酔雲庵


酔中花

井野酔雲





25




 その晩、五郎右衛門は無理やり、お鶴にわけのわからない唄を歌わせられた。

 お鶴は横笛を吹いた。陽気な唄とは打って変わって、その笛からは物悲しい調べが流れた。唄が彼女の表面を現しているのなら、笛は彼女の内面、心から湧き出して来るような感じだった。

 彼女の生きざま、悲しさ、苦しさ、寂しさ、そして、それを乗り越えて来た優しさと強さ、それらがしみじみと五郎右衛門の胸に伝わって来た。その調べの中には時折、彼女が持って生まれた楽天的な陽気さも顔を出すが、それが返って、上っ面だけの悲しみではなく、より深い悲しみに聞こえた。

 五郎右衛門は酒を傾けながら、お鶴の笛に聞き入っていた。笛が奏でる世界に浸り切っていた。

 お鶴は無心に笛を吹いていた。その姿は美しかった。お鶴だけでなく、人が何かに熱中している姿というのは美しいのかもしれない。

 そこには隙がない。

 無心‥‥‥

 今のお鶴は笛を意識していない。そして、滑らかに動いている指も、笛の穴を押さえている事さえ忘れているに違いない。

 お鶴は笛を吹いている事を忘れ、笛もお鶴に吹かれている事を忘れている。

 お鶴という女は消え、笛という物も消え、一つになって、音だけが残る‥‥‥

 ふと、五郎右衛門は気がついた。今まで悲しい調べだと思っていたが違う。確かに悲しく、寂しげに聞こえる。だが、それだけじゃない。ただ、それだけだとしたら、聞いてる方はしんみりとなって、心が沈んでしまうだろう。しかし、彼女の曲を聞いていてもそうはならない。なぜか、心が和らぎ、さわやかな気分になる。優しく、ふんわりと包み込んでくれるような、何とも言えない快い気分になって来る。

 はるか昔、子供の頃、世の中の事も何も知らず、野山で遊んでいた頃の自分が知らず知らずに思い出されて来た。優しい母親、強い父親に囲まれて、毎日、幸せに暮らしていた。わしにもそんな頃があったんじゃ‥‥‥と改めて思い出された。今まで、そんな事を思い出した事は一度もなかった。思い出す事といえば、父と母が殺された事、そして、仇を討つために剣の修行を始め、それからは寝ても覚めても剣の事だけじゃった。わしだけでなく、誰もが、そんな子供の頃の事など忘れ去っているじゃろう。お鶴もきっと、幸せな子供時代があったに違いない。だから、こういう曲が吹けるのじゃろう。

 不思議な曲じゃ。この曲を聞いたら、どんな荒くれ野郎でも、おとなしくなって、子供の頃の自分に帰るかもしれない。

 和尚が言った眠り猫の境地じゃろうか‥‥‥

 いや、それ以上かもしれん。お鶴の場合だったら、ねずみと一緒になって遊んでいる猫じゃろう。

 わからんオナゴじゃ‥‥‥

 お鶴は静かに笛を下ろした。そして、着物の袖で目を拭いた。

「あたし、馬鹿みたい‥‥‥自分で吹いてて、自分で泣いてるわ。どうだった?」

「綺麗じゃった」

「曲が?」

「曲も、お前も」

「うまいのね」

「大したもんじゃ」

「ありがとう」とお鶴は五郎右衛門に抱き着いて来た。

「おい、酒がこぼれる」

「ねえ、五エ門さん。あたし、本気であなたに惚れちゃったみたい。どうしよう?」

「どうする事もないじゃろ」

「だって、あなた、いつか、ここを出て行くんでしょ?」

「ああ。いつかはな」

「その時、あたしはどうなるの?」

「お前はずっと、この山にいるのか?」

「どうしようか? 連れてってくれる?」

「お前は押しかけ女房じゃろう」

「じゃあ、あたし、一緒にいてもいいのね? ずっと、一緒にいてもいいのね?」

「ああ」

「嬉しい‥‥‥ねえ、でも、あなた、絶対に死んじゃいやよ。それと、人も殺しちゃダメ。ね、約束してくれる?」

「わしの剣は相打ちじゃ。わしが剣を抜いた時は、相手も死ぬが、わしも死ぬ」

「それじゃあ、絶対に剣を抜かないって約束して、お願い」

「わかった。約束しよう」

「御免ね、我がまま言って」

「いや」

「お酒、飲みましょ」




篠笛「竜峰」




26




 新たに、二人の生活が始まった。

 五郎右衛門は剣を振ったり、座禅をしたりして考えていた。

 活人剣とは?‥‥‥

 無心とは?‥‥‥

 お鶴は、いつも何かをやっていた。五郎右衛門は一々、お鶴の事を気にしていたわけではないが、くだらない事を真剣にやっているので、何となく気になっていた。

 背を丸めて座り込んだまま、じっと動かないでいるので、何をしているのかと行ってみれば、お鶴はアリと遊んでいた。

 五郎右衛門が顔を出すと、

「ねえ、見て。このアリさんねえ、こんな大きな荷物をしょっちゃって、自分のうちがわかんないのよ。あっち行ったり、こっち行ったりしてんの」と、一々、このアリさんはね‥‥‥このアリさんはね‥‥‥と説明する。

