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五郎右衛門は朝から木剣を振り続けていた。 昼頃、和尚がのっそりと現れた。 「おっ、また棒振り禅を始めたな」 「和尚、教えてくれ。新陰流を忘れろとは、どういう事なんじゃ?」 「まだ、そんな事、言っとるのか?」 「わしにはわからん」 「それじゃよ。その構えをやめる事じゃ」 「構えをやめる?」 「そうじゃ。いちいち構えるな。構えあって構えなしじゃ。行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。喝!」 それだけ言うと和尚は帰って行った。 五郎右衛門は木剣を持ったまま、たたずんでいた。 「行くな‥‥‥戻るな‥‥‥たたずむな‥‥‥立つな‥‥‥座るな‥‥‥知るも知らぬも‥‥‥何じゃ、こりゃ?‥‥‥構えあって構えなしじゃと‥‥‥くそ坊主め、わけのわからん言葉を並べやがって‥‥‥くそったれ!」 五郎右衛門は立ち木を思い切り木剣で殴った。 休まず、殴り続けた。 頭の中にかかっている靄をすべて、叩き出してやろうと五郎右衛門は立ち木を打ち続けた。 日暮れ前、お鶴が酒をぶら下げてやって来た時、五郎右衛門は立ち木の側に倒れていた。 「ちょっと、五エ門さん、そんな所で寝てると風邪ひくわよ」 お鶴は五郎右衛門を揺すり起こそうとしたが無駄だった。 「どうしたんだろ? 死んじゃったのかしら?」 お鶴は小川から水を汲んで来て、五郎右衛門の顔をめがけて、思いきりぶっ掛けた。 ウーンと唸ると五郎右衛門は気がついた。 「五エ門さん、ダメよ。あたしに内緒で死んじゃ」 五郎右衛門は立ち上がる木剣を拾い、素早く一振りした。 「違う‥‥‥」 「どうしたの?」 「倒れる前、何かがわかりかけたんじゃ‥‥‥何かが‥‥‥」 「そう、もうすぐだわね」 次の日も、吹雪の中、五郎右衛門は倒れるまで立ち木を打っていた。 そして、お鶴が水を掛けると目を覚ました。
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珍しく、お鶴は昼前にやって来た。 五郎右衛門は立ち木を相手に木剣を振っていた。 「今日はこれまで」とお鶴は五郎右衛門の前に立ち、とっくりを見せた。 「毎日、同じ事ばかりやってても、つまんないでしょ。今日はちょっと気分転換しましょ」 「昼間から酒を飲むのか?」 「そう。お花の下でお酒を飲みましょ。今、桜が満開なのよ」 「馬鹿言うな。桜なんか今頃、咲いているか」 「山の中だから遅いのよ。今、丁度、満開なんだってさ」 「花見なぞに興味ないわ」 「そう言うと思ったわ。でもね、陰流の流祖で 「ああ、知ってる。 「その移香斎って人が悟りを開いたっていう洞穴が、その桜の木の側にあるんですって」 「嘘つくな。移香斎殿が悟ったのは 「あたし、そんなの知らないわよ。でも、このお山にもあるんだって、和尚さんが言ったのよ」 「あの和尚の言う事は当てにならん」 「行ってみなけりゃわからないわ。ねえ、行きましょ。たまには剣の事を忘れてみるのもいいわよ。『何事もなき身となりてみよ』っていうでしょ。ねえ、行きましょうよ。お弁当もお酒も用意して来たのよ」 お鶴に誘われるまま、五郎右衛門は出掛ける事にした。ここらで気分転換してみるのもいいだろうと思った。 五郎右衛門は今、分厚い壁にぶち当たっている。正攻法でいくら攻めても壊れそうもない。この辺でちょいと 不思議な事に、お鶴の言った通り、桜は満開だった。 「あたし、初めてよ。桜の花の満開の下でお酒を飲むの。あたし、一度、やってみたかったのよ。好きな人と二人っきりでさ」 「わしも初めてじゃ。何だかんだと忙しくて、のんびりと桜の花など見た事もなかったわ。実に見事なもんじゃのう」 「はい、どうぞ」とお鶴は五郎右衛門の 「まさか、毒は入ってないじゃろうな」 「さあ、どうだか‥‥‥入ってるかもしれないわね。何しろ、あなたはあたしの仇なんだから。飲んでみる?」 「死んだら、わしの供養をしてくれ」 「任せといて」 五郎右衛門は酒盃をあけた。 「うまい」 「フフフ、飲んだわね。あなたはもうすぐ死ぬわ。今度はあたしにお酌して」 二人の酒盛りが始まった。 「松により散らぬ心を山桜、咲きなば花の思い知らなむ〜」 「何じゃ、そりゃ?」 「 「今はどうなんじゃ?」 「今は好きよ。こんな綺麗な花はないわ。パッと咲いて、パッと散る‥‥‥それが一番いいのよ。さあ、じゃんじゃん飲みましょ。はい、五エ門さん」 「かたじけない」 「なに、他人行儀な事、言ってんのよ。あたしたちは普通の仲じゃないのよ」 「どんな仲じゃ?」 「やだ、すぐ忘れるんだから、仇同士じゃない」 「仇同士っていうのは、こんなに親しい仲なのか?」 「そうよ。憎さあまって愛しさ百倍って、昔からよく言うじゃない。あたし、もう、あなたの事が憎くって憎くってしょうがないんだから。あなたはどう? あたしの事、憎い?」 「ああ、憎いのう」 「まあ、憎らしい。いいわ、あたし、あなたのために踊ってあげる」 お鶴は満開の桜の下で、鶴のように舞い始めた。
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