酔雲庵


酔中花

井野酔雲








 五郎右衛門は武芸者と木剣を構えて立ち合っている。

 気が満ちた時、お互いに気合と共に打ち合い、そして、元の場所に戻った。

「いかがでしたか?」と五郎右衛門は尋ねた。

「相打ちですな」と相手は答えた。

 五郎右衛門は首を横に振った。

「何、おぬしの勝ちと言われるか?」

「はい。拙者(せっしゃ)の勝ちです」

「しからば、真剣にて、お願い申そう」

「無益な殺生(せっしょう)です」

「逃げるか? 卑怯(ひきょう)なり!」

 真剣を構え、向かい合っている五郎右衛門と武芸者。五郎右衛門は清眼(せいがん)に構え、武芸者は清眼から上段へと移した。五郎右衛門が右足を後ろに引いて、清眼から下段に移した瞬間、武芸者は気合と共に斬り掛かって行った。

 勝負は一瞬にして決まった。

 武芸者が上段から斬り下ろす刀より速く、五郎右衛門の下段から斜め上に斬り上げる刀は武芸者の横腹を斬り裂いていた。

 血を吹き出しながら、武芸者はゆっくりと倒れ込んだ。

 五郎右衛門は倒れている武芸者を見つめながら血振りをして、懐紙(かいし)で刀の血を丁寧に拭うと(さや)に納めた。息絶えた武芸者に片手拝みをすると、荷物を背負い、その場を去った。

 どこからか、武芸者の妻と子供が出て来て、死体にしがみついて泣き叫んだ。

 五郎右衛門は振り返って、妻と子を見た。

 妻は死んだ夫の首を抱いて、うなだれている。子供は八歳位の男の子で、父にしがみついて泣きながらも、じっと五郎右衛門を睨みつけていた。

 五郎右衛門は子供の視線を振り切るように、その場から立ち去った。




和泉守兼定







 岩屋の中で、観音像を前に座禅をしている五郎右衛門は突然、気合と共に刀を抜いた。刀は鋭い音を立てて空を斬った。素早く、刀を鞘に納めると、また座禅に入った。

「何をそんなに考えてるの?」と誰かが言った。

 五郎右衛門は目をあけ、辺りを見回す。人がいるはずはない。気のせいだろうと、また目を閉じた。

「ねえ、何をそんなに考えてるの?」とまた、女の声がした。

 五郎右衛門は目をあけ、回りを見るが誰もいない。首を傾げ、首の後ろを何度か叩いた。

「あたしよ」と木彫りの観音様が言った。ラーラである。ラーラが観音像の中に乗り移っていた。「独りで悩んでても始まらないわ」

 五郎右衛門は観音様を睨みながら、刀の柄に手をやった。

「ちょっと待って。あなた、あたしを妖怪かキツネか何かだと思ってるわね? 違うわ。あたしは観世音菩薩よ。しかも、あなたが作り出した観音様よ。まあ、あなたがどう思おうと構わないけど、あたしに悩みを話してみない? 別に損するわけじゃないでしょ。それとも斬る?」

