食児童)。

8年 9月 1日 那覇市に上水道竣工。

・ヨーヨーが流行。ロングスカートの女性増える。

9年 9月 21 室戸台風来襲
11 2日 ・アメリカのベイブ・ルースら来日。
・この年、沖縄に民間建築鉄筋コンクリート3階建てデパート円山号建造される。

・日産自動車梶Aダットサン(722t)の量産を開始。『東京音頭』全国的にヒット。

10 4月 ◎千恵子、久茂地尋常小学校に入学。
8月 ・吉川英治『宮本武蔵』朝日新聞に連載〜14年。
11 1月 ・江戸川乱歩『怪人二十面相』少年倶楽部に連載。
2月 26 二・二六事件起こる
4月 18 国号を《大日本帝国》に統一。
28 第二高女、放火魔によって校舎の大半を焼失。
・この年、日本航空、小禄飛行場を開設。
・二・二六事件の『今からでも遅くない』が流行語に。
12 7月 7日 日中戦争勃発
11 20 大本営を宮中に設置。
12 13

日本軍、南京を占領。

13 ・映画『オーケストラの少女』動員客数に空前の記録。
・映画『愛染かつら』主題歌ともに全国的にヒット。
・ミッチェル作、大久保康雄訳『風と共に去りぬ』
14 2月 16 政府、鉄製不急品の回収を始める。郵便ポスト、マンホール、街灯、火鉢などの鉄類が町から消える。その後、渋谷のハチ公や全国の学校にあった二宮金次郎像も徴用される。
5月 11 ノモンハン事件起こる
6月 16

・ネオン、学生の長髪、パーマネントなど禁止。

7月 6日

零式戦闘機(三菱)、初のテスト飛行(海軍)。

8月 16 学生の運動競技は土曜午後、休日以外は禁止。
9月 1日 毎月1日は『興亜奉公日』となり、日の丸弁当と指定され、慰問文と献金が集められるようになる。酒不売で飲酒店休業、ネオン消灯。月一回日曜日は、波上神宮の清掃と出征兵士家庭の手伝いが課せられた。
28 全国の中学入試で筆記試験を廃止(内申書、口頭試問、身体検査)。
この頃、銃後の労力払底により、仲士、人夫、陶器業等に女性の進出目立つ。
12 百貨店の年末大売り出し廃止。
15 2月 第二高女の新校舎が落成。
4月 24 米・味噌・醤油・塩・マッチ・木炭・砂糖など10品目の切符制を決定。
5月 10 若狭町に那覇市立第二商業学校開校する。
8月 1日 東京で飲食店の米飯使用禁止。
11 10
14日
紀元2600年祭。奥武山公園で全女学校のダンスや演技の奉祝催しが盛大に行われる。提灯、旗行列、音楽行進など多彩。赤飯用もち米特配。
12 10

大政翼賛会沖縄支部、発会式

20 沖縄日報、沖縄朝日新聞、琉球新報が統合されて『沖縄新報』となる。
16 2月 11 ・李香蘭(山口淑子)日劇に出演、観客殺到し警官出勤。
4月 ◎千恵子、第二高女に入学する。同学年は150余名。
4月 女学生の制服が今年の新入生からへちま襟に変わる。髪形も一年生おかっぱ、二年生分け髪、三年生分けて結ぶ、四年生三つ編みとなる。
5月 稲福全栄、第二高女の校長となる。
7月 1日 全国の隣組、一斉に常会を開く。放送に『常会の時間』を新設。
10 18 東条内閣、成立
11 22 国民勤労報国協力令公布。男子1440歳、未婚女子1425歳、勤労奉仕義務法制化。
12 8日

日本軍、ハワイ真珠湾を攻撃(太平洋戦争始まる)

新聞、ラジオ、天気予報・気象報道中止。

情報局、新聞社・通信社に対し、大本営発表以外の戦況報道を禁止。

10 日本軍、グアム島を占領する
12 閣議、戦争の名称を『支那事変』を含めて『大東亜戦争』とする事を決定
那覇近郊の全女学校生徒、毎週月曜日、連隊区司令部で書類整理の手伝いに動員されるようになる。
25 日本軍、香港を占領する
・防空頭巾、もんぺ、ゲートルなどの非常時服浸透。
17 1月 2日 閣議、毎月8日を《大詔奉戴日》とする事を決定する(興亜奉公日は廃止)。
日本軍、フィリピンの首都マニラを占領する。
11 日本軍、クアラルンプールを陥落させる。
2月 15 日本軍、シンガポールを攻略する。この時が日本軍の絶頂期。
19 沖縄放送局、放送を開始する。
23 日本軍、バリ島を占領する
3月 8日 日本軍、ビルマのラングーンを占領する。
5月 7日 日本軍、フィリピンのコレヒドール島を占領する。日本軍、東南アジア全域をほとんど制圧。
9日 金属回収令により全国で寺院の仏具・梵鐘等が強制的に供給を命じられる。
6月 5日 ミッドウェー海戦で日本艦隊、大敗を喫す。
7月 12 ・全国中等学校野球大会中止を発表。
7月 女師・一高女、与儀練兵所で実弾射撃訓練始まり、脱臼する者も出た。
7月 義勇託児所開設され、県下全女学校生徒を夏休みに駆り出すようになる。
12 15 沖縄県食糧営団が設置される。
・流行標語『欲しがりません勝つまでは』
18 1月 21 中等学校令公布。中学校、高等女学校、実業学校の就業年限1年短縮、4年制になる。
2月 1日 日本軍、ガダルカナル島から撤退を開始する
3月 沖縄本島の読谷と伊江島飛行場建設のため労務者の徴用が開始される。
第二高女、豊見城村の伊良波・翁長一帯の畑地で出征兵士の留守宅の農作業を手伝う。
4月 1日 女子青年学校の通学服をモンペに統一する。
18 山本五十六連合艦隊指令長官、戦死する
6月 この頃より、師範学校、中学校、青年学校の生徒、現地の各部隊に協力し、陣地構築、食糧増産等に動員される。
7月 11

東条首相、沖縄に立ち寄る。那覇近郊の全学校生徒が歓迎する。

29 日本軍、キスカ島から撤退する
7月 伊江島飛行場建設のため、田村飛行場大隊、伊江島に移駐。
8月 沖縄県民修練所が設置される(那覇市のほか8ケ所)。
8月 第二高女、夏休みに与勝国民学校を宿舎にして出征兵士の留守宅の託児所手伝いをする。
第二高女、小禄飛行場の排水溝掘り作業に駆り出される。
9月 22

25歳未満の未婚女子を挺身隊として勤労動員する事を決定。

この月までに琉球8社のうち、普天間宮、末吉宮、沖宮、識名宮、天久宮、八幡宮の修復工事竣工する。
10 2日 《在学徴集延期臨時特例法》が公布され、学生、生徒の徴兵猶予が全面停止される。
21 第一回学徒出陣
11 1日

《兵役法》が改定公布される(国民の兵役義務を45歳まで延長する)。

4日 県立女子工芸学校、県立首里高等女学校となる。
30 日本全国女子学徒動員を決定。女子中等学校生徒に看護教育始まる。
12

沖縄で東部軍司令部女子通信部隊第1950部隊が発足する(女子軍属)。

・野球用語他一切英語禁止。
・流行歌『加藤隼戦闘隊』『勘太郎月夜』
19 1月

石垣島で郷土防衛のため第227特設警備隊(三木隊)、第226隊(又吉隊)が招集、編成される。

1月

女師・一高女で毎週2時間、校長の『国体の本義』『臣民の道』の講和が行われるようになる。

25 政府、《決戦非常措置要綱》を決定(高級料亭追放、劇場閉鎖など)。
3月 20 沖縄家政女学校を積徳女学校と改称する。
22 大本営直轄の第32軍(沖縄守備隊)が新設される

