沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




『新聞記者が語り継ぐ戦争13 南の碑(読売新聞社)』より






島田知事の事



  • 島田叡(アキラ)は沖縄戦直前。大阪府の内政部長から、なり手のない最後の沖縄県知事に赴任し、43歳で摩文仁の丘に散った。今も『島守の神』と尊崇されている。
  • 昭和19年7月6日、サイパンが玉砕すると、翌7日、政府は緊急閣議で沖縄を第一戦場に指定、参謀本部の要請もあって、16歳以上59歳までの男子を除く老幼婦女子の本土へ8万人、台湾へ2万人、計10万人引き上げさせる命令を出す。
    また、大本営はこれより先、3月に沖縄守備の第32軍を創設しているが、初代軍司令官が戦局の容易でないことを強調するあまり、玉砕をほのめかした演説をして県民を動揺させると、8月、陸軍士官学校長の牛島満中将を後任に据え、決戦態勢を固めた。
    ところが、この緊迫した動きをよそに、十万人疎開は遅々として進まなかった。県知事周辺の人達は俄に迫った沖縄の危機に狼狽し、安全地帯へ脱出したいと願っていた。名分を立てて転勤運動するには沖縄の情勢が今しばらく平静でなければならなかった。そこで県民の安全は二の次にして、物騒騒然となる動きをぶち壊したという。
    十・十空襲で知事、内務部長らは戦災を免れた県庁舎で働いている警察部、経済部を放って安全な中部・普天間にある県中頭地方事務所に避難したまま帰らず、県民の間に知事頼むに足らず、県庁はあってないに等しい、の避難が巻き起こった。見かねた内務省、九州地方行政協議会は知事に県庁への復帰を勧告、11月の初め、やっと庁舎に戻った。
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    24日、公用の名目で知事は空路上京、そのまま島田叡と同日付けの異動で他県の知事に転じた。沖縄の人々は怒るよりもむしろホッとして、県民を率いてくれる知事の着任を待った。
  • 那覇市松山町の知事官舎は十・十空襲の爆風で傾き、荒れていたので知事は県立二中(現那覇高校)前の真栄城守行食糧営団理事長宅を仮官舎にした。城岳という小高い山の隣にあり、城岳には県庁職員用の大きな横穴式防空壕があった。
  • 島田知事は平時不急の事務を止めさせ、緊急事務を強化するための大機構改革し、内政、経済部職員の多くを県外、北部地区への疎開業務と食糧関係業務に配置換えする。また、地方教職員の一部は疎開の第一線勤務に配置する。住民の安全をはかる疎開を推し進めるために地元民に馴染みの深い教育者の説得力に期待をかけた。
  • 昭和20年2月7日、第32軍参謀長の長勇少将が島田知事を県庁に訪ね、住民の食糧6か月分の確保と進行中の本土への老幼婦女子の疎開とあわせて北部山岳地帯へも緊急退避を即時行ってほしいと申し入れる。
  • 2月10日、島田知事は緊急市町村会議を焼け残った県立二中校舎に招集、自ら議長を務め議事をてきぱきと進めた。
  • 当時の沖縄は官尊民卑の風潮が強く残っていて、勅任官の知事と言えば天皇陛下も同然だった。知事が村に来れば住民は詰め掛けた。島田知事は村々を回って、住民に退避の重要性を解いて回った。島田知事の話はわかりやすく気軽だったので、住民たちは一遍に好きになった。予定外の民家にも立ち寄り、あまりの気安さに知事とは知らず、後からわかってびっくり仰天なんて事がしょっちゅうあった。ある集落の事務所を予告なしに訪れた時には感激した村民が泡盛を御馳走し、知事と農夫が車座になって酒盛りになったこともあった。
  • 防衛軍が駐屯してからというもの、住民は火事働きの毎日だった。焼け付くような太陽のもとで陣地構築、食糧増産に必死に働き続けていた。夜も昼もなく、雨の日も嵐の夜もなかった。ただ一念、祖国勝利への努力だけであった。
  • 島田知事は酒豪で酔うと裸踊りをした。飲む時は我を忘れて徹底して飲めという主義だった。
  • 島田知事は神戸二中、三高で野球をやっていた。
