酔雲庵


酔中花

井野酔雲





15




 五郎右衛門は一睡もせずに座り続けた。

 お鶴は持って来た酒を一人で全部、飲みほすと、朝までぐっすりと眠った。

 目を覚ますと、座り込んでいる五郎右衛門に向かって、「お馬鹿さん、おはよう」と言い、彼が返事もしないでいると、「何だ、修行だなんて言って、座ったまま寝てるんじゃない」と五郎右衛門の鼻先を突っついた。

「うるさい!」と五郎右衛門は怒鳴った。

「あら、起きてたの? 御苦労様。それで、何か悟れた?」

 五郎右衛門は返事をしない。

「さてと、朝飯前に水でも浴びよう。あなたも水浴びしない? 気持ちいいわよ」とお鶴は出て行った。

 五郎右衛門は疲れていた。

 昨夜、お鶴が騒いでいた時は何も考える事ができなかったが、お鶴が寝てから、ずっと、考え続けていた。

 新陰流を忘れ去るとは‥‥‥

 心の止まり居着く所あるうちは進む志しはなし‥‥‥

 心の止まり居着く所とは? 新陰流の事か‥‥‥

 よしあしと思う心を打ち捨てて、何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 よしあしと思う心とは? 新陰流の事か‥‥‥

 何事もなき身となりてみよ‥‥‥

 しかし、今は考える事に、そして、座っている事に疲れ果て、頭の中は空っぽになっていた。ただ、『わからん』という言葉だけが頭の中をグルグル回っていた。

 お鶴は水浴びから帰って来なかった。そのまま、寺に帰ったのだろう。

 不思議な女じゃ‥‥‥あの女、変な事を言ってたな。わしがもし、お鶴に夢中になっていたら、刃物など向けなかっただろうと‥‥‥

 昔、馬術をやっていた時、『鞍上に人なく、鞍下に馬なし』というのを聞いた事があるが、さしずめ、『男の下に女なく、女の上に男なし』か‥‥‥

 くだらん。わしは何を考えてるんじゃ。

 剣とは?