 五郎右衛門は刀を抜き、上段に構えると気合と共に振り下ろす。観音像の頭上、わずか紙一重の所で刀を止める。

「そんなカッコなんかつけてないで、素直にあたしを信じなさいよ」

「そうじゃな、信じるか」と五郎右衛門は刀をしまって観音様の前に座った。

「話してくれる?」

「何を?」

「あなたの悩み?」

「わしの悩みか? 実はの、人妻に惚れちまってのう。どうしたらいいもんかのう?」

「あら、そうだったの。面白いのね。あなたが人妻に惚れたの? そんな事、簡単じゃない。その自慢の人斬り包丁で、亭主を料理すれば片が付くでしょ」

「そうじゃな。やはり、それが一番いいか」

「あなた、昼間は毎日、棒振り踊りをしていて、夜は座禅したりしてるから、真面目な堅物(かたぶつ)だと思ってたら、わりと面白い人じゃない」

「それ程でもないぜ」

「どうして、こんな山の中にいるの?」

「世の中に飽きてのう。仙人にでもなろうかと思ってな」

「そんな年でもないでしょ。下界で人妻と遊んでた方が面白いでしょうに」

「飽きたわ」

「この色男が何言ってんのよ‥‥‥まあ、いいわ。あなたが言いたくないってんなら言わなくてもいいわ。それより、今夜は一緒にお酒でも飲みましょうよ」

「なに、酒を飲む?」

「嫌い?」

「嫌いじゃないが、ここには酒などない。しかも、観音さんよ、そなた、どうやって酒を飲むんじゃ?」

「簡単よ。この窮屈な木像から出ればいいのよ。ちょっと待っててね」

 突然、焚き火の火が大きく揺れた。揺れながら、火はだんだんと小さくなり、パッと消えると真っ暗になった。

 五郎右衛門は暗闇の中、刀の柄を握って、じっと耳を澄ませた。

 しばらくして、再び、焚き火の火が付くと、焚き火の向こうに等身大の観音様が現れた。勿論、ラーラである。ラーラは一升どっくりを抱えて笑っていた。

「もう一度、あたしの(きも)を試すつもり?」

「いや、やってもいいが、あんたはちっとも驚かんじゃろう。面白くない」

「フフフ‥‥‥まあ、一杯やりましょ。あなたも久し振りなんでしょ」

 ラーラは二つの茶碗に酒を注いだ。

「おいしいわよ」とラーラは五郎右衛門に茶碗を渡す。

 五郎右衛門は茶碗の中を覗き見る。

「毒入りよ」とラーラは笑って、自分から先に飲んだ。

「観音様と一緒に死ぬのもいいじゃろう」と五郎右衛門も飲んだ。「うむ。うまい‥‥‥はらわたに染み渡るのう」

「そりゃそうよ。お釈迦(しゃか)様が飲んでるお酒よ」

「成程な。お釈迦様ってえのは、どんな男なんじゃ?」

「いい男よ、昔はね。最近はもうろくして駄目よ。昔、書いたお経を読み返しては、ああでもない、こうでもないってブツブツ言ってるわ」

「わしは無学じゃから、お経なんて読んだ事もないが、一体、何が書いてあるんじゃ?」

「たわごとよ。ほんとはお釈迦様だって大変なのよ。馬鹿な人間どもにさ、お釈迦様の気持ちをわかりやすく教えてやろうと思って、いっぱい、お経を書いたのよ。それでも昔はよかったのよ。みんな、知ってたわ。お経の中に書いてあるのは、お釈迦様の心のほんの一部に過ぎないんだってね。お釈迦様の心はもっとずっと大きくて、決して、言葉なんかで表せるものなんかじゃないってね。ところが、人間て馬鹿じゃない。そのうちさ、お経がお釈迦様の教え、すべてなんだって思い込んじゃったのよ。でっかいお寺なんか建てちゃって、その中で朝から晩まで、お経を読んで、成程、成程って勝手にお釈迦様の事、理解したような気になっちゃってさ。冗談じゃないわ。お経なんて、ただの道しるべじゃない。それも一番初歩よ。山でたとえたら入口みたいなものよ。入口の辺りをウロウロしていて、山の頂上に登った気でいるんだから、どうしょうもないわ。お釈迦様の考えが台なしになっちゃったのよ。お経を残したばかりに、みんながお経にとらわれちゃったの。かと言って、何も残さなかったら、馬鹿な人間たちは信じないしね。それで今、お釈迦様は悩んでるのよ。大変よ、お釈迦様も。人間が馬鹿だから休む暇もありゃしない」

「おい。あまり、人間を馬鹿、馬鹿言うなよ」

「そうね。人間の中にも、やっぱり偉い人もいるけどね。ちゃんと、お釈迦様の教えをわかってくれる人もいるわ。でも、やっぱり、これはしょうがないのよね。人間、全部がわかってくれるなんていうのは無理なのよ。わかる人にはお経なんてなくてもわかるし、わからない人には、お経があってもわからないのよ、絶対。それを、わからない人にもわからせようとするんだから大変よ、お釈迦様は」