  • 本土出身の内政部長は重大任務と称して東京へ出張、病気療養の名目で帰らず、本土出身の衛生課長は県民疎開船の船倉に潜んで九州へ逃げ内務省から懲戒免職処分を受けた。その他、公用出張中に行方不明になる高等官、県議、校長など、危機が迫るとともに戦線離脱者が相次いだ。去る者は追わず、と知事は彼らの事を一切口にしなかった。
  • 20年3月23日、艦載機グラマン延べ355機の終日にわたる大空襲で沖縄戦の幕を明けた。翌24日、その母艦である米機動部隊が全容を現し、本島南部に百雷一気に轟く艦砲射撃を開始する。25日朝、島田知事は県庁を那覇市の中心から北東へ4キロ、軍司令部がある首里市へ移動すると発表、艦砲射撃が静まる午後6時、部課長約30名に首里城内の旧王家、尚氏宅に集まるように命じた。城岳の県庁の防空壕は海軍の指揮所に提供する事になった。
  • 経済部は首里高女の地下壕に入り、内政部は首里市の南側にある真和志村繁多川、警察部は更にその南側の識名で自然洞窟の拡張作業にかかり、知事と官房は軍司令部に近い与儀病院に入った。だが、米軍は軍司令部の所在を知っており、砲爆撃は苛烈を極めた。豪胆な島田知事もこの頃には、さすがに病院の敷地内にある壕に入ったが、地面を掘り下げ、土をかぶせただけの簡単なものだった。知事がそんな所に入っているのを知った那覇警察署の具志堅宗精署長(後オリオンビール会長、故人)が駆けつけた。署はいち早く繁多川にある頑丈な壕に入っているので、そこへお移りいただきたいと言う。知事は自分たちだけ安全な場所へ退避するのは、と渋っていたが4月1日、やっとミコシをあげた。米軍が中部西海岸に上陸、新たに地上砲火が加わり、陸、海、空が一斉に火を噴き出した日だった。
  • 真和志村繁多川の壕はもともと真和志村役場が家族のために見つけた壕で、警察署が内部を整備するから同居させてくれと頼み、村役場と同居使用となった。島田知事が来られる事となり、4人いた村役場の女子職員の中から矢賀千津子が秘書役に選ばれる。千津子は夫が出征した後、夫の母と3歳の長女を連れ、壕に身を寄せていた。
  • 繁多川の壕は鍾乳石が垂れ下がり、入るのも難しい自然洞窟だったが、非番の署員と村役場の吏員で岩盤を広げる。南から北へ大人が立って入れる長さ16メートルの通路をつけ、その奥に百畳敷きくらいの広間、そこから西へ40メートルの非常口を通した。杭木で支柱を作って、湿気を防ぐ床、天井、壁を張る。一部を中二階にして知事、村長、署長、知事秘書の部屋を作ったが、署の中枢560人と役場の20人が入ると狭く、絶えず拡張工事をしていた。
  • 島田知事は6時頃起き、8時頃朝食、9時頃から首里城地下の軍司令部へ出掛け、夕方5時頃帰る。繁多川と首里は2里くらいの距離で一番砲撃の激しい所だったが、ほとんど毎日欠かさず出掛けて行った。帰りには壕を遮蔽する枝切れを必ず持ち帰った。『命を守ってくれる壕を大切にせな』と常に言っていた。知事は壕の拡張作業には率先して参加した。大きな背をかがめ、分厚くて重そうな眼鏡をずらせながら泥んこになりながら、『壕では運動不足になるから、これは健康のためによい』と言って皆が気を使わないように気を配って働いた。
  • 4月19日からの米軍第一次攻撃は、米軍10軍(琉球作戦派遣軍)司令部が『夕刻までに前進わずか1フィート、1インチごとに重大な損害』と本国に打電した程の激戦だったが、これで日本軍の外郭防衛陣地は首里北方6キロから4.5キロまで押し下げられ、24日、日本軍は首里周辺の非戦闘員に南部への移動を命じた。米軍は翌25日からは第二次総攻撃に入った。この日、島田知事は真和志村繁多川の那覇署の壕から南約1.5キロ同村識名の警察部の壕に移った。自然洞窟を突貫工事で広げていたのが完成したからだった。
  • 4月27日、知事は警察部の壕に米軍未占領の南部地区18市町村長と4警察署長の緊急合同会議を招集、午前8時から午後4時まで戦場施策を話し合う。沖縄県政最後の会議となる。
  • 秘書官の小渡信一(生存)、徳田安全(生存)は島田知事と行動を共にしていた。