女師・一高女の校舎の3分の1が兵舎となる。

29 32軍司令官渡辺政夫中将、参謀長北川潔水少将らと沖縄に赴任する。
4月 1日 沖縄県警察官・県庁職員から陸海軍の司政官に転出する者が多くなる。
女学生は制服の胸に住所、氏名、血液型を書いた名札をつけ、モンペと防空頭巾が義務づけられ、救急カバンを常時携帯となる。『四大節』だけはスカート着用と決まる。
9日 32軍司令部の残余兵員150人、那覇に到着する。
12 渡辺第32軍司令官、第19航空地区司令官青柳中佐に沖縄本島と伊江島の航空基地設定を、第205飛行場大隊長には宮古島の航空基地設定を命じる。
18 沖大東島、米潜水艦の砲撃を受ける。
23

渡辺第32軍司令官、軍司令部付松原大尉に石垣島に航空基地の設定を命じる。

4月

海軍陸戦隊8825名、沖縄に布陣。

5月 3日

独立混成第44旅団(沖縄本島)、第45旅団(宮古・八重山)などが第32軍に編入される。

陸軍病院を編成する。

沖縄本島で南・東・中飛行場のほか伊江島飛行場、宮古飛行場の建設が始まる(各飛行場の労務者は連日20003000人に及び老若男女の別なく小学生に至るまで徴用)。

10

32軍、大本営を離れ、皇土防衛軍(西部軍)に編入される

5月

第一陣として鈴木繁二少将の独立混成第44旅団約6000名が沖縄に送られる。

5月

中学生・女学生ら陣地構築に駆り出され授業停止する。

5月 下旬

病院長広池文吉軍医中佐を初めとする先発隊は那覇に到着し、中城湾要塞病院(与那原小学校の場所にあった病院で院長は目源逸軍医大尉)を吸収し、那覇市樋川にあった開南中学校に二等陸軍病院を開設する。また、県立第二中学校(現那覇高校)を兵舎として使用する。

6月 初め 那覇において将校、下士官、兵を招集し、看護婦、筆生、雑仕婦を民間より採用する。
15

米軍、サイパン島に上陸。

16 中国基地の米機B29、初めて北九州を空襲。
19

マリアナ沖海戦。日本軍、空母3、航空機395失い、米機動部隊が西太平洋の制海空権を握る。

24

25飛行団長福沢丈夫中佐、沖縄本島北(北谷)飛行場に着任する。

下旬

陸軍病院本隊が船舶により那覇に到着し、病院を開設する。

26

32軍、第9師団等を配下に編入する。

29

独立混成第44・第45旅団などの兵員を乗せた富山丸が沖縄へ向かう途中、徳之島東方海上で米潜水艦に撃沈され、約4600人の将兵中の37004000人が行方不明となる。

30

閣議、国民学校初等科児童の集団疎開を決定する。

6月

小禄飛行場建設工事に、女師・一高女、首里高女が動員される。

夏の初め 首里高女が軍の被服工場となり、生徒たちは機織り機で軍隊用の蚊帳やミシンで死装束を縫う。
7月 1日

大本営陸軍部、第32軍の作戦援助のため参謀本部付長勇少将を沖縄に派遣する。

6日

第9師団(師団長原守中将)司令部の兵員100人、空路沖縄に到着する。

7日 富山丸で遭難した独立混成第44旅団および第32軍兵器勤務隊の生存者500人、那覇に到着する。
サイパン島の日本軍、玉砕する
沖縄県でも疎開者の募集が始まる。
8日 沖縄派遣中の長勇少将が第32軍参謀長に任じられる。第32軍参謀長北川少将は台湾軍参謀副長に任じられる。
米軍機B29が九州西北部に来襲する。
11

32軍、西部防衛軍の管下から台湾軍(司令官安藤利吉大将)に編入される

第9師団(金沢・原守中将)主力が那覇に到着。

12

帝国在郷軍人会沖縄支部、管内に防衛隊を編成する。

中旬

沖縄県県庁職員家族の本土引き揚げが始まる。

18

24師団(熊本・雨宮巽中将)が第32軍に編入される。

20

独立混成第64旅団、第32軍に編入される。

21

米海兵隊(5万4000人)、グアム島に上陸する。

24

62師団(京都・本郷義夫中将)が第32軍に編入される。

シュミット少将指揮の米海兵隊4万2000人、テニアン島に上陸する。

7月 老幼婦女子の本土・台湾への疎開が始まる(1945年3月までに約6万人が本土へ、2万2000人が台湾へ疎開)。

・この頃より那覇市に朝鮮人女性が姿を見せ始める。

第9師団(武部隊)、玉城村の国民学校を本部とする。

8月 3日

テニアン島の日本軍守備隊玉砕

4日

閣議、一億国民総武装を決定し、竹槍訓練などが始まる

沖縄市の上山国民学校、松山国民学校、天妃国民学校の3校、宮崎県に疎開する。

5日

24師団(雨宮巽中将)、沖縄本島に到着する。

10

32軍新司令官として牛島満中将が着任する。

11 グアム島の日本軍守備隊1万8000人玉砕する(公表はテニアン玉砕と一緒に9月30日)

米機B29、南朝鮮・九州・山陰を襲撃する。

12

米機B29、父島に来襲する。

19

62師団(藤岡武雄中将)、沖縄に到着する。

22 沖縄から本土への学童疎開船対馬丸、悪石島付近で米潜水艦の魚雷攻撃を受けて沈没する第二高女3年生が一名、対馬丸に乗り戦死。
25

神風特別攻撃隊の体当たり攻撃が始まる。

31

米軍機、小笠原・硫黄島に来襲する。

8月

第二高女の校舎は沖縄入りした軍隊が落ち着き先へ配置されるまでの一時宿舎となる。

8月以前の沖縄は南北(小禄・読谷)の飛行場を除くほかは何の防御陣地もなかった。
9月 15

32軍、航空作戦準備強化のため地上作戦準備を1ケ月休止し、飛行場建設に専念する。

29

米軍、B29で初めて沖縄の空中写真を撮影する。

9月

女師・一高女、垣花ガジャンビラと天久の高射砲陣地構築作業に動員される。

9月

航空参謀釜井中佐の第50飛行場大隊と独立混成第44旅団が伊江島に赴き、一般民も動員して夜を日に継いで飛行場建設を急ぐ。10月には東洋一の飛行場が完成する。

10 初め

陸軍病院、南風原分院を開設。

10

沖縄大空襲。那覇市は90%が灰燼に帰す。

県立第二高女の校舎、灰燼に帰す。その日、第二高女生徒はガジャンビラの作業予定。
大空襲で那覇市は焼け野原となり、家を焼かれ財産を失った市民のうちから疎開する者が一時増加するが、一段落すると敵の精鋭がフィリピンに向かい、沖縄は一息つく余裕が与えられた事もあいまって疎開は遅々として進まなかった。
11 泉沖縄県知事、県庁を普天間に移す。県庁は焼けなかったのに10日経っても那覇に帰らず。
12

台湾出撃の友軍600機が沖縄上空を通過する。

17

32軍、兵棋演習を実施する。

19 大本営が台湾沖航空戦の総合戦果を発表。空母撃沈11隻、同撃破8隻を含め45隻を撃沈破(実際は巡洋艦2隻大破だけ)
20

米軍、フィリピン中部のレイテ島に上陸する。

23

レイテ沖海戦、始まる(〜26日)

