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昭和19年 | 10月 | 10日 | 晴 | 那覇市を中心に大空襲。 |
昭和20年 | 1月 | 3日 | 沖縄本島、宮古、八重山、空襲。 | |
12日 | 沖縄本島、宮古、八重山、空襲。 | |||
21日 | 宮古島、空襲。 | |||
22日 |
那覇市空襲。師範女子部、一高女の校舎がやられる。 |
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3月 | 1日 |
朝より空襲。 |
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23日 | 午前7時より午後5時まで那覇市を中心に大空襲。小禄飛行場、北飛行場、中飛行場方面 は黒煙に包まれる。 | |||
24日 | 晴 |
午前7時前に空襲警報が鳴る。午後から港川方面に艦砲射撃が始まる。慶良間日艦砲が撃ち込まれ黒煙を上げているのが見える。首里の観音堂下の放送局の鉄塔めがけて艦載機から爆弾を投下したが爆弾は目標からそれる。それは首里市に落とされた最初の爆弾だった。 |
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25日 | 晴 | 午前7時より午後5時まで空襲。『慶良間に米軍が上陸した』という話がどこからともなく伝わって来る。人々は『慶良間の次は間違いなく沖縄本島だ』と慌てふためき、艦砲射撃が轟く中、幹線道路は国頭に避難する人達で溢れた。 | ||
前日無事だった放送局の鉄塔が爆弾で吹っ飛ぶ。 |
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日本軍は慶良間への砲撃を上陸と誤認し『中南部の住民は国頭に避難すべし』との緊急指令を出す。これを受けて大本営報道部も『25日、一部の兵力は慶良間列島に上陸せり』と発表した。米軍が慶良間に上陸したのは翌日だった。 | ||||
26日 | 晴 |
午前7時より午後5時まで空襲。米艦船1200隻が沖縄本島を取り巻くのが首里から見えた。 |
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27日 | 晴雨 |
午前6時より午後5時まで空襲。 |
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28日 | 曇 |
午前6時より午後5時まで空襲。夜間の艦砲射撃が始まる。 |
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29日 | 晴 |
午前6時より午後5時まで空襲。艦砲射撃が強まる。 |
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30日 | 晴 |
午前6時より午後5時まで空襲。港川方面に対し艦砲射撃。 |
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運天港の日本軍魚雷基地、壊滅。 |
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31日 | 晴 |
米軍は那覇西方10キロの海上に浮かぶ無人の神山島(チービシ)に155ミリの加農砲16門を据え付け砲撃を開始する。まだ首里に艦砲はなくグラマン機さえ気をつければ歩けた。 |
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4月 | 1日 | 快晴 |
午前6時より午後5時まで空襲。米軍6万余、上陸。夜間の艦砲。 |
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午前8時頃より砲撃は最高潮に達する。風原方面の襲撃続く。 |
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2日 |
午前6時より午後5時まで空襲。夜間の艦砲。南風原方面の攻撃物凄い。 |
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4日 | 雨 |
宜野湾村大山、真喜志一帯に砲弾が落ちて来る。米軍、沖縄本当を南北に分断する。 |
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8日 | 曇 |
『大詔奉戴日』鉄血勤王隊の一中生徒に菊の紋章入りの煙草と菓子(落雁)が支給される。 |
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12日 | 晴 |
日本軍、夜襲を決行。敵の反撃も強まる。夜9時、首里一中の寮、養秀寮が被弾し炎上。 |
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16日 |
米軍、伊江島に上陸。首里、空襲大なり。 |
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17日 |
首里第二国民学校、沖縄師範学校校舎と寄宿舎、首里市役所が炎上。 |
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18日 | 晴 |
一中校舎、首里城、首里第一国民学校、尚家が炎上。 |
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19日 |
米軍、首里外郭陣地に総攻撃開始。与那原、ナパーム弾で焼滅。 |
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21日 | 晴 |
南風原陸軍病院第一外科8号壕が艦砲の直撃を受け多数の死傷者を出す。 |
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気象隊、首里市石嶺から豊見城村長堂に移動する。 |
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22日 | 晴 |
米軍、伊江島を占領。 |
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23日 |
第32軍司令部、首里周辺の非戦闘員に島尻への立ち退き命令を出す。 |
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24日 |
南風原陸軍病院、終日猛烈な集中爆撃を受ける。 |
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25日 |
米軍、2回目の総攻撃を開始。 |
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29日 | 晴 |
天長節。 |
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5月 | 1日 | 晴 |
爆撃甚だしく、首里市大中村の家屋はほとんど壊滅。 |
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4日 | 晴 |
日本軍、午前4:50、総攻撃に出るが敗れる(約6千の将兵を失う)。 |
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南風原陸軍病院、猛烈な艦砲射撃を受け次々に壕が破壊される。 |
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5日 | 晴 |
午後6時、日本軍の総攻撃は中止となる。 |
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南風原村兼城集落で1個分隊程の兵隊が固まって死んでいた。 |
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8日 | 雨 |
一日橋分室の壕がガス攻撃にあう。 |
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10日 | 晴 |
米軍、安謝川を渡り那覇へ進撃開始。 |
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11日 | 晴 |
