酔雲庵


酔中花

井野酔雲





28




 静寂‥‥‥

 沼をスケッチしている久美子。

 久美子の絵には沼の中央に立ってポーズを取っている娘が描いてある。

 沼を見ると実際に沼の中央に娘が立ってポーズを取っている。ラーラである。今度は可愛い娘に化けている。

 久美子、絵を描き終える。

「もういいわよ。ありがとう」と久美子はラーラにお礼を言った。

「ああ、疲れた。こんなの初めてよ」とラーラは沼の上を歩いて、久美子の方に近づいて来た。

 久美子はラーラに絵を見せた。

「へえ、うまいのね」

「あなた、どこから来たの?」と久美子は聞いた。

「この沼の下よ」とラーラは言った。

 久美子、沼の中を覗いてみる。水は綺麗に澄んでいるが、石や岩が見えるだけだった。

 ラーラは久美子の横にちょこんと座った。

「そこ、面白いの?」

「つまらない。退屈だから出て来たの」とラーラは久美子にもたれ掛かる。

「ねえ、お姉さん」とラーラは久美子の顔を下から覗き込んだ。

「何?」

「あたし、お姉さん、好きになっちゃった」

「そう。それじゃあ、あたしをあんたの国に連れてってよ」

「駄目よ」

「ねえ、行きましょう」

「駄目」

 久美子、ラーラの手を引っ張る。

 ラーラ、久美子の腕に抱き着く。

「どうやって行くの?」

「真ん中に入り口があるの」

 久美子とラーラは寄り添いながら、沼の上を歩いて行く。




モーツァルト:交響曲第41番《ジュピター》




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 ここは沼の下、ラーラの国。

 のどかな田園を歩いている久美子とラーラ。

 静かに流れるモーツァルトの交響曲『ジュピター』

「モーツァルトね」と久美子は言った。

「今、モーツァルトが流行ってるのよ。あたしが生まれた頃はベートーヴェンだったらしいけど、馬鹿の一つ覚えみたいに、もうずっとモーツァルトばかりやってるわ。ストラヴィンスキーとかバルトークでもやればいいのにね」

「どこから聞こえて来るの?」

「あの丘の向こうよ」

 音楽に合わせて陽気に働いている人々。

 丘を登ると向こうの草原にオーケストラがいた。

 聞いている者は一人もいないが、みんな楽しそうに演奏している。

「あれはこの国のオーケストラ?」と久美子は聞いた。

「さあ、やりたい人がやってるんでしょ」

「ふうん。でも、誰も聞いてないじゃない」

「えっ、みんな聞いてるじゃない」

「だって、誰もいないじゃない」

「何も側で聞かなくても聞こえるわ。みんな、仕事しながら聞いてるのよ」

「そりゃそうだけど、勿体ないじゃない。あんないい演奏してるのに誰もちゃんと聞いてやらないなんて」

「何言ってんの。みんな、ちゃんと聞いてるわよ」

「そうじゃないのよ。あのオーケストラの側にね、椅子を並べて、ちゃんと聞くべきよ」

「へえ、どうして、そんな事するの?」

「どうしてって、音楽って、そうやって聞くもんじゃない」

「変わってんのね。あの人たちは好きで演奏してるのよ。他の人たちだって、自分の好きな仕事をしながら、ちゃんと聞いてるわ」

「あっ、一人いた。ほら、あそこで寝そべって聞いている人」

「ああ、あれ。あれは作曲家よ。まだ一曲も作った事ないけど、毎日、ゴロゴロしてるわ」

「あの人たち、お客さんがいないとすると、どうやって食べているの?」

「畑で働いてる人たちが持って来てくれるわ」

「ただで?」

「この国にはお金なんてないのよ。あの人たちは好きで畑仕事をやってるのよ。取れた作物だって、自分たちだけでは食べきれないでしょ」

「それじゃあ、あの何もしないでゴロゴロしている作曲家もそれを食べているわけ?」

「そう。この国はね、みんなそれぞれ、やりたい事をやってるわけ。みんな、持って生まれた才能っていうのがあるでしょ。それを生かして、やりたい事をやってるのよ。それで、みんな、お互いの事を認めてるの。今は何もしないでいる人も、いつかきっと何かをする。そう信じて、そういう人にも食べ物をやったり、着る物をやったりしてね」

「もし、その人が何もやらなかったら?」

「それはそれでいいのよ。一生、何もしないで生きたとしたら、それも一つの才能じゃない」

「もし、悪い事をしたらどうするの?」

「悪い事って?」

「人の物を盗むとか、人を殺すとか‥‥‥」

「人の物を盗んだりする人はいないわよ。盗む必要ないもの。人殺しはたまあにいるけどね。それは仕方がないじゃない。一種の病気よ」

「法律なんてないの?」

「あったって意味ないでしょ」

「そうね。あったって変わらないわね」

「ああ、つまんない」とラーラは草原に寝そべる。

「ところで、人を殺した人はどうなるの?」と久美子はラーラの隣に座った。

「追放よ」

「どこへ?」

「人間の世界」

「えっ? 嘘でしょ」

「ほんとよ。あそこは病人ばかりでしょ。ここで人を殺した人も、あそこに行ったら、おとなしいもんよ。みんな、結構、真面目にやってるわ‥‥‥ああ、おなか減ったわね。何か食べに行きましょう」

 ラーラは身軽に立ち上がった。

 ボケッとオーケストラを見ている久美子。

 ラーラは久美子の手を引っ張って立たせる。

 二人は丘から下りて行った。





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