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五郎右衛門が木剣を構えて、空を睨んでいると、「五エ門さ〜ん」とお鶴が帰って来た。 風呂敷包みと酒を抱えながら、川の中を歩いて来る。 「走ってきたら疲れちゃった」とお鶴は笑った。 「何じゃ、それは?」 「あたしの所帯道具よ。あたしが寝ていた時、色々とお世話になったからさ。あたし、そういうのに弱いでしょ。だから、今度はあたしがあなたのお世話をするの。押しかけ女房よ。嬉しい?」 「その酒は嬉しいがの、お前はうるさいからいい」 「言ったわね。嫌いよ、あんたなんか! あたし、もう帰る!」とお鶴はプイと膨れて、岩屋の中に入って行った。 五郎右衛門はお鶴の後姿を見ながら笑うと、また、木剣を構えた。 「ねえ、この中、お掃除するわよ」と岩屋の中からお鶴が言った。
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掃除が終わるとお鶴は洗濯を始めた。わけのわからない歌を陽気に歌っている。 五郎右衛門は木剣を構えたまま、そんなお鶴を見ていた。 ‥‥‥あの女はこだわりがちっともないからの。その時、その時の気分次第で生きている。 あの女は禅そのものじゃよ。禅が着物を着て歩いているようなもんじゃな‥‥‥ 活人剣‥‥‥人を活かす剣とは? 眠り猫か‥‥‥ わからん‥‥‥ 五郎右衛門は木剣を下ろし、お鶴の方に行った。 お鶴は歌を歌いながら洗濯に熱中していた。五郎右衛門が後ろに立っても気がつかない。 お鶴の洗濯している姿を見て、五郎右衛門は隙がないと思った。 試しに木剣を構えてみた。 彼女を斬ろうと思えば、簡単に斬る事はできるじゃろう。 しかし、今のわしは彼女を斬る事はできない。 当たり前じゃ。 相手は女だし、丸腰じゃ。 しかも、何の敵意も持っていない。 そんな相手を斬れるわけがない。 もし、お鶴がここで、わしの存在に気づいて振り向き、わしを見て、恐れを感じたら、そこに隙が生じる‥‥‥ 「お鶴」と五郎右衛門は呼んでみた。 お鶴は歌をやめ、後ろを振り返った。 「びっくりしたあ。何やってんの?」 「お前を相手に剣術の稽古じゃ」 「今はダメよ、忙しいんだから。それより、あなた、お魚を捕ってよ。いっぱい泳いでるわ。今晩のおかずにしましょうよ」 お鶴はまた、洗濯を始めた。 五郎右衛門は木剣を下ろした。 わしがこんな事やったって、お鶴が驚くわけないか。 もし、わしじゃなくて、知らない男だったら、どんな反応するんじゃろうか? 逃げようとするか? 攻撃しようとするか? 何もしないで洗濯を続けるか? 逃げようとすれば斬られる。 攻撃しようとしても斬られる。 何もしないで洗濯をしていても‥‥‥やはり、斬られるか‥‥‥ 「お鶴、お前が歌ってるのは何の唄じゃ?」 五郎右衛門は洗濯しているお鶴の背中に声を掛けた。 「いい歌でしょ? 今、流行ってるのよ」 「流行り唄か‥‥‥聞いた事もないな」 「あなたは遅れてるのよ」 「確かに、わしは遅れているが‥‥‥随分、調子のいい唄だな」 「百恵ちゃんの歌よ」 「百恵ちゃん?」 「うん。今、一番、流行ってんだから」 「お前はよく、そんな唄、知ってるな」 「これでも、あたしは芸人だったのよ。流行り歌なら何でも知ってるわ。今晩、聞かせてあげるわね。あなたも歌の一つくらい覚えた方がいいわよ。最近ね、江戸に吉原っていう大きな花街ができたんですって。そこに行った時、歌の一つも歌えなかったら、みんなから笑われちゃうわ。せっかく、いい男なんだから、歌くらいできなくちゃ。あたしが教えてあげるわ」 「唄なんかいい」 「ダメ。剣ばかりやっててもダメ。もっと、心に余裕を持たなくちゃ。うん、そうだわ、歌が一番いいわ。たとえばね、あなたが誰かに喧嘩を売られたとするでしょ。相手は刀を抜くわね。その時、あなた、陽気に歌を歌うのよ。そうすれば、相手だってさ、喧嘩する気なんかなくなっちゃうじゃない」 「それじゃあ、わしが馬鹿じゃねえか」 「馬鹿だっていいじゃない。喧嘩をすれば、あなたは相手を斬っちゃうでしょ。相手は痛い思いをするし、あなただって嫌な気分になるでしょ。それが、あなたが馬鹿になるだけで、その場が丸く治まるのよ。ね、それよ、それが一番いいわ。ね、そうでしょ?」 「そうじゃな、しかし‥‥‥」 「しかしじゃないの。あなたは強いんだから、一々、それを見せびらかす必要はないのよ。ね、馬鹿になりましょ。それに決まりよ‥‥‥さて、洗濯も終わったわ。あたし、ご飯の支度をするから、あなた、お魚、お願いね」
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