  • 島田知事は避難民の安全について現地に頼んだだけでなく、会議直後、警察部による『警察警備隊』、内政、経済部職員による『県後方指導挺身隊』を編成、各課長を隊長とする分遣隊を南部各町村に出し、避難民の誘導に当たらせた。首里周辺の住民は『わが陸・海・空3軍の総攻撃日』と噂された4月29日の天長節が期待はずれに終わると続々と南下を始めた。彼らが頼れるのは挺身隊の指示しかなかった。 
  • 島田知事の意を受けた『県後方指導挺身隊』は那覇市の中心から南東約4キロの豊見城村長堂の壕に本部を置き、南部18町村に10数名づつの分遣隊に派遣した。隊員は町村役場の壕を足場に、空襲がやむ夜間、艦砲射撃、地上砲火を避けながら村内の壕を駆け回った。俄作りの危険な壕には強化を促したり、他への移動を勧めたり、食糧の夜間増産や避難民の受け入れを頼むなど、島田知事の考えはかなり末端まで行き届き、県民の被害を最小限にくい止める努力を続けた。
  • 5月5日の日本軍総攻撃は失敗に終わり、同22日、首里の軍司令部は南部への撤退を決定する。
  • 5月24日、島田知事も識名の警察部壕を出て、南10キロの東風平村志多伯の野戦重砲隊の壕に移る。一行は知事、そのお付きの仲宗根玄広官房主事、小渡信一、徳田安全両秘書官、荒井退造警察部長、そのお付きの仲村兼孝警部補、新垣徳助警部補、当真嗣盛巡査部長という淋しい顔触れだった。道中、家族連れが西へ東へ、文字通り右往左往で逃げ惑っていたが、その人達に『気をつけて行きなさい』と声を掛け、煙草を一本づつ配った。もう、あの頃は煙草がない時分で、皆が喜んだ。『沖縄県知事』の腕章は付けていたが長い壕生活ですっかり汚れていて知事とはわからなかっただろう。
  • やっとたどり着いた志多伯の壕だったが、負傷兵が次々運び込まれて来るため、ここにも居れなくなり、5月27 日、さらに南3キロ、兼城村座波の通称『秋風台の壕』に移る。その日は大雨で全員、泥んこで濡れ鼠となる。
  • 6月3日、米軍に追われるように秋風台から、さらに南へ5キロ、真壁村伊敷(現糸満市)にある通称『轟の壕』へ移る。そこはもう、太平洋に面した本島最南端の断崖まで4キロしかなかった。
  • 沖縄の6月は真夏だが、あの年は豪雨続きだった。知事はいつも黒のサージ地の乙型詰め襟国民服を着ていたが着替えもなく、汗と脂と泥、誇りで黒光りしていた。蚤、虱はわき、愛想の尽きる程の悪臭が鼻をついた。さすがにやつれは隠せなかったが、島田知事は相変わらず元気で快活で落ち着いていた。
  • 6月9日、知事は警察警備隊にも解散を指令する。
  • 6月14日、島田知事は軍司令部と最後の行動を共にしたいと言い、夜明けと共に轟の壕を出て摩文仁に向かう。米軍の艦砲射撃は午前6時に始まるので、それまでに行こうとして間道伝いに行ったが、道中は至る所、電線が垂れ下がり、県民の遺体が累々と横たわっていた。その一体、一体に知事は手を合わせていた。摩文仁では軍司令部と丘を挟んで斜めに背中合わせにある軍医部壕に入った。知事と共に軍医部壕に入ったのは荒井警察部長、仲宗根官房主事、仲村警部補の3人で、送って行った小渡秘書官、徳田秘書官、当真巡査部長は追い返される。
  • 毎日新聞那覇支局長の野村勇三が摩文仁で島田知事と一緒で生存し、『島田さんの想い出』と題する追悼記を書く。
《−私たち報道班員は軍司令部から『沖縄本島を脱出して戦の実相を本土に報告せよ』との命令を受け、6月19日の夜、海上班と陸上班の2班にわかれて脱出をはかった。勿論、各班とも失敗に終わり、助かったのは私一人だった。私が島田さんと最後の別れをしたのは脱出の日の昼だった。その時、島田さんは『しっかり頑張って下さいよ。成功を祈ります』と私の手を堅く握って激励して下さった。私は『知事さんはこれからどうしますか』と聞くと『軍と最後を共にします。見苦しい体を残したくない。遠い海の底へ行きますかな』と笑って答えられた。『これは私の最後に使うんだ』と言って持っておられた薬もあったし、最後の言葉からしても、おそらく島田さんは摩文仁の沖へ出て立派な最後を遂げられたと思う。多数の県民を失った責任を強く感じておられたから、あの場合、到底生きようとはされまいが、まことに惜しい人を失った−》
