酔雲庵


酔中花

井野酔雲





40




 今日はいい天気。

 太陽の光を浴びて、積もった雪が光っている。

 鼻歌を歌いながら洗濯物を干している久美子。

 久美子と同じ歌を歌いながら誰かが山に登って来る。

 久美子は首を傾げながら声のする方を見ている。

 浩二がのんびりと歌を歌いながら、スダブクロを肩からぶら下げて登って来る。

「あっ!」

 浩二は久美子の顔を見ると嬉しそうにニコッと笑った。

 荷物を放り出して、久美子の方に駆け寄ると久美子に抱き着き、抱き上げ、久美子をグルグル回した。

 久美子を降ろし、抱き合ったまま、見つめ合う二人。

 何も言わず、嬉しそうに笑う二人。

 キスする。




キスへのプレリュード




41




 山の頂上で久美子と浩二は岩に腰掛け、村を見下ろしている。

「作品はできたの?」

「うん、できた‥‥‥お前、いつまで、ここにいるんだ?」

「あたしがいないと淋しい?」

「ああ、淋しいよ」

「ふうん‥‥‥でも、もう少し我慢して」

「先生が帰って来るまでいるつもりか?」

「ううん。もう、先生には会えなくてもいいの。でも、もう少し、ここにいたいなって思ってるの」

「そうか‥‥‥」

「あなたはどうするの? あなたもここにいない?」

「いてもいいのか?」

「うん、いてほしい」

「へえ、随分、素直になったもんだな」

「こういう自然の中にいると素直になっちゃうのよ」

「そうか。それじゃあ、俺も山の中に籠もるかな」

「それがいいわよ」

「そうしたいんだがな、俺は京都に行くよ」

「えっ、京都?」

「うん」

「次の作品、考えてるの?」

「ああ、取材だ」

「そう‥‥‥」

「悲しそうな顔をすんなよ。すぐ、行くわけじゃない。二、三日、ここでのんびりするよ」

 久美子はニコッとして浩二に寄り添った。







42




 久美子はコタツに入って熱心に絵を描いていた。コタツの回りには描いた絵が散らかっている。

「お久美さん、いるかい?」と寅吉爺さんの声がするが、久美子は気づかずに絵を描いている。

「お久美さ〜ん」と寅吉爺さんはもう一度、呼んだ。

「はい」と久美子は気づき、立ち上がって入口の方に行く。

 寅吉爺さんが酒とつまみを持って入って来た。

「やあ、今日は大分、ぬくくなった。そろそろ春じゃな‥‥‥随分、散らかっとるな」

「ええ、ちょっと熱中しすぎちゃって‥‥‥今、片付けます」と久美子は散らかっている絵を片付ける。

「なに、いいんじゃ、いいんじゃ」と寅吉爺さんは部屋に上がってコタツに入る。「先生もいつも、こんな風じゃった‥‥‥その先生から手紙が来たよ」

「えっ!」

「今、沖縄にいるそうじゃ。暖かくなったら帰ると書いてあった。わしもさっそく返事を出して、あんたの事を書いてやったから、もうすぐ帰って来るじゃろう」

「そうですか。先生は今、沖縄ですか」

「うん。あっちは暖かいそうじゃ。それと泡盛がうまいと書いてあった。毎日、泡盛を飲みながら三味線と一緒に尺八を吹いてるそうじゃ。あの先生は酒が好きじゃからな。そして、酒を飲むと気安く、ほいほいと絵を描いてくれる。ほんとに面白い人じゃ」

 久美子はコタツの上を片付けて、酒を飲む用意をした。

「あんたがここに来て、もう、どの位じゃ?」

「もう五ケ月です」

「そうか。もう、そんなになるか。もうすぐ半年じゃな‥‥‥こんな山の中によく半年もいられたもんじゃ」

「色々と勉強になりました。本当に来てよかったと思っています」

「そうか。そいつはよかった。村の者もみんな、あんたの事を褒めておる。娘たちはもう、みんな、あんたの事を先生、先生と言って、何でも相談に来るらしいの。若い者が集まりゃ、みんな、あんたの噂をしとる。あんたっていうのは不思議な人じゃ」