「そなたも似たような事をしてるんじゃろ?」

「そうよ。でも、あたしは物ぐさだから、あたしの名前を呼んでくれなきゃ行かないわ」

「わしは別に呼んじゃおらんぞ」

「嘘よ。毎晩、呼んでたじゃない」

「わしがか?」

「その像を彫ってたでしょ。一々、観音経なんて唱えなくてもね、観音像を彫れば、ただ、それだけでも縁ができるのよ」

「そうか。そういえば、観音様なんて彫ったのは初めてじゃ」

「あたしを彫ったって事は、あなたの心の中に、何か変化が起きたのよ」

 五郎右衛門は酒を飲んだ。

「確かに、わしの中で変化が起きた事は確かじゃ」

「もう一杯、どうぞ」とラーラは五郎右衛門に注いでやる。

「わしは子供の頃から強くなりたいと思っていた。強くならなけりゃ駄目だと思ってきた。今までのわしは剣一筋に生きて来たといってもいい。それこそ、朝から晩まで木剣を振っていた。夜、寝る時でさえ、剣の工夫をしていたんじゃ。お陰で新陰流(しんかげりゅう)奥義(おうぎ)を極めるまでになった。諸国に修行に出て、他流試合を何度もやった。一度も負けはせん。すべて勝つ事ができた。時には相手を殺してしまう事もあった。しかし、それは試合じゃ、仕方のない事じゃと思っていた。お互いに剣に命を懸けて生きている。剣に命を懸けている者が、剣に敗れて死ぬのは当然の事じゃと思っていた‥‥‥つい、この間も、わしは試合をした。木剣でやった。勝負は紙一重で、わしの勝ちじゃった。しかし、相手にはわからなかった。今度は真剣でやると言い出した。わしは受けた。そして、相手は死んだ‥‥‥わしはあまり、いい気分にはなれなかった。なぜだか、わからん。今までにも、同じような事は何度かあった。しかし、それは仕方のない事じゃと割り切って来た。ところが、今回はなぜか、後味が悪かった。わしがその場を去ろうとした時、どこからか、死んだ男の妻と子が出て来た。二人とも死体の上に重なって泣いていた。わしは早く、その場を去ろうとした。しかし、なぜか、気になって足が止まった。わしは引き返した。わしはその時、なぜ、引き返したのかわからん。何も考えていなかった。自分が何をしようとしているのか、まったくわからなかったんじゃ。わしは妻と子に頭を下げ、仏に両手を合わせた‥‥‥その妻はできた女じゃった。わしの事を許してくれた。妻には、いつか、こうなる事がわかっていたという。子供はわしに向かって、『父上を返せ』と泣きながら叫んだ‥‥‥わしにはわからなくなった。確かに、わしは強くなった。しかし、こんな事をするために、剣術の修行を積んで来たわけじゃない。剣術というのは、こんなもんじゃないはずじゃ‥‥‥わしにはわからん」

「あたしにもわからないわ。でも、剣術っていうのは人殺しの術でしょ? 人を殺すのがいやになったんなら、そんな刀なんて捨てればいいじゃない」

「刀を捨てるのは簡単じゃ。しかし、わしには本物の剣術っていうものが、何かもっと深いもののような気がするんじゃ」

「あなたの新陰流を作った人はどんな人だったの?」

上泉伊勢守(かみいずみいせのかみ)殿か‥‥‥師匠から何度か聞いた事はある。大した人物じゃったらしい」

「あなたもその位になればいいんじゃない」

「それがわからんのじゃ」

「やっぱり、それは自分で見つけるしかないわね。そういうものは人からああだ、こうだって言われてわかるもんじゃないわ。自分で苦労して、つかみ取らなきゃ駄目ね。ただ言えるのはね、今のあなたの剣術は、弱い者には勝てるけど、強い者には負けるわ。同じ位の者とやれば相打ちね。それじゃあ、畜生と一緒よ。そんなのは畜生兵法(ちくしょうひょうほう)ね」

「畜生兵法じゃと‥‥‥」

「そう。オオカミがウサギを殺す。(たか)が小鳥を殺す。小鳥が虫を殺す。強い者が弱い者を殺す」

「そんな事は当然じゃろ」

「あなたの剣術もそれと同じ。でも、それ以下かもしれないわ。鷹は強いけど、それを自慢したりしないわ。どうしても必要な時だけしか、小鳥を殺したりはしない。あなたはどう?」

「わしだって自慢なんかせん。わしは好きで殺しているわけじゃない」

「そうかしら?」

「そうじゃ」

「まあ、いいわ。その辺の所を考えるために、ここにいるんでしょ? ゆっくり考えるといいわ」

「畜生! わしにはわからん」

「あせらず、のんびりやる事よ」

 五郎右衛門は突然、犬の遠吠えのような大声を挙げ、腰の刀を抜くと、素早く、(くう)を斬った。

 ラーラは一瞬にして消えた。





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