酔雲庵


酔中花

井野酔雲








 早朝。

 ふんどし一丁で滝に打たれている五郎右衛門。両足を踏ん張り、両手を合わせ、仁王のような顔付きをして、ときたま、気合を入れている。

 木剣で形の稽古。


 新陰流、三学円之太刀

一刀両断‥‥‥ 一刀はひとつの剣を以って、両断とふたつに分つと言うべき、これより、二と業の成る数ならん。始まるところは、諸流、皆以って一刀なるべし。一は無極なり、大きに動き働いて、二とは成るべし。これを両断と言い、段の字を斬と訓じて、一刀を以って敵を二つに斬ると言う心にて、一刀両断と言う。

斬釘截鉄(ざんていせってつ)‥‥‥ 釘を切り、鉄を切るという事なり。この心持ちを禅には抜釘抜楔と言い、智見妄病を払うと言う。兵法にては敵を切って払うと言うも同じ心なり。

半開半向‥‥‥ 半分ひらき、なかば向かうと言うことなり‥‥‥

右旋左転‥‥‥ 右旋は右へまわり、左転は左へめぐると言うことなり‥‥‥

長短一味‥‥‥ 長短の一味は長きも短きも、一つの味わいと言うことなり‥‥‥


 朝の稽古が終わると、五郎右衛門は朝食の支度をした。朝食といっても、わずかばかりの米に野草を混ぜた雑炊(ぞうすい)である。なべを火にかけると、五郎右衛門は観音像の前に座り、「わからん」と呟くと座禅を始めた。

 五郎右衛門の一日は判で押したように決まっていた。

 朝、夜明けと共に目を覚まし、滝を浴び、木剣で形の稽古を何度もやる。それから、朝飯、食後はしばらく、座禅。そして、また木剣を振り、立ち木を打ち、抜刀(居合)をやり、座禅をして、日が暮れる頃、小川で汗を流し、夕飯を食べる。夜は岩屋の中で、彫り物を彫るか座禅をしてから眠る。

 今日でもう八日めになるわけだが、五郎右衛門の悩みは解決の糸口さえ、わからなかった。

 五郎右衛門は気合を掛けながら木剣を振っていた。

 汗を拭こうと小川に近づいた時、ふと、小川の向こう側に女が立っているのに気づいた。

 女は五郎右衛門を見ると丁寧に頭を下げた。

 五郎右衛門も頭を下げる。なぜ、こんな山奥にあんな女がいるんだろうと不思議に思ったが、あえて無視して、顔の汗を拭いていた。そのうち、どこかに行くだろうと思っていたが、意外にも女は裾をまくって、川の中をこちらに向かって歩いて来た。

 年の頃は二十四、五か。見るからに山の女ではない。武家の女であろう。

 女は五郎右衛門の側まで来ると笑いながら、「こんにちわ」と言った。

「はあ」

「随分、お強そうですね」

「弱いから、毎日、稽古をしておる」

「そんな事ありませんわ。わたしにはわかります」

「そなたはこんな山奥で何をしてるんじゃ?」

「わたしは、このすぐ上にあるお寺にいます」

「お寺?」

「はい」

「こんな山の中に寺があるのか?」

「はい。ちょっと変わった和尚さんがおります」

「そうか、知らなかった。その寺で何をしてるんじゃ?」

「夫の供養(くよう)です」

「亡くなられたのか?」

「はい。誰かに斬られて殺されました」

「斬られた?」

「夫は剣術使いでした。試合をして負けてしまったのです」

「試合に負けて死んだのか‥‥‥」

「旅の途中で負けてしまったんです」

「そうか‥‥‥」

「あの、お侍さんわたしを助けて下さいませんか?」

「助けるとは?」

「夫の(かたき)討ちです」

「相手がわかんのじゃろう」

「縁があれば、きっと会えると思います」

「成程」

「その時は、わたしを助けて下さい。お願いします」

「よかろう。縁があったら、お助けしよう」

「助かりました。お侍さんが付いていて下さったら、もう百人力です」

「それでは失礼」と五郎右衛門は言って、去ろうとした。

「ちょっと、待って下さい。わたしは鶴といいます。お侍さんのお名前は?」

「針ケ谷五郎右衛門と申す」

「ハリガヤゴロウエモン‥‥‥珍しいお名前ですね‥‥‥また、ここに来てもよろしいでしょうか?」

「ご勝手に」

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。

 お鶴という女はしばらく、五郎右衛門を見ていたが帰って行った。




剣の精神誌 無住心剣術の系譜と思想



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