 五郎右衛門は座り続けた。

 昼頃、和尚がやって来た。

「おっ、やってるな。どうじゃ、何かわかったか?」

「わからん」

「そうじゃろ、わかるわけない。目を開けて回りをよく見てみろ。暗い、暗い、おぬしだけが暗いわ」

「何じゃと!」

「喝! そんな抜けがら座禅などやってどうする、やめろ、やめろ」

「和尚が座れと言ったんじゃろう」

「ハッハッハッ、暗い、暗い」と笑いながら和尚は帰って行った。

「くそ坊主め! 目を開けて回りを見ろじゃと‥‥‥回りを見たって何も変わっちゃいねえじゃねえか。回りを見ただけで悟れりゃ、こんな苦労するか」

 五郎右衛門は座り続けた。しかし、今度は目を大きく開けて風景を睨んでいる。

 和尚が帰ってから、しばらくすると、お鶴がやって来た。

「あら、今度は目を開けて座ってんの? その方がいいわ。ねえ、さっき和尚さんが来たでしょ。何か言ってた?」

「ああ、今度は座禅なんかやめろじゃと」

「ふうん‥‥‥」

「昨日は何もしないで座ってろと言ったくせに、今日は抜けがら座禅なんかやめろと言いやがった」

「ハハハ、あなた、和尚さんに遊ばれてんのよ」

「何じゃと!」

「怒っちゃダメよ。怒ったら、和尚さんの思う壷よ。心を落ち着けて静かに座ってるの。ね、わかった?」

「わからん」

「それで、今日もずっと座ってるつもりなの?」

「ああ」

「つまんない。せっかく遊びに来たのに」

「わしがどうして、お前と遊ばなけりゃならんのじゃ。ガキじゃあるまいし」

「五エ門ちゃん、遊ぼ」

「うるさい」

「あたし、泣いちゃうから」

「勝手に泣け」

「そうだ、睨めっこしましょ」とお鶴は五郎右衛門の前にしゃがみ込んで、色々な顔をしてみせて、五郎右衛門を笑わせようとする。

 五郎右衛門は無視しようと頑張るが思わず笑ってしまう。

「やったあ、笑った」とお鶴は子供のようにはしゃいだ。

「お前は幸せじゃのう」と五郎右衛門はお鶴の無邪気さに呆れている。

「そうよ。今のあたし、一番幸せ」

「わしらは仇同士じゃなかったのか?」

「そうよ。死んだ夫のお陰で、あたしたち会う事ができたのよ。もし、あなたが夫を斬ってくれなかったら、あたしたち、きっと、会えなかったと思うわ。だから、あたし、毎日、夫の位牌に感謝してるの」

「そんな事してたら、今にお前の亭主が化けて出るぞ」

「大丈夫よ。死んだら、みんな仏様になるのよ。仏様っていうのは広い大きな心を持ってるの。女の可愛い我がままなんて笑って許しちゃうわ」

「お前は、ほんとに幸せもんじゃよ」

「女っていうのはね、幸せにならなきゃダメなのよ。どんなに苦しい目に会っても、辛い目に会っても、悲しい目に会っても、あたしは幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだ、幸せなんだって思うの‥‥‥そしたら、きっと、いい事があるわ‥‥‥」

「お前もわりと苦労したみたいじゃな」

「ううん、あたし、苦労は嫌いよ」とお鶴は笑ったが、目がいくらか、潤んでいた。

「馬鹿ね、あたし」とお鶴は後ろを向いて目を拭いた。

「さっきの和尚さんの話だけどね、あたしの場合とあなたの場合は違うかもしれないけど、あたしもあの和尚さんに座禅を教えてって言った事があるの。そしたら、和尚さん、教えてくれないのよ。女がそんなもの、する必要ない。女には女の仕事があるじゃろう。飯を炊いたり、掃除をしたり、洗濯をしたり、針仕事をしたり、これ、すべて禅じゃ。それらの仕事をすべて真剣にやってれば、座禅と同じ境地になる。日常生活すべて、その気持ちで過ごせば、それでいいんじゃ。馬鹿どもは座禅をする事が禅だと思ってるが、座ってる時、いくら静かな境地にいたとしても、座禅をやめたら、すぐ、そんな境地はどっかに飛んで行ってしまう。そういうのを抜けがら座禅て言うんだって」

「抜けがら座禅か‥‥‥あの、くそ坊主め!」

「ねえ、見て。変わった鳥が飛んで来たわ。綺麗ね」

「お鶴さん、酒はあるか?」

「えっ、お酒飲むの?」

「今晩、一緒に飲もう」

「ほんと? もう座るのやめたの?」

「ああ、抜けがら座禅は終わりじゃ」

「やった! そうじゃなきゃ、あたしの五エ門さんじゃないわ。お寺から、いっぱい持って来るわ」

 五郎右衛門はまた木剣を振り始めた。

 よくわからないが何か一つ、ふっ切れたような気がした。

 木剣が今まで以上にうまく使えるようになったような気がした。

 新陰流の形はやらなかった。

 何となく、木剣を手にしただけでも嬉しくなり、ただ、上から下に振り下ろすだけの素振りを何回もやり、一汗かいた後、今までの心と体の汚れをすべて洗い落とすかのように滝に打たれた。




