酔雲庵


酔中花

井野酔雲





25




 山の朝。

 小鳥たちの歌声。

 久美子が山小屋から、のこのこ出て来て、あくびをする。

 朝靄がかかっていて、山々はまるで水墨画のようである。




癒し系CD:小鳥のさえずり




26




 山の中の道を久美子はスケッチブックを抱えて歩いている。

 草を踏み分け歩いて行くと目の前に綺麗な沼が現れた。

 紅葉に囲まれ、沼は太陽の光を浴びて光り輝いている。

「まあ、綺麗‥‥‥」

 かたわらの石に腰掛け、久美子は沼に見とれている。

 静寂。

 久美子の頭の中に、ふとモーツァルトの幻想曲が流れる。




マリア・ジョアオ・ピリス/モーツァルト:ピアノ・ソナタ全集




27




 流れるモーツァルトの幻想曲‥‥‥

 コンサートホールのステージでピアノを弾いている葉子。

 客席で聞いている久美子。



 子供の頃の久美子と葉子がママゴト遊びをして遊んでいる。

 葉子の母が家の中から葉子を呼んだ。

「葉子ちゃん、ピアノのお稽古の時間よ。早くいらっしゃい。先生が待ってるわ」

「いや、今日はいやよ」と葉子は久美子と遊んでいる。

「そんな事、言わないの」

「やだったら、いや」と葉子は駄々をこねる。

 母親は庭に出て来て、「久美ちゃん、またね」と言うと嫌がる葉子を連れて行った。

 つまらなそうに人形を抱いている久美子。

 家の中から聞こえて来る葉子のピアノ。

 モーツァルトのソナタ‥‥‥

 負けん気の顔をして聞いている久美子。



 祖父が廊下で絵を描いている。

 人形を抱えた久美子が泣きながら帰って来る。

「どうした、久美。犬にでも吠えられたのか?」

「お爺ちゃん、あたしもピアノをやりたい」

「そうか、葉子ちゃんはピアノのお稽古か」

「ねえ、お爺ちゃん、ピアノ、買って‥‥‥ねえ、買って‥‥‥」

「久美、それは無理だよ」

「やだ、やだ、やだ、買って‥‥‥」

「そう、駄々をこねちゃいかん。いいか、久美、お前は葉子ちゃんがピアノをやってるのを見て、自分もやりたくなっただけだろ。本当にお前がピアノをやりたいのなら、お爺ちゃんも考えておく。でも、一度やるって言ったら途中でやめちゃ駄目だぞ。いいか、よく考えなさい」

 久美子はべそをかきながら、よく考えている。



 コンサートホールのステージでピアノを弾いている葉子。

 客席で聞いている久美子。

 幻想曲、終わる。

 割れるような拍手。

 ステージに立ち、大勢の客たちに向かって頭を下げる葉子。

 大勢の客たちの中で拍手をしている久美子。



 喫茶店。テーブルに向かい合って座っている葉子と久美子。

「どうだった?」と葉子が聞いた。

「よかったわ、最高よ」

「ありがとう」

「成功、おめでとう」

「久美もね‥‥‥絵で賞を取ったんでしょ。おめでとう」

「ありがとう」

「久美がピアノをやってなくてよかったわ。もし、やってたら、あたし、完全に負けてた」

「何言ってるのよ。そんな事、あるわけないじゃない」

「でも、久美の描いた絵、凄くよかった」

「ありがとう。でも、どうして、すぐ帰っちゃったの? あたし、葉子が来ないと思って、がっかりしてたのよ」

「だって、久美、みんなに囲まれて嬉しそうにしてたんだもん。なんか、あたし、自分が恥ずかしくなっちゃって‥‥‥」

「何言ってんのよ。立派なピアニストじゃない」

「あたしってね、気が小さいのか知らないけど、すぐ自分に自信がなくなっちゃうのよ。ピアノ弾いててね、今日は最高のできだと思って、自分で満足するの。でも、次の日になってみると、もう駄目、全然、自信がなくなっちゃうのよ。何となく、誰かに笑われてるような気がするの。あたし、モーツァルトが好きでしょ。モーツァルトばかり弾いてるんだけど、やればやる程、難しくなるのよ」

「‥‥‥そう。でも、今日の葉子のモーツァルト、最高だと思うけどな」

「まだまだよ‥‥‥」





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