  • 6月19日、米軍は摩文仁の丘一帯に迫撃砲による猛攻を開始した。この日、第32軍司令部は命令系統を解除する。もはや軍司令官の命令を待つことなく、それぞれの隊長の指揮に依って戦闘すべし。敵前線を突破して、本島北部で抗戦している舞台に合流すべし、というのだが事実上の『軍解体』である。
  • 6月21日、米軍の総攻撃。
  • 6月22日早暁、牛島軍司令官と長参謀長は軍司令部壕で自決。
  • 6月24日か25日の午前0時前、島田知事は荒井警察部長と壕を出る。






瑞泉隊の事



  • 瑞泉隊の母校首里高女は首里の桃原町にあった。石畳の坂道、緑美しい虎頭山に囲まれ、機織り、染色、裁縫、刺繍に力を注ぐ静かな古都の女学校だった。昭和18年に沖縄県立首里高等女学校と改称されるまでは、女子工芸学校で創立は明治30年、明治の末から昭和初めまで首里城内の御殿を校舎として使っていた。
  • 昭和19年、4年生は小禄飛行場の作業に駆り出された。毎朝5時に起きて、首里から小禄まで約7キロの道を歩いて通った。飛行場に着くと休む間もなく土掘り、土運びの作業が始まる。監督の兵隊にこき使われた。トイレの設備もなく奴隷みたいな扱いだった。生理の時など本当に辛く、屈み込んで泣く生徒もいた。女学生としての誇りを持っているだけに、みんな煮え繰り返る思いだったが、お国の為だと感情を抑えに抑えて監督たちの酷使に耐えた。
  • 昭和19年夏の初めから首里高女が軍の被服工場になり、辛い校外作業から解放され、機織り機で軍隊用の蚊帳をどんどん織った。ミシンをずらりと並べて軍服の繕いをしたり、兵隊の死装束を縫ったりした。亡くなった時に着せる白い着物や頭に付ける三角の布。
  • 十・十空襲の後、急速に戦火が迫って来て、沖縄の中学生、女学生は学徒隊として動員される事になる。
  • 首里高女の4年生63名は石部隊(第62師団)の野戦病院に配属される事になり、昭和20年1月25日から学校で軍の教育を受けた。石部隊の飯塚少尉から講義を聞き、包帯の巻き方、人工呼吸、病人の看護法などを教えられた。                                   
  • 昭和20年1月10日、沖縄守備の第32軍司令部が那覇と首里の中間にあった県立蚕種試験場から首里山内の沖縄師範学校と付属国民学校に移る。軍司令部は両校すぐ近くの地下1535メートルに総延長約1キロの坑道を持つ戦闘指令所を作るが、3月中旬、この洞窟の完成と共に司令部もここに移転、首里はいよいよ沖縄の中核陣地となる。首里高女の学舎はこの軍司令部から北へ約800メートルしか離れていなかった。
  • 3月になると金城直吉先生と大庭由紀子先生に引率され、赤田町の山城病院で合宿訓練に入る。起床ラッパで起き、整列して点呼、報告、軍人勅諭の暗誦と軍隊の一員として厳しく鍛えられた。そして実習、初めて盲腸の手術を見せられた時は次々に貧血をおこしてバタバタと倒れた。一番辛かったのは不寝番だった。
  • 石部隊には第二中学の男子生徒も所属していた。
  • 3月23日早朝から米軍の艦載機による大空襲が始まり、25日からは本島周辺を取り巻いた艦船から艦砲射撃が加わった。26日には米砲兵隊の一部が那覇港沖合約10キロにある無人島、神山島(俗称チービシ)に上陸、155ミリ砲を据えて首里周辺の主陣地に猛攻を浴びせた。この砲撃で琉球王朝600年の歴史を刻む首里の町は灰燼に帰した。
  • 3月27日の夜、大雨の中、首里高女4年生の卒業式が石部隊野戦病院の前で行われる。
  • 石部隊の野戦病院壕は首里崎山町にあり通称ナゲーラの壕と呼ばれる人口壕。
  • 首里高女の生徒たちは沖縄の中部や北部から進学した農家の娘が多く、4人に1人の難関を突破した当時のエリートだった。親元を離れ首里に下宿して通学していた。
  • 十・十空襲の後、田舎へ帰っていた生徒たちに学徒隊へ参加するようにという電報が届いたのは昭和20年が明けてすぐだった。親たちは止めたが、学徒隊に加わらないと卒業証書を貰えないので生徒たちは首里に戻った。
