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和尚の言われるままに、五郎右衛門はさっそく座禅を始めた。 新陰流を忘れろ‥‥‥ 新陰流を忘れろという事は、剣術を忘れろという事か? 剣術を忘れろという事は、刀を捨てろという事か? 刀を捨てろという事は、お鶴に斬られろという事か? お鶴に斬られるという事は、死ねという事か? 死ぬという事は生きるなって言う事か? 生きるなっていう事は‥‥‥ お鶴は今、何してるんじゃろ? 痛い、痛いと泣いているのか? いや、あの女が泣くわけがない‥‥‥ いかん! お鶴は関係ない。 新陰流を忘れろ‥‥‥ わしは一体、何のために剣術をやって来たんじゃ? 剣によって両親は殺された。 わしは仇を討つために剣術を習った。 多分、あの時のくだらん足軽は戦で死んだ事じゃろう。 徳川家康も死んだ。 わしは剣で人を殺して来た。 自分が強くなるために、わしは人を殺して来た。 お鶴の亭主も殺した。 お鶴のように後家になった女も何人もいるじゃろう。 あの時の子供もそうじゃ。まるで、昔のわしそっくりじゃ。わしのように剣術の修行を積み、わしを仇と狙うじゃろう。他にもそんな子供がいるに違いない。 なぜ、こうなるんじゃ? 剣というのは所詮、人殺しの道具に過ぎんのか? わしの親が剣によって殺される。 そして、今度はわしが誰かの親を剣によって殺す。 そして、次は、わしが誰かに剣によって殺される。 この繰り返しじゃ。 ぐるぐる同じ事が繰り返される。 剣を捨てたからといって解決するもんじゃない。 今、わしが剣を捨てたら、お鶴が喜んで、わしを斬るじゃろう。 お鶴‥‥‥ いかん! また、お鶴じゃ。お鶴は関係ない。 新陰流を忘れろ‥‥‥ あのくそ坊主め、わからん事を言いやがって‥‥‥ 弱い者には勝ち、強い者には負け、互角の者とやれば相打ち‥‥‥ 当たり前じゃろ、そんな事。 畜生! わからん‥‥‥ 木剣振るべからず、座禅すべし。飯食うべからず、座禅すべし。眠るべからず、座禅すべし‥‥‥ あのくそ坊主め、座ってたからといって、わかるわけねえじゃろう。 しかし、なぜ、わしはあの坊主を打つ事ができなかったんじゃ? わからん‥‥‥不思議じゃ‥‥‥ もしかしたら、あの坊主、天狗か何かか? 昔、義経が鞍馬山で天狗に剣術を習ったとか聞いた事はあるが‥‥‥ 新陰流‥‥‥ 新陰流‥‥‥ 師匠は今頃、どうしてなさるか? もう年じゃからな‥‥‥ 兄弟子の神谷さんはどうしてるじゃろ‥‥‥ 神谷さんちの腕白坊主も、もう大きくなってるじゃろうな‥‥‥ お雪ちゃんも、もう嫁に行ったじゃろうな‥‥‥ 松田、野口、中川、岡田、竹内、柏木、みんな、元気でやってるかのう‥‥‥ 江戸か‥‥‥ 久し振りに帰りたくなったのう‥‥‥ 新陰流とは? 「五エ門さ〜ん、元気?」とお鶴の声がした。 五郎右衛門は目を開けた。 もう、日が暮れかかっていた。 お鶴が和尚の杖を突きながら、一升どっくりを抱いて、片足を引きずるようにして、こちらに向かって来た。 五郎右衛門の顔を見るとニコッと笑って、「また、来ちゃった」と言った。 「どうしたんじゃ? その足」 「何でもないのよ。ちょっとした筋肉痛。昨日、ちょっと、はしゃぎ過ぎた罰よ」 「何も、そんな足で無理して来なくてもいいじゃろ」 「何よ、和尚さんに聞いたわよ。あたしが来ないので、あなたがしょんぼりしてるって」 「あの坊主、そんな事、言ったのか?」 「そうよ。だから、わざわざ、来てあげたんじゃない。それにさ、あたしもにっくきあなたの顔を見ないと落ち着かないしね」 「その足で、わしを斬るつもりか?」 「そうよ。隙を見つけたら斬るわよ。覚悟してらっしゃい」 「相変わらず元気じゃな」 「さてと、憎き仇のために飯でも作ってやるか」 「今日はいい」 「えっ? あたしの作ったご飯は食べられないっていうの?」 「そうじゃない。あのくそ坊主に言われたんじゃ。座禅しろってな。剣も振るな、飯も食うな、夜も眠るな。そして、座禅をしろってな」 「へえ、あんな和尚の言いなりになるの?」 「別に言いなりになるわけじゃないが、今まで通り、毎日、剣を振ってても何も解決しなかったんでな、ちょっと、やり方を変えてみようと思ったんじゃ」 「それじゃあ、当分、ご飯、食べないの?」 「ああ」 「夜も寝ないの?」 「ああ」 「体、壊したらどうするの?」 「そしたら、お前がわしが斬ってくれ」 「そうか、それはいい考えよ。早く、倒れてね」 「残念じゃが、そう簡単には倒れん」 「まあ、頑張ってね。あたし、お酒、持って来たんだけど、これも飲めないわけね?」 「ああ。持って帰ってくれ」 「そうはいかないわ。せっかく苦労して持って来たんだもん。あたし、一人でも飲むわ」 「勝手にしろ」 「ええ。あなたはずっと座ってればいいのよ。あたしはご飯食べて、お酒飲んで、ゆっくりと寝るわ」