「でもね、あたし、思うんだけどさ、このアリさんたちから見たら、あたしはどう見えるんだろ? まるで、化け物みたいに見えるんでしょうね。やあね、きっと、醜いお化けに見えるのよ。あたし、どうしよう?」

 小川に打ち上げられ、死んでいる魚を見つけると、可哀想だと涙を流して泣いている。今、泣いていたかと思うと、今度は川の中に入って、キャーキャー言いながら魚を捕まえようとしている。

 五郎右衛門は木剣を構えながら、お鶴の姿を見ていたが、思わず吹き出してしまった。着物の裾をはしょって、へっぴり腰になりながら魚を捕まえようとしている。本人は真剣なのだが、それがまた余計におかしい。とうとうバランスを崩して、お鶴は川の中に尻餅をついてしまった。

「畜生!」と悪態をついて、もう、着物が濡れるのもお構いなしに川の中を走り回っている。

 そのうちに諦めたのか、川の中を上流の方に向かって歩き始めた。

 どこに行くのだろうと思って後を追ってみると、いつも水浴びをする所まで来て、着物を脱ぎ、水の中に飛び込んだ。

 いつまで経っても浮き上がって来ないので、五郎右衛門は心配になって側まで行ってみた。

 お鶴は両手で魚をつかんで浮き上がって来た。五郎右衛門が見ているのに気づくと、

「ねえ、見て。とうとう、捕まえてやったわ」とはしゃぐ。が、魚はお鶴の手の中から、するりと逃げてしまった。

「畜生! ねえ、あなたもおいでよ。気持ちいいわ」と言って、また潜った。

 五郎右衛門は元の場所に戻って剣の工夫を考えた。

 行くな、戻るな、たたずむな、立つな、座るな、知るも知らぬも。

 行こうと思って行くな‥‥‥

 戻ろうと思って戻るな‥‥‥

 たたずもうと思ってたたずむな‥‥‥

 立とうと思って立つな‥‥‥

 座ろうと思って座るな‥‥‥

 すべて、無意識のうちにやれという事か?

 おのずから映れば映る、映るとは月も思わず水も思わず。

 無心になれ‥‥‥

 無心になろうと思えば、そこに無心になろうとする意識が生まれる。

 意識があるうちは無心になれない‥‥‥

 いや、待てよ、無心という、そのものも一つの意識じゃないのか?

 それさえも忘れるという事か?

 お鶴が濡れた着物を着て帰って来た。

「魚はどうした?」

「こんな大きいの、捕まえたのよ。捕まえたんだけどさ、顔をみたら情けない顔してんのよ。こんな顔よ」とお鶴は魚の情けない顔というのをして見せた。

「何だか、可哀想になったから逃がしてやっちゃった。そしたらね、喜んで泳いで行くのよ。面白そうだから、あたし、後をついて行ったの。どんどん深く潜って行くのよ。あなた、そこに何がいたと思う?」

「人魚でもいたか?」

「そう。凄く大きなお魚がいたわ。あたしよりずっと大きいのよ。きっと、あたしが捕まえたお魚のお母さんよ。あたしが、『こんにちわ』って言ったら、ちゃんと挨拶したのよ」

「魚が『こんにちわ』って言ったのか?」

「あんた、馬鹿ね。お魚がそんな事、言うわけないじゃない。ニコッて笑ったのよ。きっと、あれ、あの川の主よ。もう、ずっと昔から住んでるのよ。あたし、彼女とお友達になっちゃった」

「そりゃ、よかったのう」

「うん。今度、一緒に会いに行きましょ。そうだわ、お酒、持ってって、みんなで飲みましょう」

「酒を持って行くのはいいがの、水の中で、どうやって飲むんじゃ?」

「あっ、そうか、ダメだわ。いいわ。彼女の方をこっちに呼べばいいのよ」

「そうじゃな。お前の好きにしろよ」

「うん、ハックション」

「風邪ひくぞ」

「うん」と言って、お鶴は岩屋の方に行った。

 無心か‥‥‥

 自由無碍(むげ)‥‥‥

 まるで、お鶴そのものじゃな‥‥‥

 お鶴は無心になろうなんて思った事もないじゃろう。





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