25

レイテ沖で海軍神風特別攻撃隊(敷島隊)、初めて米艦を攻撃する

中国基地から飛来した米機B29100機、北九州を攻撃する。

・少額紙幣(5銭、10銭)発行。
29

2145歳の男子を防衛隊として招集する。

沖縄全島は季節はずれの台風に見舞われる。

11 1日

マリアナ基地のB29、東京を初偵察する。

初め

泉県知事、ようやく那覇の県庁に戻る。

16

第二高女、授業を開始する。

17

32軍、第9師団を台湾へ転出させる事を決定し大本営に報告する。

24

マリアナ基地のB29、東京を初空襲する

11

空襲後、生徒の疎開願い相次ぐ。学校当局、これを阻止。

12 11 大里村稲嶺駅近くで軽便列車で輸送中の第24師団の爆薬爆発。第二高女生徒2名が死亡、1名が重傷を負う。
上旬

第9師団(武部隊)、沖縄を去る

17

29、名古屋に来襲する

24

泉県知事、公用の名目で空路、沖縄を去る。

12

32軍と県学務課による、中等学校生徒戦場動員計画成る。

・この年の流行歌『若鷲の歌』『同期の桜』『ラバウル小唄』『ラバウル海軍航空隊』
19年末頃

第二高女の側の検事正官舎が慰安所となり、数十人の朝鮮人慰安婦が入った。

・空襲後に那覇港に上陸した慰安婦たちは住む家もなく、焼け跡の波上宮近くの三角兵舎風の茅葺きの掘っ建て小屋を建て『軍慰所』の看板を掲げ、一人で一日数十人をこなしていた。泊港に上陸した慰安婦たちは泊北岸にテント小屋を設け兵隊たちを相手にした。7080メートルの     長い天幕に4つの入口が作られ、兵隊たちが列をなした。このテントには4050人の朝鮮ピーがいた。また、山形屋百貨店の裏にもバラックが建ち、十数人の朝鮮人慰安婦が昼間から兵隊を相手にしていた。海岸に近い若狭にも4、5人の慰安婦がいたという。台ノ瀬病院にも30人の朝鮮人慰安婦がいた。
20 1月 3日

米艦載機、台湾・奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。

7日

32軍、士気昂揚大会を開催する。

9日

米軍、ルソン島に上陸する。

10 32軍司令部、安里の蚕種試験場から首里山内の沖縄男子師範学校付属国民学校に移転する。
12

米艦載機延約900機、奄美・宮古・八重山・沖縄本島を攻撃する。

20

閣議、《沖縄県防衛強化実施要綱》を決定する。

大田実、沖縄根拠地隊司令官に任命され水上機で小禄に着任する

21

米艦載機56機、宮古島を空襲し船舶・陸上施設に損害を与える。

22

大本営、第32軍に対し第84師団の編入を電報で内報する。

空襲で女師・一高女の図書館・寮・校舎の一部が破壊され、生徒4名が生き埋め。
二度めの大空襲でいよいよ沖縄危うしと感じられた頃には疎開したくても乗る船はなかった。
23

大本営、海上輸送の危険と本土兵力の不足を理由に第84師団の沖縄派遣を中止する。

女師・一高女、寄宿舎が足りず、離島を除き、下級生は帰郷させ、通学可能の上級生は家から通わせる。
25 首里高女は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事となり、学校で軍の教育を受ける。
26

32軍司令官、沖縄本島の配置変更を配下部隊に通達する。

27 大本営、南方軍の任務を変更する(本土決戦が第一義、南方軍の作戦は第二義となる)。

県庁の各部課を城岳および与儀周辺に分散移転する。

2970機、都心を爆撃。本土空襲本格化する

31

沖縄県の新知事島田叡が着任する。

32軍、第2次現地防衛招集を実施する(満17歳から45歳までの男子)。

1月

伊江島の飛行場を第50飛行場大隊自らの手で爆破破壊する。

第二高女、垣花の南側丘陵地帯にあったガジャンビラでの高射砲陣地の台座構築作業。
1〜2月

第二高女、弁ケ嶽の電波探知機陣地構築作業。始めは三部制で一部は動員、一部は校内作業(避難壕掘り、食糧増産)、一部は授業。

1〜3月

32軍、防衛招集で満17歳から45歳の殆どの男子を動員。

2月 3日

沖縄県下の学徒動員が強化され、通信・観測・看護婦などの特別訓練が実施される。

米軍、マニラ市内に侵攻する。

4日 米・英・ソの首脳(ルーズベルト・チャーチル・スターリン)、ヤルタで会談を開く。
6日 久米島から那覇に向かう客船が米軍機に襲われ沈没、第二高女生徒が1名死亡。

第二高女、焼け残った知事官舎で4年生70名ほどが看護教育を受ける。

7日

32軍参謀長、長勇が沖縄県庁を訪れ、緊急に6カ月分の住民の食糧を確保すること、ならびに本島中・南部地区の住民を北部地区に疎開させることを島田知事に要請する。

沖縄県、平時行政から戦時行政へ切り換える。

28師団の新参謀長一瀬寿大佐、広島から宮古島へ着任する。

10 島田県知事、県立第二中学校で緊急市町村会議を開き、第32軍の木村参謀が米機動部隊の沖縄来攻見通しについて公式に発表する。
当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強く、勅任官の知事といえば天皇陛下も同然だった。知事が村に来れば住民は詰め掛けた。
沖縄県中南部住民の北部疎開計画決定。女師・一高女の生徒らの一部も家族と共に北部避難。
11

沖縄県、人口課を新設し県内外の人口移動業務に当たらせる。

12

牛島第32軍司令官、海上挺進基地大隊の改編を命じる。

宮古島の全守備部隊に迎撃戦闘準備令が下される。

15

女師・一高女生徒に南風原陸軍病院での看護実施訓練始まる。

那覇市役所、真和志村の安里八幡宮近くの民家に移転する。

米機動部隊の接近により宮古島の守備隊司令部、野原越に移動する。

32軍、《戦闘指針》を沖縄県下の軍民に示達する(《1機1艦船、1艇1船、1人10殺1戦車》が標語となる)。

沖縄県下に市町村単位の国土防衛義勇隊が編成される。

中旬

第二高女の稲福校長、山部隊野戦病院に入隊する事に決まったと生徒に告げる。

島田知事、食糧確保のため配給課長と食糧営団理事長を伴い空路、台湾に赴く。

16

米機動部隊、艦載機延約1200機をもって関東、東海地方を攻撃する。

19

沖縄県下男女中等学校単位の防衛隊の結成が始まる。

米軍、硫黄島に上陸する。米軍75000、日本軍23000

20

29100機、東京を空襲。

22

二度目の空襲で、女師・一高女の生徒および駐屯の兵士に死傷者が出る。

25

米機動部隊、東京および八丈島を攻撃する。

26

29130機、東京を空襲。

2月

台湾の陸軍第9飛行師団、石垣島白保に駐留する。

2月

島田知事、決戦施策の三大目標(国土防衛の強化・食糧自給の達成・自主輸送の確立)を発表。

2月

沖縄本島の全学校の《御真影》を北部の稲嶺国民学校に移す。

沖縄県学務課、県下男女中学校単位の防衛隊組織を決定。

沖縄県の官公吏や教員の県外疎開続出。

飯米配給の停止・減配を行う。

3月 1日

沖縄県立第二中学校生徒の一部、《球7071宇土部隊》へ入隊する。

米艦載機60機、宮古島を襲撃し、大建丸と豊坂丸が撃沈。平良町民は市の郊外へ移動する。
・たばこ値上げ。朝日が70銭から90銭に、金鵄が23銭から35銭へ、光が45銭から60銭になる。
5日