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五郎右衛門は座っていた。 お鶴は飯を作って、五郎右衛門に見せびらかしながら一人で食べた。 「ああ、おいしかった。あなた、ほんとに食べないの?」 五郎右衛門は目をつぶって黙っていたが、腹の虫は騒いでいた。 「さてと、お酒でも飲もうかな」 「飯を食おうと酒を飲もうと構わんがのう、少し、静かにしてくれんか」 「あら、気が散るの? 修行がなってないわ。あたし、あなたの修行のお手伝いしてやってるのよ、わかる? 静かな所で座ってたって、何の修行にもならないわ。こんな山の中にいれば自然と心は落ち着いて来るものよ。でも、山から下りて町の中に戻ったら、また、心は乱れて、もとに戻っちゃうのよ。お寺の中にいるお坊さんが悟ったような顔をしていても、お寺から一歩出たら普通の人に戻っちゃうのと同じよ。そんなの悟りでも何でもないじゃない。本物の悟りっていうのは『真珠』みたいなものでしょ。本物の『真珠』っていうのは、どんなに汚れたドブ川に落ちたって、決して、汚れに染まったりしないで綺麗なままなのよ。あなたもそういう境地まで行かなきゃダメよ。わかる? あたしがそばで騒いでても全然、気にしない。うまそうな匂いがしても全然、気にしない。そばで、あたしがうまそうにお酒を飲んでても全然、気にしない。しかもよ、あなたのすぐ目の前に、すごくいい女がいても全然、気にしない。その位にならなきゃダメよ」 「うるさい!」 「ダメね。あなたはすごくいい環境の中で修行できるんだから、あたしに感謝しなけりゃダメなのよ。ねえ、一緒にお酒飲みましょ。おいしいわよ‥‥‥ねえったら‥‥‥ 五郎右衛門は目を開ける。 「飲む気になったのね?」 「小便じゃ」と五郎右衛門は外に行く。 「あら、おしっこもしないんじゃなかったの?」 「馬鹿者、垂れ流しなんかできるか」 「そんな中途半端な修行なんか、やめちゃいなさいよ」 「うるさい!」 五郎右衛門は帰って来ると、また座った。 「また、座るの? よく飽きないわね。一体、目なんかつぶって、何考えてるの? あたしの事でしょ。ね、違う? ああ、つまんないの」 お鶴は五郎右衛門を見つめたまま、しばらく、音も立てずに黙っていた。 五郎右衛門はお鶴の気配が消えたので、気になって目を少し開けてみた。 「やった。やった」とお鶴は喜んだ。「やっぱり、あたしの事が気になるんでしょ。あたし、賭けてたのよ、あなたが目を開けるかって。もし、目を開けなかったら、あたし、泣いちゃったわよ。あたしって、そんなに魅力がないのかしらって。でも、よかった。やっぱり、あなた、あたしの事、好きなんだわ」 「うるさい!」と言うと五郎右衛門は目を閉じた。 「頑固ね、まったく‥‥‥そうだわ、ねえ、あなた、こういうの知ってる? 今日ね、あたし、剣術の事、調べたのよ。お寺にね、剣術の本があったの。和尚さんに読んでもらってね。あたし、ちょっと写して来たのよ。いい、読むわね? 初めは我が心にて迷うものなり。 われと我が心の月をくもらせて、よその光を求めぬるかな。 人の心を知る分別、第一なり。 善も友、悪も友の鏡なる、見るに心の月をみがけば。 やめる、捨てる、分けるも一つにも心次第なり。 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」 「待て! もう一度、心のっていう所から言ってくれ」 「いいわ。心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし。よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ」 「いいぞ、続けてくれ」 「 解きもせず、言いも得ざりし所をも、知りぬ物ぞと知るぞ知るなれ。 いつも、敵を見下したる心持ちよし。 引き上げて、 敵の動きの未だ無の前以前に、先に進む志し、少しにてもあれば、場より内へは 止まるにも進む志しあれば、おのずから映るなり。 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。 どう? 何か、ためになった?」 「ああ‥‥‥そいつは新陰流じゃないのか?」 「うん、そうみたい。 「俺にもわからん」
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