酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







15.美女とヘネシーXO




 木枯らしがヒューヒューと泣いている。

 電車から降りて駅前に立って途方にくれた。静斎の家がかなり不便な所にある事に気づいた。駅前にはタクシーはいなかった。のんびり散歩するにはアルコールも切れて来たし、あまりにも寒すぎる。大通りまで出て、タクシーを拾って彼の家に向かった。

 無口なタクシーの運ちゃんだった。私が話し掛けても一言も口を利かなかった。不思議な運ちゃんだった。それでも、私は不愉快にならなかったばかりでなく、つり銭まで彼にくれてしまった。

 辺りは真夜中のように静まり返っていた。ただ、風だけがヒソヒソ話をしている。いくら高級住宅地といえども、空気までは暖房してなかった。私は鼻水をすすりながら、惨めな気持ちで静斎の屋敷の門から玄関に向かった。

 玄関のベルを押すと、しばらくして、女の声が聞こえて来た。どなたですか、と言うので、先生から紀子さんを捜してくれと頼まれた日向ですと答えた。探偵さんですね、ちょっと待って下さいと声が聞こえ、ちょっと待つとドアが開いた。

 また、美女が現れた。このうちでは見た事のない女だった。だが、他の場所では見た事のある女だった。上原和雄のアパートで見た女だった。サングラスも毛皮のコートも着ていないが、髪の形と甘い香りは同じだった。女は私を見て、少し驚いたようだった。それでも、美しい笑顔でごまかして私を屋敷の中に入れてくれた。

 広い屋敷の中はひっそりとしていて寒かった。

 彼女は静斎の長男、淳一の妻で、ひろみという名前だった。静斎は留守で、夫人はもう休んでいると言った。

 一旦、応接間に案内されたが、ストーブを消してしまったので寒いわね、と二階の方に案内された。二階から下のホールを見ると、その広さに改めて驚かされた。畳を敷き詰めたら五十枚は敷けそうだ。階段を上がった正面にドアがあり、その向こうは広いベランダになっている。洗濯物を干すためのロープが張ってあった。

 ホールを四方から見下ろすように廊下があり、右側に二つのドア、左側に三つのドアがあった。この前、紀子がピアノを弾いていたのは右側のどっちかの部屋だろう。ひろみは左側の一番向こうの部屋に案内した。

 部屋の中は暖かかった。そこはひろみ夫婦の居間だという。一部屋が洋間と日本間に分かれていた。洋間には応接セットとステレオがあり、日本間にはこたつとテレビがあった。こたつの上にはヘネシーのXOが当然のように置いてあった。

「ちょっと待ってて」と言うとひろみは部屋から出て行った。

 私は出窓から外を眺めた。広い庭と門が見えた。この部屋は正面から見ると右側に見えた部屋らしい。洋間の方にドアがあったので開けてみると、そこは寝室兼書斎になっていた。大きな本棚には映画や演劇関係の本がぎっしりと詰まっている。窓際には水色のカバーの掛かったダブルベッドが置いてあった。

 私はドアを閉めるとソファーに腰を下ろした。テレビでは古い映画をやっていた。ビデオを見ていたらしい。聞いた事のある音楽が流れていた。

 ひろみは、御免なさいと戻って来た。私はこたつの方に誘われた。

「眠り薬です。少し飲まないと眠れないんです」

 ひろみはそう言うと私のためにブランデーグラスを持って来てくれた。今回の仕事はどこに行っても酒が付いている。午前中のバーボンから始まって、燗酒、水割り、スコッチと飲んでいる。仕上げがヘネシーXOとは上出来すぎた。