第二高女(4人)と積徳高女の先発隊、東風平に行く。

沖縄の学童や一般老幼女子の県外疎開が打ち切られる。

6日

沖縄県立第二高等女学校4年生56人、東風平国民学校に本部を置く24師団陸軍病院看護教育隊(山3486廉嵎隊)に入隊する。集合場所の国場駅に集まったのは45名。

 第1内務班‥‥‥班長、土肥伍長。積徳高女。
  第2内務班‥‥‥班長、高森伍長。積徳高女。
  第3内務班‥‥‥班長、宮田伍長。積徳高女。
  第4内務班‥‥‥班長、米田軍曹。第二高女。
  第5内務班‥‥‥班長、笠島伍長。第二高女。
  第6内務班‥‥‥班長、      男の初年兵。

《国民勤労動員令》が公布される(国民徴用令・国民勤労協力令・女子挺身勤労会・労務調整令・学校卒業者使用制限令の5勅令を廃止・統合)。

沖縄県、満1545歳の男女、全員現地招集。

7日

海軍作戦部長、沖縄本島北・中飛行場の確保を要請する。

9日 米機B29、翌日にかけて東京を大空襲する(23万戸焼失。死傷者12万人、下町地区焼失)。
10

陸軍記念日。富盛の野戦病院でささやかな余興大会が催される。

32軍司令官、伊江島飛行場の破壊を命じる。

13

受験を済ました4人が東風平に合流。

14

沖縄攻略の米軍先陣第58機動部隊、ウルシー島を発進する。

米機B29、大阪を空襲する(13万戸焼失)。

17

硫黄島の日本軍守備隊、玉砕する(戦死者2万3000人)

18

第二高女、最初で最後の外出許可。門限に遅れた生徒がいて教育隊全員が絞られる。

閣議、《決戦教育措置要綱》を決定する(国民学校初等科以外の授業を4月から1年間停止)
米第58機動部隊、沖縄攻略の前哨戦として九州。瀬戸内海方面の日本軍基地を攻撃する(九州沖航空戦始まる)。
20

大本営、《当面の作戦計画大綱》を発令し、沖縄作戦に重点を置くことを決定する。

22 第二高女4年生の学級担任の金城先生、東風平に来て、生徒を卒業式に参加させてほしいと交渉するが、夜中の12時過ぎても返事を得られす、仕方なく引き上げる。
沖縄から最後の疎開船が出港する。
23 早朝より空襲警報発令、米機動部隊、沖縄本島の爆撃を開始する。1010日よりひどい空襲。艦載機グラマン延べ355機の終日にわたる大空襲。

午前7時、第32軍は空襲警報を発令。警報は夕刻まで続く。

女師・一高女生徒、南風原陸軍病院に動員される。

24

早朝から敵艦載機来襲、空襲熾烈なり。

午前9時、米軍の戦艦以下30隻は南部地区(湊川)に艦砲射撃を開始する

沖縄県庁は重要書類を焼却して、軍司令部のある首里近郊の繁多川の壕に移動。

県立第二高女生徒、看護隊として富盛にある第24師団第1野戦病院(山3486部隊)へ入隊。
私立積徳高女生徒55人、従軍看護婦として第24師団(第2野戦病院)に配属される。
師範・各中学校の男生徒を鉄血勤皇隊および通信隊、女生徒を補助看護婦として部隊に配属する(〜4月5日)。
25

朝から敵艦載機による空襲、終日続く。

第二高女の3名が除隊となり、與那覇先生と富盛を去る。

県立第一高女生徒、南風原の野戦病院(球18803部隊)に入隊する。

沖縄県庁、那覇から首里へ移動、真和志村繁多川に地下壕を掘り戦時行政を始める。

米軍、沖縄本島および慶良間列島への艦砲射撃を開始する。艦砲射撃の合間を縫って老幼婦女子の北部疎開が相次ぎ、主要道路は混乱する。

座間味諸島で島民の集団自決あいつぐ(〜28日、358名)。

硫黄島の日本軍玉砕。戦死23000、生存者212。米軍の死傷行方不明者24857

26 ブルース少将の率いる米第77歩兵師団、慶良間列島の阿嘉島、慶留間島、座間味島へ上陸する。座間味島の住民172人が集団自決する。

連合艦隊、第10方面軍《天1号》作戦を発動する。

ローリングス提督指揮下の英第57機動部隊が先島地区を砲撃する。

米第77歩兵師団により慶良間列島に最初の軍政府(陸・海合同)が設置される。

米太平洋艦隊司令長官兼南西諸島軍政長官ニミッツ元帥、《海軍軍政府布告第1号》を公布し、慶良間列島における日本政府のすべての行政権を停止する。

慶良間列島に秘匿されていた日本軍の海上挺進特攻艇は壊滅状態になる。

沖縄県出身の伊舎堂用久大尉の率いる特別攻撃隊誠飛行隊の10機、八重山の白保基地から慶良間列島近海沖の米艦隊に《特攻》攻撃をかける。
県立第三中学校生徒363人、県立農林学校生徒173人、県立工業学校生徒94人、私立開南中学校生徒81人、第32軍に動員され、それぞれ《鉄血勤皇隊》を編成して守備軍各部隊に配置される。
群馬県で一家が空腹に耐え兼ね、継母が娘を殺害し、その肉を食べる事件が発生。
27 第二高女の7名が除隊になる。
沖縄県立水産学校の職員の職員・生徒22人、第32軍の命を受けて《鉄血勤皇隊》を編成し、第32軍通信隊に配属される。

夜、大雨の中、首里高女の卒業式が石部隊野戦病院の前で行われる。

米軍、渡嘉敷島に上陸する。久場島・安室島・阿波連島が攻略される。

慶留間島で約40人の住民が縄で首を締めて集団自決する。

28

深夜に富盛の第一病院に湊川方面から負傷者が運ばれてくる。翌日、死亡。

県立一中の5年、4年、3年生約220名は球9700部隊(第5砲兵司令部)に入隊する。

県立首里高女生徒61人、従軍看護婦として第62師団野戦病院に配属される。

県立昭和高女生徒17人、従軍看護婦として第62師団野戦病院に配属される。

渡嘉敷島で約400人の住民が、手榴弾、鎌、鍬などで集団自決する

29

米機動部隊、沖縄本島への艦砲射撃を強める(1日約1000発)

沖縄師範学校女子部生徒、県立第一高女生徒、南風原陸軍病院兵舎内で卒業式を行う。
県立第一中学校生徒371人および県立工業学校生徒数人、第32軍の命令で《鉄血勤皇隊》を編成し、配下の各部隊に配属される。
30

米艦隊、港川方面に対し夜半から砲撃を開始する。

運天港の日本軍魚雷艇基地、米軍機200機の攻撃を受け壊滅する。

牛島第32軍司令官、沖縄本島北・中飛行場の滑走路の破壊を命じる。

宮古島は空襲を受け、女学校・無線受信所・測候所などに被害を受ける。

31 沖縄師範学校男子部生徒386人(教官も含む)は第32軍の命令により《鉄血勤皇隊》を編成し、第32軍司令部の直属隊として配属される。
那覇私立商業学校生徒99人、第32軍に動員されて《鉄血勤皇隊》を編成し、第44旅団通信隊および他の部隊に配属される。

米軍、慶良間列島の占拠を公式に宣言する。

米第420野戦砲兵隊2個大隊、慶伊瀬島(チービシ)に上陸し、155ミリカノン砲(ロング・トム)16門を設置して、首里・那覇を砲撃する。

32軍司令部、老幼婦女子の北部疎開停止を命じる。

4月 1日

ターナー海軍中将指揮の米第51機動部隊、早朝から沖縄本島中部の嘉手納・北谷海岸に上陸し、午前中に、北・中両飛行場を占拠する。米軍兵力182000、日本軍は陸海軍77000と県民義勇隊25000

米軍、改めて《海軍軍政府布告第1号》を公布し、沖縄における日本政府のすべての権限を停止して軍政を布くことを宣言する。
ニミッツ元帥、《海軍軍政府布告第7号》を公布し、管理機関を設けて、土地・財産の収用を宣言する。

