酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







26.さすらいの画人




「もう、四十年にもなりますね」と荒木俊斎はゆっくりと言った。

「理由なんて別にありませんよ‥‥‥寒くなれば南に行って、暑くなれば北の方に‥‥‥若い頃はその逆をやってましたよ‥‥‥たまたま、たどり着いた土地が気に入って、そこに落ち着こうと思った事も何度かありました‥‥‥でも、駄目でしたよ。半年もいると、また、違う場所に行きたくなる。ある日、突然、何かに引っ張られるように、その土地を離れます‥‥‥その繰り返しですな。理由なんかないですよ。ただ、自然に任せて漂っているだけです。落ち着く場所が未だに見つからんのですよ‥‥‥のんきなもんです」

 俊斎は笑った。丈夫そうな歯を見せて、心の底から笑っているようだった。

「病気なんかしたらどうするんですか?」

「不思議なもんで体だけは丈夫ですよ‥‥‥どこで、野垂れ死んでも悔いはありません‥‥‥しかし、まだ、死にたくはありませんからな、若い頃のように無理はしませんよ。食べる物にも気をつけてますし、酒も適当に飲んでます」

 俊斎と私は小さな食堂の暖簾をくぐった。客は誰もいなかった。私たちは窓際にあるテーブルに腰掛けた。壁に古ぼけたメニューがぶら下がっている。麺類と丼物しかなかった。

 私が声を掛けると中年の女将さんが店の奥から眠そうな顔をして、のっそりと出て来た。カウンターに置いてある十年前の型のポットから茶碗にお茶を注ぎ、それを持って、私たちの方に来た。

 俊斎は窓から外を眺めていた。

「いらっしゃいませ、何になさいますか?」

 女将さんはぶっきらぼうに言って、茶碗をテーブルに乱暴に置いた。さすが、経験を積んでいるらしく、お茶はこぼれそうでこぼれなかった。

 俊斎は女将さんをチラッと見てから、壁のメニューに目をやった。

「親子丼を下さい」

 女将さんは私の方を睨んだ。私も同じ物を頼んだ。女将さんは店の奥に消えて行った。

 俊斎はまた、窓から外を見ていた。

 私はお茶を飲んだ。ぬるかった。十年前のお茶のような気がした。

「私はね」と俊斎が外を眺めたまま言った。

「未だに戦争の影を引きずってるんですよ。あれから五十年以上も経ち、馬鹿な事をと思うでしょうが、一人くらい馬鹿がいてもいいじゃありませんか。私は五十年前に死んだも同然なのです‥‥‥何人もの仲間が戦死しました‥‥‥私自身も人を殺しました。私は国のために命を捨てる事を恐れてはいませんでした‥‥‥しかし、自分の仲間が次々に死んで行くのを見ているのは辛い事でした‥‥‥私は生き残りました‥‥‥私には絵を描く事しかできません。私の描いた絵が何らかの形で人の役に立ってくれれば、それでいいのです。私の絵を見て、人が喜んでくれる。私の絵を部屋のどこでもいいから飾って、それを見ながら仕事の後に酒でも飲んでくれる。それだけでいいんです‥‥‥」

 俊斎はお茶を一口飲んでから苦笑した。

「つまらない事を言ってしまいました。久し振りに東京に来て、お墓参りなどしたものですから昔の事を思い出したんでしょう。過ぎた事はどうでもいい事です」

 私は何も言わなかった。古山邸と静斎のビーチハウスで見た俊斎の絵を思い出していた。この人があの絵を描いたのかと私は納得していた。まさしく漂泊の画人だった。

「東京も随分、変わったでしょうね」と俊斎は言った。

「この前、来た時は三年位前でしたよ。あの時は確か、静斎さんのお嬢さんはアメリカに留学してました。隆二君もヨーロッパに行っていました。二人とも、もう、帰って来てるんでしょう?」

「ええ、帰って来てます。紀子さんは静斎さんの店でピアノを弾いてます。隆二君は最近、日本に帰って来ました」

「そうですか‥‥‥紀ちゃんはピアノが上手だったな。私はあの娘が高校に入ったばかりの頃しか知りませんよ。あの頃、あの娘は音楽よりも剣道に夢中でした。変わったお嬢さんでした」