「勿論、飲みますよね?」

「寒かったので、少しだけ」

 私は遠慮したが、物欲しそうな顔をしていたのかもしれない。彼女はグラスにコニャックをたっぷりと注いでくれた。

「静斎さんはどこに行ったのですか?」

「さあ。冬子さんの所じゃないの? 冬子さんが絵をやってるんで、お父さん、嬉しくてしょうがないのよ。どうぞ」

「どうも」

「何か、つまみでも用意しましょうか?」

「いえ、結構です」

「紀子さんは見つかりました?」

「まだです」

「大変ね。でも、大丈夫よ。そのうち帰って来ますわ。どこかで新しい曲を考えてるのよ、きっと」

「あの、私はあなたをどこかで見たような気がするんですけど」

「分かってるわ。さっきの事でしょ。まさか、あなたがあんなとこにいたなんて驚きました。上原君と紀子さんが何かあったの?」

「いえ、ただ、話を聞きに行っただけです」

「そう‥‥‥」

 ひろみはコニャックを一口なめた。

 私もなめてみた。最上級のコニャックだった。うまいコニャックは今日一日の疲れを慰めてくれた。

 私はグラス越しにひろみを見た。彼女は目を細めてテレビを見ていた。魅力的な女だった。こんな女と二人きりで、こたつにあたってコニャックを飲んでいるなんて不思議に思えた。これが仕事でなければ、どんなにいいだろう。このまま、彼女を口説いて隣のベッドに直行する事も可能だった。彼女の亭主は今、山の中にいる。

 彼女は私の視線に気づき、私の方を向いて微笑した。白い歯がキラッと光った。

 私は思い出した。中崎ひろみという女優がいた事を‥‥‥随分、前の事だ。私が日本を出る前、彼女はよくテレビに出ていた。どんな番組だったか覚えていないが、人気番組を何本か持っていたはずだ。私も彼女のピンナップを部屋に貼っていた頃があった。あの頃の私たちのアイドルだった。清純な可愛らしさで売っていたが、三年後、私が日本に帰って来た頃には消えてしまっていた。確か、私より一つ年下のはずだった。

 今、私の前にいる彼女は少し疲れているようにも見えるが、洗練された女らしさで、あの頃よりも美しくなっている。あの中崎ひろみと一緒に酒を飲んでいるなんて信じられない事だった。益々、このまま、ずっと、ここにいたいと思った。

「あなたはどうして、上原君を訪ねたのですか?」

「約束してたんですよ」

「今日、会う約束をですか?」

「いえ、今日じゃないけど、日にちを決める前に上原君が帰っちゃったもんだから訪ねて行ってみたんですよ」

「そしたら、留守だった」

 彼女はうなづいた。

「あなたも上原君も一緒にスキーに行ったんですよね。帰りは一緒じゃなかったんですか?」

「急に先に帰っちゃったのよ。急に仕事が入って、ヨーロッパに行ったって聞いたわ。けど、あたし、嘘に違いないって思って行ったんだけど、どうやら、ほんとだったみたいね」

「彼はヨーロッパですか‥‥‥」

「らしいわ」

「どうして、嘘だと思ったんですか?」

「だって、何となく、彼、落ち着きがなかったのよ。彼が帰った日、彼は前の日に膝を傷めたとか言って、スキーに行かなかったの。膝を傷めたっていうのも嘘臭かったわ。その日に、ヨーロッパに行くって帰ったんだけど、何となく、まだ、日本にいるような気がしてね、行ってみたのよ」

「何の用だったんですか?」

「写真ですよ。うちの人、今、映画のシナリオ書いてるの。シナリオを書くための資料を彼が持ってるって言うんで、それを取りに行ったんですよ」

「シナリオの資料ですか?」

「そうよ。だから、あたしもみんなと一緒に帰って来たのよ。それを受け取ったら湯沢に戻ろうと思ったんだけど、ヨーロッパに行っちゃったんじゃ駄目ね。別の資料を捜して山に戻るわ」

 彼女はコニャックを飲んだ。彼女のしなやかな喉をコニャックは気持ちよく、すべり降りて行った。

「あなたたちは昨日、帰って来たんですよね。上原君はいつ、帰ったんですか?」

一昨日(おととい)よ」

 上原のアパートの管理人は、昨日の朝には車が帰って来たと言っていた。上原は一昨日の夜中に、あのアパートに帰って来て、昨日の朝早く、ヨーロッパに飛んで行ったのだろうか?

