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五郎右衛門は木陰に座り込み、木剣を作っていた。使い慣れた木剣は、昨日、立ち木を打っていた時に折ってしまった。 わしが彫刻に熱中している時、それは、お鶴が笛を吹いている時と同じじゃな。 剣も空。 剣だけじゃなく、 人間も空。 花も空。 敵もなく、我もなし。 敵も殺さず、我も殺さず。 敵を生かし、我も生かす。 これ活人剣なり。 お鶴が言うように馬鹿になりきればいいんじゃ。 喧嘩になったら逃げればいい。 何も一々強がってみせる必要などない。 人がどう思おうと気にせず、生きて行けばいいんじゃ。 しかし、わしにそんな生き方ができるか? 馬鹿になりきれるか? お鶴のように、明けっ広げになれるか? これは剣の修行より難しそうじゃな。 まあ、この先、お鶴と付き合って行けば何とかなるじゃろう。 お鶴は川に洗濯に行ったが、どうせ、また、魚と遊んでいるのじゃろう。 勝手に魚に、お亀さんなんて名前を付けて、今頃、馬鹿な話でもしてるんじゃろう。 あれは本物の馬鹿じゃ‥‥‥ うむ。間違いなく、本物の馬鹿じゃ。 「キャー、あなた!」 突然、お鶴の叫び声が聞こえた。 五郎右衛門は慌てて、小川の方に走った。 お鶴は洗濯物を真っ赤に染めて、小川の中に倒れていた。 側には見た事もない浪人が血の付いた刀を下げたまま立っていた。 五郎右衛門はお鶴を抱き起こした。 「おい、しっかりしろ」 「あなた‥‥‥」 「一体、どうしたんじゃ?」 「おぬしは誰じゃ?」と浪人は言った。 「お鶴!」 「この女の亭主か? おぬしも一緒に死ね」と浪人は五郎右衛門も斬り捨てようとする。 「あなた!」とお鶴が叫んだ。 五郎右衛門は腰に差している小刀を素早く抜いた。 あっと言う間だった。 浪人は斬られて倒れた。 五郎右衛門はお鶴を抱いた。 「あの男は誰じゃ?」 お鶴は首を振った。 「あなた‥‥‥お願い‥‥‥二度と、人を殺さないで‥‥‥」 「お鶴、死ぬなよ」 「ね‥‥‥あなた‥‥‥約束してね‥‥‥」 「わかった。二度と人は斬らん。しっかりしろ!」 「あなた‥‥‥五郎右衛門様‥‥‥」 「お鶴!」 「ありがとう‥‥‥」 お鶴は力尽きて、息絶えた。 「お鶴!」 五郎右衛門は泣いた。 お鶴を抱き締め、いつまでも泣いていた。
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お鶴が死んでから、五郎右衛門は剣を取ろうとはしなかった。 お鶴の墓の前に座り込んだまま動こうとしなかった。 人の気配を感じて、振り返ると和尚が立っていた。 「この馬鹿もん! いつまでも、そんな所に座っていてどうするんじゃ。情けない奴じゃのう。お鶴が墓の下で笑ってるぞ。お鶴の死を無駄にするなよ。酒を持って来た。今晩、二人で飲め」 和尚はそれだけ言うと帰って行った。
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