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いつの間にか、冬が来て、山々は雪化粧している。 酔雲の山小屋にも庭にも雪が積もっている。 山小屋の中では久美子がコタツに入って絵を描いていた。 側には一升瓶が立っている。 恋人、浩二の顔を描きあげ、しばらく見つめている。そして、上の空白に馬鹿と大きく書き、茶碗酒をあおった。
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街の中を買物袋を抱えた久美子が鼻歌を歌いながら歩いて来る。 アパートの階段を上り、ある部屋の前に立ってノックをした。 返事はない。 ドアを開ける久美子。 部屋の中の空気は濁り、タバコの煙がこもっている。 畳の上には原稿用紙や紙クズ、食い物のカスなどが歩く隙間もない程、散らかっている。 隅の方のテーブルの前に座り込んで、浩二はペンを走らせていた。 入口に立ったまま、唖然としている久美子。 「汚ないなあ。まるで、ゴミ溜めじゃない」 久美子は買物袋を置くと部屋を横切って窓を全開にした。そして、浩二の後ろから原稿用紙を覗き込んだ。 「どんな話?」 「ああ」 久美子は浩二の文章を見ている。 「ねえ、あたしのあの絵、入賞しちゃった」 「ああ」 「ねえ、あたしの絵、賞を取ったのよ」 「うん?」 「ねえったら」と久美子は浩二の肩を揺すった。 「何だよう」 「ちょっと休憩、あたしの話、聞いて」 浩二はペンを置いて伸びをする。 「やあ」と久美子の顔を見つめた。 「どうしたの?」 「お前、また綺麗になったな」 「何よ‥‥‥」 「会いたかったんだよ‥‥‥悪いけどな、掃除してくれよ。それと腹も減った」 「馬鹿!」 「賞を取ったんだって、よかったな」 「うん」 「俺、ちょっと、風呂に行ってくらあ」と浩二は頭をかきながら立ち上がった。 「汚ねえなあ」と自分の部屋を見ながら言うと手拭いをぶら下げて出て行った。 一人残される久美子。 「何よ、あれ。あたしを何だと思ってんの、ばか、バカ、馬鹿!」 ブツブツ言いながらも久美子は掃除を始めた。
綺麗に片付いている部屋で、テーブルに向かい合って久美子と浩二はウィスキーを飲んでいる。テーブルには久美子の手料理が並んでいる。 浩二はうまいうまいと言いながら、食べたり飲んだりしている。 「先生もあたしの絵、褒めてくれたのよ」 「ふうん」 「いつも文句ばかり言ってた先生がね、あの先生が褒めるなんて本当に珍しいって、みんなも言ってたわ」 「そんなに嬉しいか?」 「何が?」 「先生に褒められてさ」 「そりゃ嬉しいわよ。絶対に人を褒めたりしない人だもん」 「ふうん‥‥‥もう、やめるんだな。その先生、大した先生じゃねえよ」 「あんた、知らないのよ。凄い絵、描くんだから」 「そりゃあ凄い絵を描くだろう。でも、もう、お前は賞を取ったんだし、もう、その先生に教わらなくてもいいんじゃねえのか。お前の絵は確かにうまいよ。けど、ただ、うまいだけだ」 「どうしい意味よ、それ」 「賞を取ったっていう事自体、もう、ある一つの型にはまったっていう事だぜ。これからもずっと、その先生について教わっていれば、何回か賞を取る事はできるだろう。でも、それじゃあ相変わらず、うまいだけの絵だ。お前の絵じゃない」 「あれはちゃんとあたしの絵よ。先生から教わったって言ったって、絵なんて教えられて描けるようなもんじゃないわ。あれはちゃんとあたしの絵よ」 「違う。あれは賞を取るお手本みたいな絵だ。こういう感じで、こういう風に描けば賞を取れるっていうのを忠実に守って描いたような絵だ」 「違うわ、絶対に。あれはあたしが感じた通りに描いた絵よ。何よ、自分よりも先に、あたしの方が賞を取ったからって、人を馬鹿にしないでよ」 「馬鹿になんてしてやしないよ。俺はお前のために言ってるんだ」 「ふん。誰が何と言ったって、あれはあたしの絵。あたしの実力で賞を取ったのよ」 「そうか、あめでとう。乾杯でもしようぜ‥‥‥どうしたんだ、ふくれたりして?」 浩二は久美子のグラスと自分のグラスにウィスキーを注いだ。 「ほら、機嫌を直せよ。可愛い顔が台なしだろ」 「馬鹿!」 「乾杯!」
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コタツに入ったまま、久美子は顔を両手の中に埋めて眠っている。 両手の下のスケッチブックには浩二の顔、上に馬鹿、その横にスキと書いてある。 窓の外では雪が静かに降っている。
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