38
雪の積もった山道を久美子がスケッチブックを抱えて歩いている。 崩れかけた山寺に来る。 「仙人の爺さん、いる?」 「ああ」と中から眠そうな返事がした。 久美子は寺の中に入って行った。 仙人は大きな火鉢を抱くようにして酒を飲んでいた。 「寒いのう」と仙人は久美子の顔を見て言った。 「うん」と久美子は火鉢にあたった。 「どうした、男が恋しくなったのか?」 「冗談じゃないわ」 「わしの太竿もまだまだ使えるぞ。試してみるか?」 「すけべじじい」 「いつまで、こんな山ん中にいるつもりじゃ。そろそろ、恋人が恋しくなったんじゃろう」 「うるさいな。男の事なんか考えちゃいないよ」 「そうかな。お前の顔に好きなあの人に抱かれたいって書いてあるぞ」 「馬鹿、くそじじい。今のあたしはそんな気分じゃないの」 「まだ、くだらん絵の事なんぞ考えてるのか?」 「くだらなくないわよ。一番大事な事よ」 「くだらんね‥‥‥お前、北斎と会って来たんじゃろ。奴はどんな絵を描いてた?」 「あの人は何でも描いてたわ。興味の引かれるものは片っ端から」 「そうじゃ、それでいいんじゃよ。描きたい物を描きたいように描けばいいんじゃ」 「それが描けないから悩んでるんじゃない」 「ふん。まあ、酒でも飲め」 「うん」 茶碗に酒を注ぐ仙人。 酒を飲む久美子。 「わっ、強い。何これ、焼酎じゃない」 「そうじゃよ。こう寒くちゃ、普通の酒じゃ、すぐ醒めちまう。どうじゃ、うまいじゃろう」 久美子、もう一度、飲む。 「うん、うまい‥‥‥ねえ、仙人さん、酔雲先生に会わせてよ。今、どこにいるのか知らないけど、あんたならわかるでしょ。ね、会わせて」 「無駄じゃよ」 「ね、会わせてよ。どうして、ああいう絵が描けるのか、知りたいの」 「無駄じゃよ」 「どうして、無駄なのよ」 「今のお前が酔雲に会った所で、酔雲からつかめる物は何もない。余計、悩むだけじゃ」 「それじゃ、あたし、どうしたらいいのよ」 「だから言ったろう。自分の描きたい物を描きたいように描けばいいんじゃよ」 「それが、できないの」 「お前は考え過ぎるんじゃ。もっと、素直に描けばいいんじゃ。技術とか配色とか構図とかはどうでもいいんじゃよ。今までに、お前が習って来た事はすっかり忘れ去るんじゃ。何もかも忘れた状態で描きたい物を描きたいように描けばいいんじゃ。そうすれば、お前が持っている技術やら色感やら構図なんてもんは自然と絵に出て来る。わかるか? お前はわざと、ここの所はこうしよう、ここの色はああしようなどと考えながら描いているから描けなくなるんじゃよ。もっと素直になって、自然に描けばいいんじゃ。何も考えずに感じた通り、そのままにな」 久美子は考えている。 「もう、絵の事なんか考えるな。心をもっと素直にすれば、いい絵が描ける」 久美子は考えている。 「まあ、焼酎でも飲んで、体の中の余計な物はみんな洗い流せ」 うなづく久美子。焼酎を一息に飲む。そして、むせる。 「わあ、喉が焼けそう」 笑う仙人。 久美子も笑う。 「おっ、また、ちらついて来たな」と仙人は外を見て言った。 「雪見酒ね」と久美子も外を見た。 「最高じゃな。雪が降る。酒がある。そして、お前もいい女じゃ」 雪を見ながら酒を飲む二人。 「どうじゃ、今、一番、何がしたい?」と仙人は久美子の顔を覗いた。 「浩二に会いたい」 「うん。それでいいんじゃ‥‥‥ほら、どんどん飲め」 仙人はいい気持ちになって古い演歌をうなり始めた。 久美子も手拍子をしながら一緒になって歌った。 外では雪がチラチラ舞っていた。
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39