空に一片の雲なく輝くばかりに晴れ渡った好天気。午前5時頃、嘉手納湾付近に敵艦から熾烈な砲撃が開始され、上空からも艦載機によって攻撃が加えられる。午前8時頃、艦砲の掩護射撃と空爆は一段と熾烈になる。そのうち、上陸用船挺が一斉に白波を蹴立てて発進、ついに上陸を敢行。敵の上陸部隊は第24兵団で海兵隊第3水陸両用部隊、バックナー中将率いる1300隻以上の大機動艦隊で航空機は延べ1500機以上。

米軍の上陸までは入院患者も少なく、殆どが結核などの内科患者だったが、1日以後、負傷者が次々と運び込まれて来た。

島田県知事、与儀病院の壕より繁多川の壕に移る。

ラジオの放送時間が短縮され、番組も報道を主体にして簡略化される。

沖縄新報社北部支社の社員、壕内で陣中新聞を発行(〜7月3日)。

2日

米上陸部隊、第一線師団の戦闘指揮所をすべて船上から陸上に移す。

米第6海兵隊観測隊、沖縄本島北(読谷)飛行場の使用を開始する。

3日 米第32歩兵連隊は上陸後初めての日本軍の本格的な抵抗を排除し、東海岸に進出、久場崎を占領する。
米第10軍司令官バックナー中将、第3海兵軍団司令官ガイガー少将に対し予定を早め北部への進撃を命令する。

バックナー中将、沖縄首席軍政官に任命される。

米軍、仲泊と石川を結ぶ線で沖縄本島を南北に分断する。

地元在郷軍人で編成された第503特別警備工兵隊員約800人、米軍上陸以来の戦闘でほとんどが戦死する。
県立水産高の《鉄血勤皇隊員》の一部27人、恩納岳に布陣する北部守備隊《独立混成第44旅団第4遊撃隊)に配属される。
4日

32軍司令官、早朝に攻勢案の実施を決定するが夜半にこれを中止する。

米軍、北谷、島袋、宜野湾、大山の線まで進出。

米機B29240機で京浜方面を空襲する。

5日

米軍の一部、名護の世富慶に上陸する。

米海軍、読谷山村比謝に軍政府樹立。布告第1号を発令。

10方面軍参謀長、攻勢案実施に関し第32軍に命令電を発する。

北谷村砂辺捕虜収容所の約1500人の住民、トラックで島袋収容所に移される。

八重山郡の大舛久雄支庁長、支庁官舎で空襲を受け殉職する。

小磯内閣が総辞職し、海軍大将鈴木貫太郎に組閣命令が下される。

6日 牛島第32軍司令官、配下の各部隊長に対し4月8日を期して総力を挙げて攻勢に転じる企画を説明する。

米軍、津堅島に上陸するが、日本軍の反撃で撤退する。

連合艦隊司令部、《菊水1号》作戦を発動し、特攻隊を発進させる。一方、第2艦隊司令長官伊藤整一中将指揮下の戦艦《大和》(艦長有賀幸作大佐)以下の艦隊に沖縄出動を命じる。

陸軍第6航空軍が第一次航空総攻撃を発令。

夕刻、日本軍特攻機230機が飛来し、中部の残波西海岸と南部の糸満方面沖にある敵艦船を猛攻し6隻撃沈、20隻撃破する。
7日

32軍、予定された8日からの攻勢案を再延期する。

米軍、本部半島の湧川(今帰仁)に上陸する。

沖縄へ進行中の戦艦《大和》を含む日本海上救援部隊、壊滅される。

鈴木貫太郎内閣が成立する。日本各府県に憲兵隊配置。

8日 船舶工兵隊第26連隊の西岡健次少尉指揮下の約50人(半数は糸満の漁夫)の決死隊、神山島に挺身斬り込み攻撃をかけ、大半が戦死する。
32軍の長参謀長、配下部隊に対し4月12日夜を期して夜間攻撃をかけることを命じる。

大本営、《決号作戦(本土決戦)準備要綱》を下令する。

米軍前線、西海岸内泊・牧港・東海岸津波を結ぶ線まで進攻。

9日

米軍、中飛行場(嘉手納)の使用を開始する。

米軍、本部半島の大半を制圧する。

米軍、津堅島に上陸。日本軍、神山島に対する挺身奇襲。

嘉数地区攻防戦開始。

10

米軍、沖縄東岸の津堅島に再上陸する(日本軍守備隊は激戦の後12日に撤退)。

11

米第24軍団、那覇方面への侵攻を開始する。

12 大本営、第32軍に対し沖縄本島北・中飛行場の奪回を命じる。しかし、第32軍の夜襲総攻撃は失敗に終わる。

連合艦隊が《菊水2号》作戦、第6航空軍が第2次航空総攻撃を実施。

13 牛島第32軍司令官、夜間攻撃の失敗により配下部隊に対し、《戦略持久》作戦に基づく防備の強化を命じる。

宇土武彦大佐指揮の国頭支隊の主陣地八重岳、米第6海兵師団の攻撃を受ける。

米第10軍の管轄下に米海軍軍政府とは別個の軍政本部が設置される(読谷山村字比謝の北方1マイル地点)。

米第6海兵師団、沖縄本島最北端の辺土岬を攻略する。

14

米海軍軍政府部隊、陸軍駐留部隊に配属される。

15

米軍、水納島に上陸する。

石垣島の日本海軍警備隊、米軍捕虜3人を処刑する(後に《石垣事件》として問題化する)。

北部守備軍(宇土部隊)八重岳を放棄、羽地山に後退。

日本軍、米軍に対し第3次航空作戦(《菊水3号》作戦)の《特攻》攻撃を行う。
16 米第77歩兵師団、伊江島に上陸する。約7000人の日本軍守備隊は頑強に応戦する。
《菊水3号》作戦が続けられ、約500機の特攻機が出撃する。
国頭支隊(宇土武彦大佐)主力が本部半島から脱出して名護東方の山地へ転進開始。
海軍の《菊水3号》作戦、陸軍の第3次航空総攻撃で507機(うち特攻224機)が沖縄に出撃。
18

米従軍記者アーニー・パイル、伊江島で戦死する。

米軍、伊江島飛行場の使用を開始する。

米軍、本部半島を全部制圧。

19

米軍、首里外郭陣地(守備軍主力第62師団)に対し、第一次総攻撃を開始する。西方牧港、伊祖、中央嘉数、西原、棚原各高地、東方和宇慶、ウシクンダ高地を結ぶ線にて攻防戦展開。