  • 卒業証書は貰ったものの彼女たちは故郷には帰れなかった。明日から正式に軍属として入隊しなければならなかった。引率していた金城先生と大庭由紀子先生は卒業式が終わるとすぐに帰校を命じられる。卒業したのだから、もう生徒ではない。今後、引率教師は要らないと言った。
  • 3月28日、女子学徒看護隊として、私立昭和高等女学校17名と共に石部隊野戦病院に配属される。1班から6班までが首里高女、7班、8班が昭和高女という編成。首里高女の学徒看護隊は、のちに『瑞泉隊』と呼ばれ、昭和高女は『梯梧隊』と呼ばれた。
  • 首里高女から看護教育に参加したのは63名だったが、体を悪くしたり家庭の事情で2名が帰された。正式入隊した61名のうち、33名が戦死した。ほかにも職員14名、同窓会員49名が亡くなった。首里高女の校舎は昭和20年5月初め頃、戦火で焼け落ち、そのまま復興する事なく48年間の歴史の幕を閉じた。
  • 4月1日、米軍は首里の北方12.5キロ、中部西海岸の嘉手納、北谷に上陸。日本軍は首里防衛に4重の陣地を構えた。第一線は首里の北約8キロの普天間東西の線、第二線は同5キロの牧港−嘉数−西原、第三線は同3キロの仲間−前田−幸地−翁長−我謝、最後の第四線は首里山を取り巻く天久、澤岻、末吉などの集落。第一線は4月7日に突破され、8日から始まった嘉数高地を中心とする第二線の攻防は激烈を極めた。12日は日本軍、19日には米軍が総攻撃を展開、米第10軍(琉球作戦派遣軍)司令部は統合参謀本部に『夕刻までに前進わずか1フィート、1インチごとに重大な損害』と打電する死闘が続いたが、24日、これも抜かれてしまう。続く第三線は5月6日、第四線も12日から21日にかけて崩壊した。米軍の一部は折からの梅雨の豪雨の中、那覇、安里の一角に進出したほか、日本軍司令部の西わずか1キロの首里寒川にまで迫った。
  • 4月1日のアメリカ上陸までは入院患者も少なく、殆どが結核などの内科患者だった。1日以後、負傷兵が次々に運び込まれると手が足りなくなり交代なしの24時間勤務になる。
  • 4月の初め頃は患者が息を引き取ると胸が詰まって涙を流した。壕の前のカヤ葺きの三角兵舎で線香を焚いてお通夜をし丁寧に葬った。しかし、まもなく涙どころではなくなり、後から後から負傷兵が入って来た。夜明け前と夕方だけ米軍の攻撃が止むので、その時、大急ぎで死体処理をする。埋葬する時間がないから艦砲射撃であいた大きな穴の中に入れた。穴は死体で盛り上がった。
  • 米軍が上陸するとまもなく、最前線の浦添村仲間に野戦病院の分室が設置され、第一陣として10名、続いて10名が送り込まれる。2週間くらい昼も夜も突貫工事で壕を掘った。着いた晩は小学校で一泊したが翌日からは壕を掘りながら、その中で寝て、また起きて掘って、奥へと掘り進んだ。分室では負傷兵の応急処置をしてナゲーラへ送った。患者を合わせても340人位だったので食事は豪勢だった。
  • 4月28日は首里高女の創立記念日。
  • 4月29日、天長節には友軍が陸から海に向けて一斉攻撃すると聞いていたが、当日は静かで何もなかった。
  • 5月22日、第32軍司令部は首里放棄と南部への撤退を決定、軍司令官牛島中将が29日、幕僚を従え、摩文仁へ後退したほか、31日には各一線部隊も一斉に首里戦線から南下した。瑞泉隊は石部隊野戦病院と行動を共にした。最初に全員が配属されたのは首里崎山の野戦病院壕だが、そこから最前線の浦添村仲間、母校の首里高女壕などへ派遣された。そして石部隊の島尻南下に従って患者を護送しながら識名上間、武富を経て米須、伊原へと撤退して行った。
  • 5月27日、海軍記念日には友軍がたくさん来ると聞かされていたが、ついに何処からも援軍は来なかった。それでも彼女たちは日本軍を信じ、勝利を疑わなかった。翌日、南部へ撤退。ひとまず識名上間の壕に入る。1晩か2晩いただけで、さらに南へ約5キロの兼城村武富に向かう。