山小屋の中で久美子は村の娘たち、春子、加代、幸子と一緒になって絵を描いている。 四人はコタツに入って、それぞれ、隣の人の顔を描いている。 春子が加代の絵を覗いて、「やだ」と言った。「あたし、こんな顔してないじゃない。何よ、そのすけべったらしい口は」 「実際、すけべったらしい口してるじゃないの」 「どれ」と幸子も加代の絵を覗いた。「ははは、そっくりよ」と今度は春子の絵を覗いた。 「何よ、これ、下手くそ、まるでブタじゃない」 「しょうがないでしょ。あんたがブタに似てるんだもん」 「言ったわね。何よ、骨と皮のくせに。女のくせして、おっぱいなんて全然ないじゃない」 「言ったわね」と春子は幸子の髪を引っ張った。 「やめなさいよ」と加代は二人を引き離す。「今、絵の勉強してんのよ」 「うるさい、チビ」と幸子は久美子の絵を覗いた。「ははは、そっくり」と笑い転げる。どれどれと春子と加代も久美子の絵を覗いた。春子も腹を抱えて笑った。 「何よ、先生、あたし、こんな顔、してないわよ」と加代は怒った。 「みんな、静かにしなさい」と久美子は叱った。 三人娘は静かになった。 「みんな、真剣に相手の顔を見て描いたんでしょ。それなら、それでいいのよ。似顔絵を描いてるんじゃないんだから、写真みたいにそっくりに描かなくてもいいのよ。自分が感じた通りに、そのまま描いていけばいいの。みんな、ちょっと見せて」 四人は自分が描いた絵を前に出した。 「みんな、うまいわよ。どこかしら似てるじゃない。(幸子の絵を見て)あなたはもっと自信を持って、大きく力強く描いた方がいいわ。(加代の絵を見て)あなたは小さい所に細かすぎるわ。もっと全体的に見て、まとめた方がいいわよ。(春子の絵を見て)あなたの絵はおおらかでいいけど、ちょっと雑すぎるわ。もっとよく見て、丁寧に描いた方がいいわ」 三人娘はおとなしく久美子の話を聞いている。 「やっぱり、先生はうまいわ」と春子は言った。「よく見ると、加代ちゃん、そっくりよ」 「うん、そっくりね」と幸子も言う。 「そうかなあ‥‥‥」と加代。 「でも、加代ちゃんもうまいわ。その男欲しそうな口なんか、春ちゃん、そのものよ」 「何言ってんのよ。男が欲しくて追いかけ回してるのは、お前じゃないか。男の顔見ると色目使って、いやらしいったらありゃしない」 「いつ、あたしが色目なんか使った?」 「いつもよ」 「自分こそ何さ、この寒いのに、似合いもしないのに、男の気を引こうと思って、そんなミニなんかはいちゃって‥‥‥露出狂」 「よしなさいってば、すぐ喧嘩するんだから。二人とも、男の話しかできないの」 「あんな事言ってるわよ」 「次郎さん、次郎さんて、次郎の後ばかり追いかけてるのは誰でしたっけ?」 「ね、あんなにやけた男のどこがいいのかしらねえ」 「にやけてなんかいないわ」 「この間、次郎、先生の事、好きだなんて言ってたわよ」 「そうそう、夜這いに行くって言ってた。先生、来なかった?」 「来たわ」 「ほんと?」 「うん。でも、すぐ帰ったみたい」 「先生、うちの中、入れたの?」 「入れないわよ。戸締まりして寝てたわ」 「先生があんな小僧っ子、相手にするわけないでしょ」 「ほんと?」 「大丈夫よ。中に入れないので諦めて帰って行ったわ」 「加代ちゃん、しっかり次郎を捕まえとかなきゃ駄目よ」 「次郎の奴、先生の所に来るなんて‥‥‥先生、今度、次郎が来ても絶対に相手になんかしないでね」 「博もね」 「えっ、博? 春ちゃんのお目当ては博だったの?」 「そうよ、悪い? 幸ちゃんは誰なのよ。白状しなさいよ」 「そうよ、言いなさいよ」 「あたしはね‥‥‥○○○よ」 「えっ、聞こえないわ、誰?」 「和雄」 「えっ、あのガリ勉‥‥‥へえ‥‥‥」 「いいじゃない」 「そりゃいいわよ、誰を好きになろうとね。でも、可哀想ね。相手にされないなんて‥‥」 「自分だって、そうじゃないのよ」と幸子と春子はまた喧嘩を始めた。やめさせようとする加代。 三人を楽しそうに見ている久美子。
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