酔雲庵


酔中花

井野酔雲





33




 五郎右衛門はお鶴の墓を相手に酒を飲んでいた。

 酔いが回り始めて来た頃、お鶴は墓の中から現れた。

「元気出しなさいよ、五エ門ちゃん」

「お鶴、やっぱり、出て来てくれたのう」

「出て来ると思った?」

「ああ。ろくに別れも告げずに行っちまったからの」

「御免ね」

「あの世は面白いか?」

「うん。どこでも同じよ。楽しくやってるわ」

「相変わらず、あの調子か?」

「そう、あの調子で遊んでるの。ねえ、あなた、今日限りで、あたしの事は忘れてね。あなたにはやるべき事があるわ。それをちゃんとやらなくちゃ。いつまでも、あたしの事を思って、くよくよしてたら、あたし、あなたの事、嫌いになっちゃうわ。ね、お願いよ」

「ああ」

「でも、絶対に、あたしの事、忘れちゃ、いやよ。わかる? あたしの事は忘れなくちゃダメだけど、決して、忘れちゃ、いやよ」

「わしにも、ようやく、そういう事がわかりかけて来た」

「じゃあ、今晩は別れの酒盛りね。あたし、もう二度と、あなたの前には現れないわ。その代わり、あたしはあなたの刀の中にいると思ってね。あなたの刀は人を斬るために使ってはいけないわ。仁王様の刀と同じよ。人の心の中の悪を断ち斬るのよ。そして、世の中のために使ってね。もし、あなたが、その事を忘れて、人を斬るために刀を抜いたら、あたし、その刀を折っちゃうわ。そして、あなたは死ぬのよ。でも、そんな死に方をした、あなたなんかに、あたし、会いたくない。相打ちもダメよ。自分を殺して、相手も殺す。一見、正しいように思えるけど、よくない事だわ。死んだ二人はいいかもしれないけど、必ず、悲しむ人たちがいるはずだわ。あたしが死んで、あなたが悲しんだように、きっと、誰かが悲しむのよ。だから、人を殺しちゃダメ。御免ね、あたしらしくないわね、こんなお説教なんかして‥‥‥あなたなら、ちゃんとわかってくれるわよね。だって、あたしが惚れたんだもの。五郎右衛門様‥‥‥」

「お鶴‥‥‥」

「あたし、もう、しゃべる事、何もなくなっちゃった」

「何もしゃべらなくてもいいさ。一緒に酒を飲もう」

「うん」

 二人は無言に酒を酌み交わした。不思議な程、お互いの気持ちは通じ合っていた。

「ひとつ、気になってるんだが、お前を殺した、あの浪人は何者なんじゃ」

「やっぱり、気になる?」

「ああ」

「知らない人よ」

「そうか、知らない人か」

「うん」

「そうだ、最期にお前の横笛を聴かせてくれないか」

 お鶴はうなづいて、横笛を吹き始めた。

 夜のしじまに、優しい笛の音が流れた。




土佐鶴 純米大吟醸 原酒 ザ・土佐鶴




34




 五郎右衛門は目を覚ました。

 夜が明けようとしていた。

 お鶴はもういなかった。

 お鶴が座っていた所に、小さな草が生えていた。

 一輪の花が、今にも咲きそうだった。

 つぼみがほころび始めている。

 五郎右衛門は、その花をじっと見つめた。

 花は少しづつ、少しづつ、ほころび、ピンという音を立てて力強く開いた。

 可憐で、綺麗で、可愛い、その小さな花は、お鶴そっくりだった。

 五郎右衛門は、その白い華奢(きゃしゃ)な花びらに触れようと右手を伸ばした。

 そして、触れようとした時、花の中から一滴のしずくが、五郎右衛門の手のひらにこぼれ落ちた。

 五郎右衛門は、その時、何かが、パッとはじけたような気がした。

 もう一度、花を見つめた。

 花はそこに咲いていた。

 何も言わず、ただ、無心に咲いていた。

 五郎右衛門は刀を取ると、素早く一振りしてみた。

「これじゃ! これじゃ!」

 五郎右衛門はもう一度、刀を振り下ろしてみた。

「これじゃ! お鶴、やっと、わかったぞ。活人剣。そして、お前が言う仁王様の剣」

 五郎右衛門は刀を(さや)に納めようとした。

 そして、気がついた。

 刀の(つば)もとに鶴の彫刻が彫ってあった。

 鶴が気持ち良さそうに空を飛んでいる。

 それだけではなかった。

 その刀には刃が付いていなかった。

 綺麗に刃引きしてあった。

「お鶴め、やりやがったな‥‥‥これで、いいんじゃ。今のわしには刀の刃なんて必要ない。お鶴、ありがとうよ。お前は死んでまでも遊んでいやがる」

 五郎右衛門は花を見た。

 何となく、その花が笑ったような気がした。





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