 俊斎はマフラーをはずして、隣の椅子に置いた。

「あの‥‥‥荒木さんは紀子さんの本当のお母さんの事を御存じでしょうか?」

「ええ、知ってます。素晴らしい歌を歌う人でした」

 俊斎はゆっくりと目を閉じて(まぶた)を指でさすった。

「私はあの頃、東京にいました。紀ちゃんの本当のお母さんが亡くなられた時、私は流斎君の所に厄介(やっかい)になっていたんです。初めは静斎さんの所にいましたが、奥さんが一人で苦労してるのを見てられなくて‥‥‥私が、そろそろ、東京を離れようと思っていた頃でした。紀ちゃんのお母さんは殺されてしまったのです」

「流斎さんは、それから一月半後に自殺しました。その時も東京にいらしたのですか?」

 俊斎は首を振った。

「私は昭子さんの葬式の後、東京を去りました。もう少し、東京にいたら、流斎君を死なせる事はなかったのにと未だに悔やんでます。それから二年後に東京に来て、私は初めて、流斎君の死を知ったのです。とても信じられませんでした‥‥‥今、思えば、あの頃の流斎君はやはり少し変でした。しかし、まさか自殺するなんて‥‥‥」

「流斎さんの自殺はやはり、絵が描けなくなったからなんでしょうか?」

「ええ、多分、そうだと思います。私がお世話になっていた時、流斎君は白いカンバスに向かって筆を持ったまま、何時間も立ってる事がよくありました。どうしても、筆を置く事ができなかったようでした。たった一つの最初の点を描く事ができなかったんです。ようやく、筆を置く事ができても『違う、違う』と言いながら、カンバスをナイフでズタズタに切り裂いてしまいました。あの時、変だと気づくべきでした。しかし、普通の生活では、まったく異常はなかったんです。ただ、アトリエの中ではまるで、気が狂ったかのようでした」

「紀子さんのお母さんが亡くなった日なんですけど、荒木さんも流斎さんと一緒に三浦硯山先生のお宅にいたのですか?」

「えっ? あの日、私は先生のお宅に行きましたが、流斎君はうちにいたはずですよ」

「流斎さんは三浦先生の所には行かなかったのですか?」

「ええ。私はそろそろ、東京を離れようと思って挨拶に行ったんです。流斎君はアトリエに籠もっていたはずです。誰がそんな事を言ったんですか?」

「静斎さんです」

「静斎さんが‥‥‥」

「静斎さんは流斎さんが自殺した時、流斎さんが紀子さんのお母さんを殺したのかもしれないと疑ったそうです。しかし、流斎さんは三浦先生と一緒にいたから犯人ではないと言っていました」

「そうですか‥‥‥」

「紀子さんのお母さんは流斎さんを昔の事で脅して、金を受け取っていたらしいですけど、御存じですか?」

「えっ? そんな古い事をどうして今頃、聞くんですか?」

「実は、静斎さんの奥さんが昨日、お墓参りに来たんですけど、まだ、うちに帰っていないんです」

「本当ですか? 連絡もないのですか?」

「ええ。静斎さんはビーチハウスの方にいたんですけど、なかったそうです」

「そうですか‥‥‥久江さんがね‥‥‥どうしたんでしょう?」

 俊斎の顔が少し曇った。目が一瞬の間に、あらゆる変化をして、また、元の静かな穏やかな調子に戻った。

「静斎さんのお宅で何かあったのですか?」

「いいえ、何もありません。昨日は七年振りに隆二さんが帰って来て、奥さんはとても喜んでいたそうです」

「友達の所で息抜きでもしてるんじゃないですか?」と俊斎は言ったが、何か、不安を感じているようだった。

「そうだといいんですけど、静斎さんが心配してます」

「彼が心配してますか。いい薬ですよ。ずっと、久江さんに心配ばかりかけて来たんですからね‥‥‥でも、事故にでも会わなければいいが」

 俊斎は心配そうな顔をして、ぬるいお茶をすすった。

「私は静斎さんに頼まれて、先週、紀子さんを捜し回っていました。紀子さんは見つかりました。今、金沢にいるそうです。紀子さんは今、亡くなったお母さんのためにレクイエムを作っています。曲作りのために、お母さんが殺された時の事を色々と調べていたようなのです」