与那原、ナパーム弾による攻撃を受けて焼滅する。

20

牧港・伊祖付近の日本軍陣地が突破され、首里外郭防衛陣地の一角崩れる。

21

32軍、嘉数地区を撤退し、首里防衛線が危うくなる。

米上陸部隊司令官ブルース少将、伊江島の占領を宣言する。伊江島の犠牲者1500名のうち自決は機雷、手榴弾、カミソリ等で各グループごと行われる(700名?)。

米戦艦、南北大東島を砲撃する(地元住民1500人を含む4706人が戦死)。

22 日本軍島尻地区守備隊(第24師団)と知念半島守備隊(独立混成第44旅団)の北方陸正面転用決定、米軍の総攻撃に対処。

第6航空軍、沖縄へ第4次航空総攻撃を実施。

23

曇り。富盛第一病院の第3・第4壕に直撃弾、薬剤中尉と衛生兵2人が戦死。

日本軍、嘉数・西原・棚原より仲間・前田の線へ撤退。

下旬

富盛の第一病院壕は負傷者で溢れる。

下旬

富盛第一病院、上の壕を開設、第二高女生徒5名、勤務を命じられる。

下旬

富盛第一病院、新城分院を新設、第二高女生徒5名、勤務を命じられる。

24

32軍、首里周辺の非戦闘員に南部への移動を命じる。

32軍、第一線を仲間、前田、幸地の線まで撤退。

25

沖縄県庁、真和志村繁多川の壕から識名の警察部の壕へ移る。

米軍、2回目の総攻撃を開始する。首里防御陣の仲間・前田・幸地から小波津・我謝の地点にかけて日米両軍の攻防戦が展開される。

米軍、沖縄本島北部のほぼ75%を占拠する。

座間味島では草木一切隊長の許可なく切った者は厳罰に処せられる。

26

米太平洋区域司令官ニミッツ提督、宮古島の攻略作戦を中止する。

鈴木首相、ラジオ放送を通じて、沖縄の現地軍将兵および官民に対し、《現地軍官民に告ぐ》との談話を発表する。

27 緊急沖縄南部市町村長会議が、識名の警察部の壕内で開かれ、戦闘への住民の協力や食糧増産について話し合う。沖縄県政最後の会議となる。

米軍、西方前戦城間地区を占拠。

座間味島で朝鮮人軍夫10人余、食糧難のあまり逃亡を企て日本軍に銃殺される。

日本軍特攻機115機、《菊水4号》作戦を行う(4月28日にかけて)。

第6航空軍、第5次航空総攻撃を実施。

28 富盛の野戦病院に第24師団山3480部隊(野砲第42連隊)第10中隊、第1小隊長鵜島家寿男が負傷して入院する。
首里高女の創立記念日。
米海軍軍政府部隊、沖縄本島東方海上の伊計島・平安座島・浜比嘉島・宮城島などを探索。
29 天長節。友軍が陸から海に向けて一斉攻撃をすると聞いていたが、当日は静かで何もなかった。
30 ヒットラー(56)がベルリンの地下壕内で自殺。後継総統に、デーニッツが就任(5月1日)。

米軍政府、島嶼司令部の直轄下で全機能を果たすことになる。

5月 1日

首里北方の米歩兵第27師団の戦死者2661人に達し、第1海兵師団と戦線交代。

3日

海軍が《菊水5号》、陸軍が第6次航空総攻撃を実施。

初旬

富盛第一病院、東風平分院を新設、第一高女生徒5名が勤務を命じられる。

4日 32軍、全戦線にわたって総攻撃を開始する。西海岸から船舶工兵第26連隊主力による逆上陸部隊を大山付近の米軍の背後に送り込み、東海岸から船舶工兵第23連隊と海上挺進第27戦隊の約500人を津覇の米軍の背後に送り込むが失敗する。
右突進隊の歩兵第89連隊(旭川)第1大隊が大隊長丸地軍治大尉以下ほとんど全滅。第3大隊も大隊長和田博大尉以下戦死傷者続出。中突進隊の歩兵第22連隊(松山)第11中隊(木口恒好大尉)全滅。左突進隊の歩兵第32連隊(山形)第3大隊約400も戦力半減。戦車第27連隊から出撃の戦車9両も全滅。左逆上陸(西岸)部隊主力の船舶工兵第26連隊も連隊長佐藤小十郎少佐以下戦死419人。

ローリングス中将指揮の英太平洋艦隊(第57機動部隊)、宮古島を砲撃する。

5日

32軍の総反攻が失敗し、午後3時、攻撃は中止される。

《軍事特別措置法》が施工される。

6日 島田県知事を長とする《沖縄県後方指導挺身隊》が編成される。本部は豊見城村長堂の壕。
4日の総攻撃で突出孤立した歩兵第32連隊(山形、主力は現地招集)第1大隊(伊東孝一大尉)が米軍の包囲網を突破し首里北方の友軍陣地に帰還。
7日

米軍占領下の石川に初の学校、城前初等学校が開校する。

8日

大本営、第5方面軍に対し対ソ作戦準備を下令する。

ドイツ軍、ベルリンで連合国への無条件降伏文書に調印する。

トルーマン、日本に無条件降伏を勧告する。

9日

日本政府、ドイツの降伏にかかわらず、日本の戦争遂行の決意は不変と表明する。

首里攻防戦始まる。白梅隊員は24時間勤務状態となる。

10

米軍、伊江島に出撃基地を建設する。

米軍前線、安謝・沢岻・幸地・小波津・我謝の線まで拡大。

米軍、安謝川を渡って那覇への進撃を開始する。

米機動部隊の一部、大東島を砲撃する。

11

米軍、第32軍の本拠地首里陣地の包囲隊形を整える。

米第10軍、首里防衛線を撃破するため総攻撃を開始する。

沖縄へ海軍が《菊水6号》、陸軍が第7次航空総攻撃を実施。

12

米軍、鳥島を占領する。

米軍、安里北側の52高地(シュガー・ローフ)に進出し、守備軍との間で激しい攻防戦を繰り広げる。

13 米軍が首里全面1キロまで迫り、第62師団が新たに歩兵第63旅団長中島徳太郎中将を首里防衛司令官として、約6700が部署に就く。
14

32軍、経塚・沢岻の陣地から後退し、首里に戦線を収縮する。

米軍、那覇の安里に侵入する。

最高戦争指導会議、対ソ交渉方針を決定する(終戦工作が始まる)。

400機のB29、名古屋市を爆撃。焼失二万戸。名古屋城も炎上。

15 首里西方天久台洞窟死守の独立第2大隊の残存者が最後の斬り込みに出て大隊長古賀宗一少佐以下ほとんど戦死。
16 那覇北方52高地の争奪戦で海軍陸戦隊山口大隊約500が逆襲に出て、大隊長山口勝一少佐ら大半戦死。
米軍、那覇・首里・運玉森の線に進出。日本軍も一歩も引かず、以後半月激戦が続く。
17日

日本守備軍、石嶺を死守する。運玉森を中心とする戦闘展開。

18 米第6海兵師団、10日間の攻防戦の末、《シュガー・ローフ》陣地を攻略する(米軍2662人の死傷者と1289人の戦闘恐怖症患者を出す)。
伊江島村民、米軍により慶良間列島の渡嘉敷島と慶留間島へ強制移住させられる(渡嘉敷島へ1700人、慶留間島へ400人)。渡嘉敷島では西側の友軍陣地と東側の米軍陣地の間の字渡嘉敷に押し込まれ、夜は流れ弾あり。
18

小禄の海軍砲台が駆逐艦ロングジョー(2100トン)を撃沈。

19

米軍、天久台地区を占領。

20 那覇北方で独立歩兵第15連隊第2大隊が最後の斬り込みを行い、大隊長井上清公大尉ら大半が戦死。
22

32軍、首里を放棄し、南部喜屋武方面へ後退することを決定する。

《戦時教育令》が公布され、全学校や職場に学徒隊が結成される(10月5日に廃止)。

米軍、安里河渡河、那覇市街に侵入。

この日から28日まで豪雨が続き、米軍戦車などの行動にぶる。

24

奥山道郎大尉の指揮する義烈空挺隊員約120人、沖縄本島北・中飛行場へ強行着陸し、奇襲攻撃をかける。27日まで奮戦を続け、全員玉砕する(一時、米軍の北飛行場の使用が不能になる)

