酔雲庵


酔中花

井野酔雲





27




 今日もお鶴は遊んでいる。

 彼女は退屈という事を知らない。いつでも何かと遊んでいる。

 食事の支度をしている時は、野菜や鍋と遊んでいるし、飯を食べている時は、箸で食べ物と遊んでいる。掃除をしている時は、ほうきと遊んでいるし、酒を飲んでいる時は酒と遊び、寝ている時でさえ、夢の中で遊んでいるようだった。

 彼女は常に、今という時を一生懸命、遊んでいるようだった。

 今も、お寺に行ってお酒をもらって来ると出掛けたが、すぐ、そこに座り込んで動こうともしない。また、アリと遊んでいるようだ。

「ねえ、あなた。ちょっと来て、凄いわよ」

「どうした? アリが蝶々でも運んでるのか?」

「そうじゃないの、凄いのよ」

 五郎右衛門が行ってみると、お鶴はムカデが歩いているのを真剣に見ていた。

「ねえ、凄いでしょ?」

「どこが? ムカデが歩いてるだけじゃねえか」

「そこが凄いのよ。あんなにいっぱい足があるのに、まごつかないで、ちゃんと歩いてるわ」

「当たり前じゃろ」

「でもね、もし、あたしだったら、ああは歩けないわ。あたしって、おっちょこちょいでしょ。足と足がからまっちゃってさ、その足をほどこうとして、また、次の足がからまるでしょ。次から次へと足がからまっちゃって、しまいには、ほどけなくなっちゃうわ。そしたら、あたし、どうしよう?」

「そしたら、わしがほどいてやる」

「あなた、優しいのね。これで安心したわ。よかった。あたし、今、とても幸せなの。あなたの側にいると、なぜか、とても安心するのね。こんな事でいいのかしら? あなた、ほんとに人間なの?」

「何を言ってるんじゃ」

「もしかしたら、仁王様か何かが化けてるんじゃないの?」

「そうじゃな。わしは仁王様の化身じゃ」

「そうでしょ。やっぱり、優しすぎるもん」

「仁王様ってのは優しくはないじゃろう?」

「優しいわよ。だって、苦しんでる人や悲しんでる人をみんな、救ってくれるんだもの」

「それは観音様じゃろ?」

「いいえ。仁王様も観音様も一心同体なのよ。表と裏よ。だから、あなたも苦しんでる人たちを助けてやってね」

「わしにはそんな力はないわ」

「あるわ。あなたには、その剣があるでしょ。仁王様も持ってるわ。仁王様の剣は人を斬る剣じゃないのよ。人の心の中にある悪を斬る剣なのよ。人を斬らずに、心の中にある悪だけを斬るの。あなたの剣もそうすればいいんじゃない」

「どうやって?」

「それは、あなたの問題でしょ。あたしは観音様だもん。ただ、優しく笑ってればいいの。男の人って大変なのよ。頑張ってね」

 お鶴は空のとっくりを抱いたまま、踊るように出掛けて行った。

 空飛ぶ気楽な鳥見てさえも、あたしゃ悲しくなるばかり〜」と陽気に歌いながら、小川を渡って行った。




仁王 金剛力士 阿仁王 金剛力士 吽




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 五郎右衛門は笛を吹いているお鶴の姿を仮想して、それを相手に剣を構えていた。

 どうしても、打ち込む事はできない。それ以前に、剣を向ける事さえできなかった。

 たとえば、花を相手に剣を構えているようなものか?

 花は無心じゃ。

 花はわしが剣を構えていようと、殺そうとしていようと、お構いなしに、ただ咲いているだけじゃ。

 わしにいくら闘う気があっても、相手にその気がまったくなかったら、わしの一人芝居になる。

 幽霊を相手に剣を振り回しているようなもんじゃ。

 相手がいるから、剣を構えたわしがいる。

 相手がいないのに、剣を構えるわしがいる必要もない。

 相手がいなければ、わしもいないわけじゃ。

 逆もまた言える。

 わしがいなくなれば、相手もいなくなる。

 自分を消すという事か?

 わしの殺気を消す‥‥‥

 剣を構えても、剣の先から殺気を出さずに‥‥‥

 花でも出すか?‥‥‥

 剣の先から、パッと花が咲く。

 これじゃ、まるで、お鶴の世界じゃねえか。

 殺気も出さず、花も出さず、何も出さない。

 無‥‥‥

 いや、(くう)か‥‥‥

 空の身に思う心も空なれば、空というこそ、もとで空なれ。

 これか?‥‥‥

 そうじゃ。空になればいいんじゃ。

 いや、空になろうと思ってはいかん。

 空‥‥‥

 空‥‥‥

 空‥‥‥





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