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16




「昔々‥‥‥」とお鶴は酔いにまかせて話を始めた。「ある所に可愛い女の子がいました」

「ほう、どのくらい可愛いんだ?」

「ちょっと、やめて。あたし、真剣なんだから‥‥‥その女の子はね、両親に先立たれて親戚に預けられました。その親戚の人たちは悪い人たちで、その女の子を人買いに売ってしまいました。でもね、仕方がなかったのよ。生活が苦しくてね、その子を売るしかなかったの。親戚のおば様は何度も何度も、女の子に謝っていたわ‥‥‥女の子はお女郎屋に連れて行かれて、毎日、毎日、こき使われました。まだ、つぼみのうちからお客さんを取らされて、毎日、毎日、泣いていました。ある日、女の子は恋をしました。初恋ね。そして、女の子はその男の子と一緒に逃げました。二人共、まだ子供よ。すぐ、お金に困ったわ。どうする事もできない。女の子は男の子のために、自分からお女郎屋に身を売ったわ。男の子はきっと迎えに来ると言ったまま、二度と女の子の前には現れなかった‥‥‥女の子はきっと来てくれると信じ込んで、辛い毎日を耐えていました。その女の子は器量がよかったので、今度は、お侍の側妻(そばめ)として買われて行きました。そのお侍のお屋敷はとても広くて、女の子のように買われて来た側妻が五人もいたわ。女の子はお女郎の時に比べれば、身なりもいいし、おいしい物が食べられたけど、夢もなく、毎日を過ごして行きました。何の変哲もないぬるま湯のような日々が半年近く続きました。ある日、五人の若いお侍たちが、そのお屋敷に訪ねて来たのよ。そのお屋敷の主人はお殿様から、その五人を密かに毒殺せよと命じられていました。女の子はふとした事から、その事を知ってしまいます。知ったからといって、女の子にはどうする事もできませんでした。お酒のお酌をするために、女の子も他の側妻たちと一緒に、お客様の前に呼ばれました。女の子は命じられたまま、お客様に毒入りのお酒をお酌しようとしました。ところが、なぜか、目の前に座っているお侍さんの顔を見て、この人を殺してはいけないと思いました。そして、それとなく、お酒に毒が入っている事を教えました。でも、そのお侍さんはお客として、出されたお酒を飲まないわけにもいかず、一杯めは飲んでしまいました。しかし、それ以上は飲みませんでした。お陰で、そのお侍さんだけは何とか死なずに済みました。女の子はこの事がばれたら殺されると思い、夜になるとこっそり、そのお屋敷を逃げ出しました。しかし、すぐに捕まってしまい、さんざ痛め付けられたうえ、川に捨てられました‥‥‥もう、やめましょ。こんな話、つまんないわ」

「いや、わしは聞きたい。それから、その女の子はどうなったんじゃ?」

「悪運が強いのよ。女の子は助かったわ。まだ、若い夫婦だったけど、二人は女の子の面倒をよく見てくれたわ。女の子は元気になったの。でもね、女の子は何もしてないのに、そこのおかみさんが嫉妬して、また売られちゃったのよ。また、お女郎に逆戻り、毎日毎日、違う男に抱かれて‥‥‥夢も希望もない生活。一度、この世界に入ってしまったら、もう泥沼のように抜け出せないの、もう‥‥‥可哀想ね‥‥‥でも、どこにでもあるお話だわ‥‥‥お女郎屋からお女郎屋へと流れ流れて‥‥‥」

「どうしたんじゃ? それで終わりか?」

「ここで終わっちゃったら、女の子が可哀想すぎるよ。ちゃんと幸せになるのよ。ある日、突然、その女の子の前に、毒を飲まずに助かったお侍さんの使いの者が迎えに来るの。まるで、夢みたいだったわ。やっと泥沼から抜け出せる。しかも、あの人のもとへ行ける‥‥‥女の子は泣いたわ。嬉しくて、嬉しくて、泣いたの‥‥‥女の子はそのお侍さんの奥さんになりました。幸せな毎日が続きました。夢のような毎日でした‥‥‥しかし、その幸せも一年と長続きしませんでした。夫は剣の試合をして死にました。女の子は仇を討つために旅に出ました。これで、おしまい‥‥‥つまんない話をしちゃったわね」

「そんな事はない。いい話じゃった‥‥‥それで、その女の子は仇は討てたのか?」

「ええ‥‥‥うまく討てたわ」

「そうか‥‥‥そいつはよかった」

「なんか、湿っぽくなっちゃったわね」

「‥‥‥」

「空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり〜」

「いい唄じゃな」

「つまらない唄よ‥‥‥もっと、陽気な唄を歌いましょ、ね」

 お鶴はわけのわからない聞いた事もないような唄を陽気に歌い始めた。

 五郎右衛門はわざと陽気に騒いでいるお鶴を眺めていた。





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