米軍、首里防衛戦を撃破するため総攻撃を開始。安謝に米軍侵入。 |
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13日 | 晴 |
焼け野原となった首里市山川町に弾が激しく落ち住民の半数はすでに南に避難していた。 首里の記念運動場の南斜面にあった衛兵所が艦砲の直撃を食らう。 |
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14日 | 晴 | 米軍、那覇の安里に侵入。鉄血勤皇隊本部が豊見城村保栄茂(びん)に移動する事に決まり、先発隊が移動開始。豊見城村にはまだ爆撃、艦砲もなく別天地。 | ||
島尻では5月末までは芋や野菜、肉類などの商売が成立し通貨も使われていた。 |
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16日 | 晴 |
南風原の兼城十字路は死体の山。南風原国民学校が炎を吹きながら燃えている。 |
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東風平村の宜次(ぎし)あたりからはまったく平穏だった。 |
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17日 |
保栄茂には手付かずの砂糖黍畑が残っていた。砲弾は落ちて来ないし小鳥もさえずってい た。部落の人たちは家で炊事をしていて、竈から立ちのぼる煙が見えた。 |
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20日 | 晴 | 米軍、弁が岳を占領。 | ||
21日 | 雨 |
この日から長雨が続く。 |
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22日 | 雨 |
第32軍、南部撤退を決定し、兵站部から撤退し始める。 |
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23日 | 雨 |
道は田圃のようになる。 |
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25日 | 雨 |
石部隊の野戦病院が保栄茂に移動して来る。 |
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26日 | 雨 |
首里から南部へ向かう非戦闘員、米軍の艦砲と機銃掃射を浴び、殺戮される。 |
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27日 | 雨晴 |
夕方から晴れ、満月が出た。第32軍司令部、首里から摩文仁への撤退を開始。 |
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識名坂から繁多川まで死体の山。山川橋のたもとは死体の山。 |
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長堂以南は砲弾の落下はそれほどでもなかった。兼城国民学校の校舎も焼失していた。 |
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伊原野にも敵機が飛び、時折ではあるが砲弾も落下するようになる。 |
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午後、米軍が戦車を先頭に首里に進攻して来る。 |
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28日 | 曇 | 長雨のお陰で米軍の飛行機も減った。摩文仁岳は戦争の傷痕もなく野山は緑に包まれ、集落の家々から朝餉の煙が立ちのぼっていた。 | ||
29日 | 雨 |
午前10時過ぎ、首里城は米軍の1中隊に占領される。 |
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30日 | 雨 |
第32軍司令部、津嘉山を経て摩文仁へ到着。 |
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31日 | 雨 |
第24師団と独立混成第44旅団の残置部隊、首里戦線から撤退する。米軍、首里を占領。 |
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6月 | 4日 | 雨 |
第32軍主力部隊、喜屋武、摩文仁地区へ撤退を終了し、新配備に付く。 |
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米軍、小禄飛行場北側に上陸。 |
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◆台風、敵艦36隻が損害を受ける。 |
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伊原は全くの別天地、弾丸は来ないし、畑には野菜やサトウキビとたくさんあった。 |
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6日 | 晴 |
米軍、小禄飛行場を占領。 |
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7日 | 晴 |
米軍、糸満北方の西海岸に上陸。島尻は本格的な地上攻撃を受ける。 |
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10日 |
伊原野はこの日から迫撃砲の集中攻撃にさらされる。 |
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11日 |
米軍、午後5時にすべての射撃をやめて日本軍への降伏を呼びかける。 |
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13日 |
小禄の日本海軍全滅し、米軍、小禄を占領。 |
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16日 |
米軍、与座岳を攻略する。 |
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17日 |
伊原の陸軍病院第一外科壕が馬乗りされる。 |
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18日 |
糸洲の第二外科壕と米須の第三外科壕、全滅。米軍、日本軍を摩文仁に追い詰める。 |
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20日 | 晴 |
米軍心理作戦部隊、沖縄南部の海上から上陸用舟艇で降伏を呼びかける。 |
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21日 |
米軍、81高地(真壁)と89高地(摩文仁)を占領。 |
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国吉の山第一野戦病院の下の壕、馬乗りされる。 |
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22日 |
国吉の山第一野戦病院の上の壕、馬乗りされる。 |
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23日 |
午前4時30分、牛島司令官と長参謀長、摩文仁の壕で自決。 |
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7月 | 24日 |
第32軍高級参謀八原博通大佐、捕虜になる。 |
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8月 | 4日 |
米軍、沖縄本島北部における掃討戦を終える。 |
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15日 | 戦争終結。 | |||
29日 |
国吉、真栄平付近の守備に当たっていた第24師団歩兵32連隊(連隊長北郷格郎大佐)の将兵約300人、米軍の武装解除に応じ投降する。 |