壕内で発行されていた新聞『沖縄新報』が発行を停止する。

沖縄県庁、繁多川の壕から東風平村志多伯の野戦重砲隊の壕へ移る。

米軍の一部が那覇市街に侵入。

海軍が《菊水7号》、陸軍が第8次航空総攻撃を実施。

29の東京大空襲で皇居炎上。3月10日の大空襲で焼け残った東京山手一帯が罹災。

島田知事、識名の警察部壕を出て東風平村志多伯の野戦重砲隊の壕に移る。

25

62師団、南部へ撤退開始。

米軍先鋒、与那原へ突入。

島田沖縄県知事・荒井警察部長、識名の壕から南部へ後退する。

午後8時、南風原陸軍病院のひめゆり隊、南部に撤退する。

大本営、沖縄作戦を見切りをつける。

第6航空軍、連合艦隊司令長官の指揮下から除かれる。

東京大空襲(市街地の大半を焼失)。歌舞伎座、他映画館多数も焼失。

26

南風原の陸軍病院、真壁村に移動。

32軍主力の南部後退作戦で、まず第62師団(京都、藤岡武雄中将)、司令部を津嘉山へ移る。
27

海軍記念日。友軍がたくさん来ると聞かされていたが、どこからも援軍は来なかった。それでも、彼女たちは日本軍を信じ、勝利を疑わなかった。

32軍司令部、首里から津嘉山へ撤退。県庁、志多伯の壕を出て南下。

高嶺村与座の山部隊司令部で県警察署長会議が開かれ、地元住民を弾薬や糧秣を運搬させることについて協議を行う。

海軍が《菊水8号》、陸軍が第9次航空総攻撃を実施。

島田知事、兼城村座波の通称『秋風台の壕』へ移る。

伊原野にも敵機が飛び、時折ではあるが砲弾も落下するようになる。

28

首里高女、首里のナゲーラから識名上間の壕に入る。

戦災にあった東京の五大新聞は共同で印刷する事となり『共同新聞』の標題を加える。
29

米軍が首里城の一角に侵入。

30

32軍司令部、津嘉山から摩文仁へ到着。

10方面軍、先島方面守備部隊を管轄下におく。

31

24師団と独立混成第44旅団の残置部隊、首里戦線から撤退する。

32軍司令部の所在地首里、完全に米軍の手中に陥る。米軍、首里城に星条旗を翻す。
6月 2日

宮古島で戦備令が下され、独立混成第59旅団、伊良部島から平良町へ移動する。

宮古島では米空挺部隊降下の情報が流れる。

石垣島で戦局の逼迫に伴い官民に非難命令が下され、非戦闘員は山野に避難する。

32軍、後退部隊を一時収容する津嘉山の陣地も撤収。

3日 新城分院と東風平分院が閉鎖され、軍医・衛生兵・看護婦と共に、隊員も山第一野戦病院本部壕に引き上げる。

島田知事、真壁村伊敷の通称『轟の壕』へ移る。

米第8海兵連隊の第2・第3大隊、伊平屋島に上陸する。

沖縄県後方指導挺身隊、解散となる。

海軍が《菊水9号》、陸軍が第10次航空総攻撃を実施。

4日 富盛の第24師団第一野戦病院は糸満市国吉へ後退決定。白梅隊員に解散命令下る。学徒は各自で行動して知念半島へ脱出せよと言われる。
伊原は弾丸は来ないし、野菜も畑にいっぱいあり、サトウキビもいっぱいあった。
32軍主力部隊、喜屋武・摩文仁地区への撤退を完了し、新配備につく。

米軍、伊平屋島の占領を宣言する。

シェファード少将指揮の米第6海兵師団、小禄半島に上陸する。

米軍が小禄に上陸、海軍陸戦隊、腹背に敵を受け孤立。

5日 真栄平集落で逃避行中の白梅隊員11名が合流。米田軍曹と行き会い、国吉の病院壕へ誘われるが断りグループ行動を選ぶ。

この日、台風で米艦船に大被害。

6日

米軍、那覇飛行場を占領する。

沖縄方面根拠地隊司令官大田実海軍少将、海軍次官宛に『‥‥沖縄県民カク戦ヘリ県民ニ対シ後世特別ノ御高配ヲ賜ランコトヲ』で結ぶ訣別電報を打つ。
32軍参謀神直道少佐、大本営への連絡のため地元の漁夫6人を伴い国頭からくり舟で出発。
天皇臨席の最高戦争指導会議、《今後採るべき戦争指導の基本大綱》の《本土決戦方針》を採択する。
7日

米第1海兵師団、糸満北方の西海岸に侵攻し、第6海兵師団と協力して日本海軍部隊(沖縄方面根拠地隊)を南部の第32軍から孤立させる。

旧琉球王家の尚順男爵一族の3人、摩文仁の軍司令部壕に立ち寄る。

海軍が《菊水9号》作戦を実施。

両国国技館の戦災で延期していた大相撲は明治神宮で奉納大相撲と名を変え7日間の野外興業。
8日

波平で榴散弾を受けて白梅隊員9名が重軽傷を負う。

台湾在駐の第10方面軍司令官、第28師団長納見敏郎中将に対し、迎撃態勢の完備を命じる。

87臨時議会が招集される。

9日

白梅隊員16名が国吉に後退した山第一野戦病院壕に合流。再び、病院勤務に就く。

米第8海兵連隊の第1大隊、粟国島へ上陸し、その日のうちに占領する。

日本雷撃機隊が伊江島飛行場の米軍を攻撃する。

32軍司令部付森脇弘二大尉、沖縄作戦報告のため大本営へ向かう(7月14日、任務達成)。
10

伊原野にも迫撃砲の集中攻撃にさらされる。

首里高女生徒に解散命令が下るが、生徒たちは留まる。

米軍司令官バックナー中将から日本軍司令官牛島中将に対する降伏勧告(空中から書簡落とす)
この頃から友軍兵士は中部・首里・那覇からの避難民、南部の地元民を『作戦のため』と称して壕から追い出し、住民は弾雨にさらされ犠牲者急増。
11

米第10軍司令官バックナー中将、渉外班の1隊に日本軍と休戦を打ち合わせる権限を与え、午後5時すべての射撃を止めて日本軍へ降伏を呼びかけるとともに、第32軍司令部に降伏勧告状を送る。

米軍先鋒、糸満・与座・八重瀬岳・具志頭の線に進出。

12

大本営陸軍部、第6航空軍の重爆撃機4機で兵器類を第32軍のために投下させる。

13 大田実海軍少将指揮の沖縄方面根拠地隊、小禄地区で玉砕、大田司令官は幕僚らと司令部壕内で自決する。一部は遊撃戦に移る。
ジェファード米第6海兵師団長、ガイガー海兵師団長に小禄半島日本軍守備隊の組織的抵抗が終わった旨、報告する。

《国民義勇戦闘隊》結成のため、大政翼賛会および傘下諸団体が解散される。

14

この頃から一日平均兵1000名、一般民2000名の戦死者を出す。

15 沖縄から脱出して本土に渡った第32軍の神直道参謀、大本営作戦室で梅津美治郎参謀総長以下作戦部員に沖縄の戦況を報告する(この頃すでに大本営は沖縄戦にかかわる《天号作戦》を打ち切り、《決号作戦》と称する本土決戦準備に移行している)。

米軍島嶼司令部により、最初の軍事委員会が設置される。

県知事島田叡は県庁の活動を停止する事を職員に伝える。

島田知事、轟の壕を出て、摩文仁の軍医部壕に移る。

16

米第96歩兵師団の第一線部隊、与座岳を攻略する。

17 牛島第32軍司令官、初めて米上陸部隊司令官バックナー中将からの降伏勧告を受け入れ拒否。
米第7師団の兵士が携帯用のラウドスピーカーで、喜屋武・摩文仁一帯の日本軍や地元住民に降伏を呼びかける。