  • 武富の壕を出た瑞泉隊員は島尻の米須をめざした。雨は降り続き、ずっと水浸しの足は水ぶくれになり、無理やり地下足袋に押し込んで歩いていると赤くただれた。水虫ができて、かゆみと痛みに悩まされ、皮がずる剥けになった。普通の水虫ではなく、腐って『水ぐされ』になっていた。
  • 5月下旬から6月上旬にかけて、日本軍は続々と南部島尻に終結した。瑞泉隊員も石部隊の野戦病院について米須に集まって来た。彼女たちは米須の小学校の前にあった野戦病院の本部壕に入ったが、やがてそこから近くの壕や伊原へと分散して行った。この南部で瑞泉隊員27名が次々に戦死した。
  • 米須の小学校に着いた時は、大雨の中を歩き続けたため、びしょ濡れで寒くて震えていた。木片を集めて燃やし暖まってから、大きな民家に入って食べ物を貰った。米須では民間の人が壕を追い出され、その後に軍が入った。兵隊は殺気立ち、住民が口答えをすると非国民と言って追い出した。
  • 石部隊は食糧を持っていなかったので、その日その日のイモを掘って来て壕の入り口で大きな鍋で煮た。照明弾が上がって艦砲が始まると大急ぎで火を消して、やむとまた火を点けるので生煮えだった。小さなクズイモばかりで、一人に3個配給があった。
  • 6月4日頃、伊原は全くの別天地だった。弾丸はこないし、野菜は畑にいっぱいあるし、サトウキビもいっぱいあった。壕の前に小川があって、昼間、服を着たまま小川につかって何か月ぶりに髪を洗って服も着たまま揉んで洗って顔も手足も洗って乾くまで土手に座っていた。でも、3日ほどしたら爆撃が始まって、友達が次々にやられた。田んぼの向こう側に死体があっても、こっち側から水を飲んだので、大勢、アメーバ赤痢に罹った。
  • 6月10日頃、解散命令が伊原に届く。みんなが本部壕に行って大騒ぎになり、女学生は元の所属に戻れと言われる。
  • 6月19日、二度目の解散命令が出る。大庭先生は隊長にくってかかるが、本部壕も明日あたり馬乗りされるので、分散して逃げるように言われる。生徒4、5人に衛生兵がついて壕を出て行った。大庭先生と泉川先生と生徒19人がかたまって壕に残った。
  • 黄燐弾にやられると顔いっぱいカサブタができて膿をもってカイセンみたいに腫れる。
  • 亡くなった患者や戦死者を埋めた場所に爆弾が落ちると頭蓋骨が飛び出してくる。ピンク色になって一面にウジがわいている。腐った死体よりウジ虫がこわかった。出て来た骨はみんなピンク色していてびっくりした。
  • 患者をいっぱい寝かせてあるのに壕と壕の間の通路に爆弾が落ちて、そこにいた人達が一瞬のうちに消えてしまった。そして両側の木の枝に、その人達の内蔵がいっぱいぶら下がっていた。大腸とか小腸とかが糸みたいに引っ掛かり、手や足も引っ掛かっていた。
  • 隊長や将校は美人の生徒を呼んでは、ちょっとした雑用を頼んだ。『喜納、軍医大尉殿が呼んでいる、来い』『次、久場、君は何々殿が呼んでいる、来い』『次、宮平、来い』と兵隊が呼びに来た。
  • 負傷した初年兵や少年通信兵たちは『アンマー(お母さん)よう』と泣いていた。
  • 沖縄の初年兵は全然訓練を受けないで入隊して働いていた。色々としくじりもあり、内地から来た兵隊が『お前は沖縄兵だろう』って馬鹿にした。治療して痛がるとすぐ『沖縄兵だろう』って言った。
  • ノコで骨を切る音は鈍い音で、とてもいやだった。初めにメスで肉を縫合しやすいように月形に切る。次に神経をピンセットでつまんで切って、それから骨をノコで切った。
  • ナゲーラの本部壕には十数名の慰安婦もいた。
  • 大きい傷というのは自分でもわからない。痛さを感じない。立ち上がって歩こうとしたら、ぐらぐらっと倒れ、初めて怪我をした事を知った。
  • 破傷風に罹ると初め首が動かなくなる。これが硬直の始まりでだんだん熱が高くなり、硬直して口が開かなくなる。小指がやっと入る位しか開かない。血清を打つと、すぐに硬直がとれて楽になる。




沖縄の島守     ずいせん学徒の沖縄戦




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