「上原君はモデルの娘を連れて行きませんでした?」

「あら、よく知ってるわね。美喜ちゃんは置いてきぼりにされたわ。でも、あの娘は彼には興味なかったみたい。可愛い娘よ」

「その美喜ちゃんはあなたたちと一緒に帰って来たのですか?」

「そうですよ」

「上原君は一昨日の夜、つまり、月曜の夜、こっちに帰って来ました。紀子さんは日曜の夜は『オフィーリア』に行きましたけど、それから行方が分かりません。二人が一緒にヨーロッパに行ったという事は考えられませんか?」

「まさか」とひろみは笑って、細くて長いタバコをくわえた。

 私はライターで火を点けてやった。彼女は、ゆっくりと煙を吐いてから、「そんな事ありえないわ」と言った。

「紀子さんはね、何かを持ってる人としか付き合わないのよ。地位やお金の事じゃないのよ。彼女の音楽のためになる何かを持ってる人ね。尊敬できる人っていうのかしら。上原君は何も持ってないわ」

「あなたとの関係は?」

 私は探るように彼女を見た。

 彼女は煙を吐いてから、まだ長いタバコを灰皿で消した。彼女の爪は真珠のように光っていた。

「あたしと上原君? 別に関係なんかないですよ。彼は風景写真が専門で、今度、映画の舞台に使おうと思ってる場所の写真を持ってるって言うんで、それを貰いに行っただけよ」

 彼女は落ち着いて喋った。そして、落ち着いてグラスを口に持って行き、唇を湿らせた。テレビではフランスの俳優がラブシーンを演じていた。

「車の事なんですけど」と私は言った。

「車? 彼の車はちゃんとあったでしょ」

「いえ、そうじゃなくて、紀子さんはなぜ、車を使わなかったんでしょう?」

「知らないわよ、そんな事」

 そんな事、どうでもいいという口振りだった。彼女はラブシーンに見入っていた。私は彼女の横顔に見入っていた。

「ここから駅まで随分ありますよ」

「きっと、バスで行ったんでしょ」

「バス停はそばにあるんですか?」

「うちの前にはないわね。大通りまで出ればあるわ」

「彼女がタクシーを使ったとは考えられませんか?」

「考えられるわね。バスが待ちきれなくて、タクシーを拾ったかもしれないわ」

「タクシーを電話で呼んだかもしれない?」

「馬鹿ね」と彼女は私の方を向いた。

「彼女がそんな面倒な事、するわけないじゃない。タクシーを待ってるより歩いて行く人よ。もしかしたら、信号待ちしてるよその人の車に乗り込んだかもしれないわね」

「よその人の車?」

「ええ、女って便利よ。たいていの男の人は親切に乗せてくれるわ」

 そりゃそうだろう。紀子やひろみのような女のためなら男は鼻の下を伸ばして何だってする。やめた、やめた、もうやめた。私がいくら捜し回ったって紀子の居場所なんか全然、分かりゃしない。みんなが言う通り、そのうち、ひょっこりと帰って来るのだろう。彼女が帰って来るまで、上等な酒を心行くまで飲みまくる事に決めた。

 私はコニャックをぐいと一息に飲み干した。

「いい飲みっ振りじゃない」とひろみは二抔目を注いでくれた。

 二抔目を注いでくれるという事は、私に、もう少しいて欲しいという意味だろうか、と私は勝手に思った。

「ねえ、あなた、映画、好き?」と彼女はテレビを見ながら聞いた。

「ええ、まあ」

「そう」と彼女は私の方を見て、笑った。

 何の意味もない職業的な笑いなのだろうが、今の私には最高の笑顔に見えた。

「あたしね、今度、カムバックするのよ」

 彼女は楽しそうに言った。

「今ね、うちの人がね、シナリオ書いてるの。あたしが主演するのよ。前にも映画に出た事あるけど、あの頃のあたしは死んでたわ。まるで、あやつり人形のようだったわ。今度は生きてるあたしを見せるつもりよ」

 テレビからまた、聞いた事のある音楽が流れて来た。私は思い出した。『男と女』だった。私が生まれた頃の古い映画だ。学生時代に名画座で見た事があった。仕事以外の時、ひろみと二人きりで見たい映画だった。