歩兵第22連隊の本部壕が爆雷攻撃を受け連隊長吉田勝大佐以下全員戦死。

陸軍病院第一外科壕(伊原)がやられる。

18

32軍司令部、学徒隊の解散を命ずる。

島田沖縄県知事、荒井警察部長を伴い摩文仁の守備軍司令部壕に入った後、消息を絶つ。

陸軍病院第二外科壕(糸洲)が馬乗りされる。

仲座方面に布陣する独立混成第44旅団の主陣地が米軍に突破され、旅団は摩文仁の89高地に撤退する。

62師団長、軍司令部命令により、参謀長以下を伴い山城から摩文仁に移る。

32軍司令官牛島中将は参謀次長および第10方面軍司令官あてに訣別電報を打つ。
米第10軍司令官バックナー中将、戦闘状況を視察中、真栄里田原屋取りで戦死する。
19 沖縄師範学校女子部生徒・県立第一高女生徒から成る《ひめゆり部隊》の一部隊員49人、米須の壕(第三外科壕)で戦死する。
首里高女の生徒に二度めの解散命令が出て、生徒4、5人に衛生兵がついて壕を出る。

組織的戦闘不可能となり、第32軍司令部最後の命令下達。

32軍司令部、《鉄血勤皇隊》を解散させる。

10方面軍司令官安藤利吉大将、第32軍および配属部隊に対し感謝状を授与する。
32軍の八原博通高級参謀以下約20人の軍司令部将兵、大本営への連絡や遊撃戦の任務を受けて司令部洞窟から出る。
南部で歩兵第89連隊(旭川)連隊長金山均大佐、工兵第24連隊長児玉昶光大佐戦死。
米第3海兵軍団長のガイガー少将、バックナー中将の後任として、第10軍司令官に任命される。
20

真壁高地付近を防備する第24師団長雨宮巽中将、組織的抵抗が不可能になったことを認めるとともに《陣地を守り、最後の1兵まで戦え》と配下将兵に訓示する。

米軍心理作戦部隊、沖縄南部の海上から上陸用舟艇で、日本守備軍および住民に対し再度降伏を呼びかける(約800人の将兵と4000人の住民が降伏する)。
21

国吉の下の壕が米軍に馬乗りされる。白梅隊員6名が死亡。

海軍、《菊水10号》作戦を行う。

米第10軍司令官、沖縄管理の責任を島嶼司令部に移す。

陸軍大臣・参謀総長、牛島第32軍司令官に対し連名で《貴軍の忠誠により本土決戦の準備は完了した》旨の訣別電報を送る。
第5砲兵司令部和田孝助中将、独立混成第44旅団長鈴木繁二少将ら司令部総員が斬り込みを決行、戦死。
ホッジ軍団長指揮の米第24軍団、沖縄守備軍最後の拠点の81高地(真壁)と89高地(摩文仁の守備軍司令部の所在地)を占領する。
米第10軍司令官ガイガー中将、午後1時5分、米軍が沖縄を確保した、と発表する。

32軍残存兵力と学徒隊による最後の総攻撃、戦死者多数。

22

国吉の上の壕も米軍に馬乗りされ、白梅隊員2名が死亡、4名が重軽傷。

摩文仁の守備軍司令部付近の防衛に当たっていた第62師団長藤岡武雄中将、参謀長以下の幕僚と自決する。歩兵第63旅団長中島徳太郎中将も沖縄戦に見切りをつけ自決する。第24師団長雨宮巽中将も自決。

米第10軍司令部、沖縄戦に参加した全部隊の代表者を集め、《氷山》作戦の終結を公式に宣言し国旗掲揚式を行う。

内閣に独裁権限を付与する《戦時緊急措置法》を公布する。

天皇、最高戦争指導会議の構成員に和平の意志を表示。

《義勇兵役法》が公布される(15歳以上60歳以下の男子、17歳以上40歳以下の女子を国民義勇戦闘隊に編入する)。
23 午前4時30分、牛島満司令官と長勇参謀長、摩文仁の司令部洞窟出口付近で自決する。

旧真壁村字真栄平中央部は米軍戦車が入れず、なおも交戦。

友軍兵士は住民を壕から追い出し、幼児、婦女子を銃剣で射殺。

◆沖縄戦の日本軍戦死者  陸軍67900人、海軍21500人、計89400人。
                                一般住民戦死者 1015万。
        米軍戦死者   陸軍4582人、海兵隊2792人、海軍4907人、計12281
        (海軍の戦没者の大半は特攻攻撃による。26隻が沈没、368隻が損傷)

24

米軍久米島上陸(30日まで占領)。

25

大本営、沖縄戦における日本軍の組織的作戦の終結を発表する。

26

-101-X軍政分遣隊、早朝久米島に上陸する。

《国民義勇戦闘隊統率令》が公示される。

29

久米島の日本海軍守備隊、スパイ容疑で地元住民9人を虐殺する。

30

米軍、南部における掃蕩戦完了。

6月 ・東京、浅草の国民酒場は酒(二等酒)1合1円10銭、つまみ45銭、税金45銭で長蛇の列を作っていた。
6〜7月

各地で日本軍による虐殺事件あいつぐ(スパイ嫌疑)。

7月 2日

米第24軍団と第3水陸両用部隊配下のすべての軍政要員は島嶼司令部に移される。

米軍、琉球作戦終了を宣言。

護郷隊解散。

3日 米海兵隊大佐ムーレー、ウィリアム・クリスト准将に代わって軍政副長官に就任する。
10

ソ連に和平斡旋のための特使派遣を決定。18日、ソ連は斡旋を拒否。

16

米国、ニューメキシコで最初の原子核爆発実験に成功する。

17

米・英・ソ首脳、ポツダムで会議を行う。

20

米議会委員会のメンバー、沖縄を訪れる。

24

32軍高級参謀八原博通大佐、米軍の捕虜となる。

26

米軍政府、地元住民に戦後初の新聞『うるま新報』を創刊させる。

連合国、対日ポツダム宣言を発表する。

27

最高戦争指導会議、ポツダム宣言の取扱方針について決定する。

28 鈴木首相、記者団に対しポツダム宣言を黙殺し、戦争遂行のため邁進する旨、声明する。
30

沖縄県立石川高等学校が開校する。

佐藤駐ソ大使、ソ連に条件付和平の斡旋を依頼する。

31

米第10軍琉球区域司令官スティルウィル大将、首席軍政官に就任する。

米軍島嶼司令部、陸軍兵站司令部Iとなる。

米陸軍駐留部隊、陸軍兵站司令部Iに統合される。

8月 1日

米海軍軍政府教育部に沖縄教科書編集所が設置される。

2日

連合国、ドイツに関するポツダム議定書を発表する。

4日

米軍、沖縄本島北部における掃討戦を終える。

6日

午前8時15分、米機B29、広島に原子爆弾を投下する(死者20数万人)。

8日

ソ連、日本に対し宣戦を布告し、北満州・朝鮮・樺太に侵攻を開始する。

9日

米機B29、長崎に原子爆弾を投下する(死者12万数千人)。

御前会議が開かれ、10日午前2時半《国体護持》を条件にポツダム宣言の受諾を決定し、政府は中立国のスウェーデンとスイスを通じて連合国へ申し入れる。
12 連合国、日本政府の降伏条件に対し回答する公電を送るが、《国体》については、直接の言及を避ける。
13 米西部太平洋陸軍部隊司令官、陸軍兵站司令部Iの司令官に対し、米将兵と地元女性との結婚を許可する権限を委任する。
14

御前会議、無条件降伏を決定し、中立国を通じて連合国へ申し入れる。

仁科芳雄ら、広島投下の爆弾を調査し『原子爆弾』と発表。

15

天皇、戦争『終結の詔書』をラジオから放送する(第二次世界大戦終わる)

戦没者・軍人155万人余、市民30万人(事実は推定300万人)。

文化財の戦災による被害、名古屋城、徳川家康廟など293、史跡名勝・天然記念物44、重要美術品134件など(21年文部省発表)。

沖縄各地区代表約120人が石川に集まり、沖縄諮詢会設立について協議する。

29 山部隊の本部壕(山形の塔)の歩兵第32連帯長北郷大佐を初め将兵、看護婦、炊事婦、避難民等、総勢500名近くが捕虜になる。




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