酔雲庵


酔中花

井野酔雲





31




 五郎右衛門は木陰に座り込み、木剣を作っていた。使い慣れた木剣は、昨日、立ち木を打っていた時に折ってしまった。

 わしが彫刻に熱中している時、それは、お鶴が笛を吹いている時と同じじゃな。

 (くう)じゃ。

 剣も空。

 剣だけじゃなく、常住座臥(じょうじゅうざが)、これ、すべて空。

 人間も空。

 花も空。

 敵もなく、我もなし。

 敵も殺さず、我も殺さず。

 敵を生かし、我も生かす。

 これ活人剣なり。

 お鶴が言うように馬鹿になりきればいいんじゃ。

 喧嘩になったら逃げればいい。

 何も一々強がってみせる必要などない。

 人がどう思おうと気にせず、生きて行けばいいんじゃ。

 しかし、わしにそんな生き方ができるか?

 馬鹿になりきれるか?

 お鶴のように、明けっ広げになれるか?

 これは剣の修行より難しそうじゃな。

 まあ、この先、お鶴と付き合って行けば何とかなるじゃろう。

 お鶴は川に洗濯に行ったが、どうせ、また、魚と遊んでいるのじゃろう。

 勝手に魚に、お亀さんなんて名前を付けて、今頃、馬鹿な話でもしてるんじゃろう。

 あれは本物の馬鹿じゃ‥‥‥

 うむ。間違いなく、本物の馬鹿じゃ。

「キャー、あなた!」

 突然、お鶴の叫び声が聞こえた。

 五郎右衛門は慌てて、小川の方に走った。

 お鶴は洗濯物を真っ赤に染めて、小川の中に倒れていた。

 側には見た事もない浪人が血の付いた刀を下げたまま立っていた。

 五郎右衛門はお鶴を抱き起こした。

「おい、しっかりしろ」

「あなた‥‥‥」

「一体、どうしたんじゃ?」

「おぬしは誰じゃ?」と浪人は言った。

「お鶴!」

「この女の亭主か? おぬしも一緒に死ね」と浪人は五郎右衛門も斬り捨てようとする。

「あなた!」とお鶴が叫んだ。

 五郎右衛門は腰に差している小刀を素早く抜いた。

 あっと言う間だった。

 浪人は斬られて倒れた。

 五郎右衛門はお鶴を抱いた。

「あの男は誰じゃ?」

 お鶴は首を振った。

「あなた‥‥‥お願い‥‥‥二度と、人を殺さないで‥‥‥」

「お鶴、死ぬなよ」

「ね‥‥‥あなた‥‥‥約束してね‥‥‥」

「わかった。二度と人は斬らん。しっかりしろ!」

「あなた‥‥‥五郎右衛門様‥‥‥」

「お鶴!」

「ありがとう‥‥‥」

 お鶴は力尽きて、息絶えた。

「お鶴!」

 五郎右衛門は泣いた。

 お鶴を抱き締め、いつまでも泣いていた。




居合刀 明智拵片手巻




32




 お鶴が死んでから、五郎右衛門は剣を取ろうとはしなかった。

 お鶴の墓の前に座り込んだまま動こうとしなかった。

 人の気配を感じて、振り返ると和尚が立っていた。

「この馬鹿もん! いつまでも、そんな所に座っていてどうするんじゃ。情けない奴じゃのう。お鶴が墓の下で笑ってるぞ。お鶴の死を無駄にするなよ。酒を持って来た。今晩、二人で飲め」

 和尚はそれだけ言うと帰って行った。





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