 酒を飲んでいる久美子と寅吉爺さん。

「まったく、不思議じゃ。女が酒を飲むというのは何というか、わしゃ、あんまり好かんのじゃが、あんたと一緒に酒を飲んでいても、不思議とそういう気がせん。ごく自然じゃ。そして、あんたと酒を飲んでると何だか楽しいんじゃ。先生と飲んでいても、わしゃ楽しくなるが、何か同じような気分になるんじゃよ。不思議じゃのう」

 久美子は楽しそうに寅吉爺さんの話を聞きながら酒を飲んでいる。

「こんばんわ、先生、いますか?」と外で声がした。

「誰じゃ?」と寅吉爺さんは言った。

 入口から次郎と博が入って来る。

「何じゃ、お前ら、揃って夜這いか?」

「そんなんじゃねえよ、なあ」と次郎は言った。

「ああ、先生にちょっと相談があってな」

「そんな所にいねえで上がれ」

 次郎と博、久美子に頭を下げてから上がり、コタツに入った。

 久美子は茶碗を二つ持って来る。

「先生に相談て何じゃ?」

「いえ、その‥‥‥」と次郎。

「はっきりせんか」

「うん。春子と加代の事なんだよ」と博が言った。

「何じゃ、女の事か」

「うん、最近、あの二人、やけに冷てんだよ、なっ」と次郎。

「うん」と博はうなづいた。

「馬鹿か、おめえら、てめえの女の事を先生に相談してどうするんだ?」

「そんな事言ったってさ‥‥‥」

「まったく、だらしねえ。話んなんねえ」

「先生、あの二人に何か言ったんじゃねえのか?」

「ええ、言ったわよ。二人とも、あたしんとこに夜這いに来たって」

「何だと、おめえら、お久美さんに夜這いだと」

「夜這いなんかじゃねえよ」と次郎。

「俺だって、体よく追っ払われたんだ」と博。

「当たりめえだ。おめえらのような情けねえ男なんか、お久美さんが相手にするか」

「先生、他に何か言わなかった?」

「何も言わないわよ。あんたたちこそ、くどくどと言い訳でもしたんじゃないの?」

「そりゃあしたさ。そりゃあもう、おっかねえ顔して詰め寄るんだもんな」

「馬鹿め。言い訳だと? 男たるもの、言い訳なんかするな。情ねえなあ、まったく。てめえの女が思い通りにならねえからってんで、それを人のせいにして、おめえら、それでも男か? キンタマぶら下げてんなら、もっと、しゃきっとしろ、しゃきっと。女の顔色なんか、いちいち窺ってねえで、もっと、でんと構えてろ、わかったか?」

「へえ」と次郎。

「おめえは?」

「うん、わかったよ」と博。

「わかったら、さっさと帰れ!」

 もじもじしている二人。

「けえれ!」

 二人は立ち上がり、こそこそと出て行った。

「まったく、近頃の若え者はだらしがねえ。娘っ子の方がよっぽど、しっかりしてらあ」

 久美子は笑っている。

「寅さんの若い頃はどうだったんです?」

「わしか、わしの若え頃は‥‥‥まあ、似たようなもんだ。人間なんて、昔も今も大して変わっちゃいねえ。みんな、同じような事をして、わしのようなじじいになっていく。偉そうな事を言ったって始まりゃしねえ。みんな、おんなじ人間じゃ。だが、あんたは偉えよ」

「何言ってんです。あたしだって、ただの女よ。あたしがこの山に来たのは、本当は絵なんかどうでもよくて、ただ、変なやきもちを焼いて、むしゃくしゃしてただけなんです」

「そういえば、あんたの彼氏、今、どこにいるんだろうな」

「さあ、京都の女でも引っかけてんじゃない」

「ふむ、あの男もちょっと変わった男だな」

「大分、変わってるわ」

「あんたも変わってるし、似た者同士だな」

 笑う久美子。

 ニコニコしながら酒を飲む寅吉爺さん。





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