「御主人が今、書いてるのはどんな話なんですか?」

和泉式部(いずみしきぶ)よ。あなた、知ってる?」

 ひろみの答えは以外だった。『男と女』のようなラブ・ロマンスかと思ったら、なんと時代物だった。

「名前だけは。平安時代の人ですか?」

「そう。平安時代の歌人よ」

 ひろみが十二(ひとえ)を着ている姿を想像してみた。結構、似合うかもしれない。でも、私としては、そんなに厚着をしたひろみよりも、『氷の微笑』のシャロン・ストーンのような魅力的な悪女役をやってもらいたかった。

「あたしが和泉式部をやるの。彼女は一生、恋をしていて、一生、恋の歌を作っていたわ。彼女が生きてた時代はフリー・セックスの時代なのよ。好きになれば一緒になるし、いやになったら別れればいい。自然だったの。今は子供のために離婚できないなんて言う人もいるけど、あの時代だって子供は作ったわ。親が別れたって子供はちゃんと育ってくのよ。かえって、親の喧嘩を毎日、見ながら育ってく子供の方が気の毒よ。式部も色んな男の人に乗り替えて行ったの。歌を作るために男を替えてたんじゃないけど、彼女の生き方は歌そのものだと思うわ。彼女の作った歌は紫式部のような学はないけど、心を素直に現してるわ。きっと、自分の心に素直な生き方をしてたんだと思う。女として、人間として、素直で、本当に人間らしく生きていたんだと思うわ。あたし、この作品に賭けてるの。絶対、成功させるつもりよ」

 彼女は張り切っていた。止めどもなく映画の話をしだした。話したい事が体の中に溜まり過ぎて吐き出す時を待っていた。誰でもいいから自分の話を聞いてくれる相手を捜していたに違いない。私は彼女に選ばれてしまったのだ。私はコニャックをちょうだいしながら適当に相槌を打って、彼女の話を聞いていた。

 彼女は次々に映画論を展開して行った。日本映画に対する批判、外国映画のセリフとシーンの展開のうまさ、映画の中で、女というものをどう表現すべきか、彼女は一人で喋りまくっていた。

 『男と女』はいつの間にか終わっていた。ビデオからテレビに切り替わり、ニュース番組が流れていた。私はプロ野球ニュースを見ながら、彼女の話を聞いていた。ボトルの中のコニャックはかなり減っていた。

 私はこのまま、朝まで彼女に付き合ってもいいと思っていた。しかし、そう、うまい具合には行かなかった。彼女は言いたい事をすっかり吐き出してしまうと私にはもう用はないという素振りを示した。

「そろそろ、紀子さんを捜しに行った方がいいんじゃないの?」と彼女は急にそっけなくなった。

「そうですね」と私は言って、彼女からモデルの中川美喜の住所と電話番号を聞いた。

 携帯電話で掛けてみたが誰もでなかった。

「きっと、遊んでるのよ」

「彼女、携帯は持ってないんですか?」

「持ってるわ。でも、あたしは番号を知りません」

 次に冬子に掛けてみた。冬子はいた。電話の向こうから、かなり大きな音で音楽が流れていた。やかましいハードロックのようだった。

「親父さんはそっちにいるかい?」

「いませんよ。カサブランカに行きました。描きかけの絵があるんですって」

「カサブランカ? 親父さん、モロッコに行ったのか?」

「なに言ってんの? ビーチハウスですよ。今、どこにいるんですか?」

「映画女優にインタビューしてたんだよ」

「紀子さんはどうなったの?」

「まだ、見つからない。君に話があるんだけど、今から、そっちに行ってもいいかい?」

「その女優さんて綺麗な人?」

「ああ、綺麗な人だよ」

「待ってるわ」と冬子は優しく言って、乱暴に電話を切った。

 ひろみは映画のようなポーズを取って、タバコをふかしていた。

「冬子さんね。今から行くつもりなの?」

「仕事です」

「そう、熱心なのね。あの娘も可愛いしね、目をつけてるのね」

「確かに彼女は可愛い。でも、私には若すぎますよ。ついて行けない所がある」

 彼女は声を出さずに笑った。

 私は御馳走になったお礼を言って別れを告げた。

 彼女はホームドラマのように玄関まで送っては来なかった。飽くまでも、映画のヒロインのようにポーズをとったまま、目だけで別れを告げた。

 私は映画のヒーローのように孤独を背負って冷たい風の街を歩いた。




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