「紀ちゃんが本当のお母さんのためにレクイエムを作ってるんですか‥‥‥」

「お母さんが亡くなったのが二十五で、紀子さんももうすぐ二十五になるそうです」

「そうですか。紀ちゃんももう二十五になるんですか‥‥‥」

「紀子さんが生まれる前、静斎さんは荒れました。隆二君も大学生の頃、荒れました。紀子さんはレクイエムを作るために、今のお母さんから何かを聞いて、本当のお母さんの故郷である金沢に行きました。そして、今度はお母さんが行方不明になりました。私にはよく分かりませんが、どれも皆、つながってるように思えるんです。お願いします。荒木さんが知ってる事を話してくれませんか?」

 俊斎は微かにうなづいた。

「確かに、静斎さんと隆二君は同じような事で悩んでいたようです。しかし、久江さんは関係ないと思いますよ」

「そうだといいんですが、静斎さんは本気で心配しています」

「そうですか‥‥‥」

 俊斎は目を細めると窓から外を眺めた。

「紀子さんのお母さんが流斎さんを脅して、金を受け取っていたというのは本当なんでしょうか?」

 私はもう一度、聞いてみた。

 俊斎は私を見るとゆっくりと首を振った。

「知りません。昭子さんが時々、流斎君を訪ねていたのは知ってますが、二人の間に何があったのかは知りません」

「流斎さんは奥さんとはうまく行ってたんでしょうか? 流斎さんの自殺は奥さんのせいだって聞いたものですから」

「奥さんのせい? そんな事はないでしょ。幸せそうな家庭でしたよ。可愛い女の子もいましたし、流斎君はとても可愛いがっていました。奥さんていうのは、私たちの先生の姪御さんなんです。綺麗な人で、しっかりした人でした。流斎君の絵を見ればよく分かりますよ。彼は奥さんや娘さんをよく絵に描いてましたよ」

「そうですか‥‥‥」

 女将さんが丼を二つ持って来た。テーブルにそれを落とすと、すぐに店の奥に戻って行った。奥の方から赤ん坊の泣き声が聞こえていた。あの女将さんでも赤ん坊をあやす時は、この丼のようには扱わないのだろう。無愛想な顔で思い切り愛想笑いをして、ベロベロバアとやっているのだろう。目の中に入れても痛くない可愛い孫に違いない。

 俊斎は黙って、ゆっくりと御飯を食べていた。私も黙って、飯を胃袋に詰め込んだ。あまり、うまくはなかった。腹が減っていたので、何とか胃袋に納まったが満足感はなかった。

 俊斎は窓から外を眺めながら、ゆっくりと落ち着いて、御飯をかみ締めていた。

 私はテーブルの下から古い雑誌を取り出して眺めた。一通り、目を通し終わった頃、俊斎は箸を置いて、「御馳走様」と言った。

 私は俊斎にタバコを勧めた。彼は軽くうなづいて、一本取り、口にくわえた。私もくわえ、俊斎のに火を点け、自分のにも火を点けた。

 俊斎はゆっくりとタバコを吸い、ゆっくりと煙を吐いた。ごつい人差し指と中指に挟み、うまそうに吸っていた。

「もう少し、聞きたいんですけと、若い頃の静斎さんの奥さんはどんな人でした?」

「綺麗な人でしたよ」

 俊斎は隣のテーブルから灰皿を取って、タバコの灰を落とした。

「東京に出て来たのは十六の時じゃったかな‥‥‥流斎君と一緒に半年位、硯山先生の所にいました。お兄さん思いの人でした。その頃、先生の所には四人の弟子がいました。流斎君を入れて五人ですな。久江さんはよく、みんなの面倒を見てましたよ。急に先生のうちが明るくなったようでした‥‥‥そのうち、アパートを借りて、流斎君と二人で暮らし始めました。先生の知り合いで洋服屋をやってる人がいて、久江さんはそこで働いていました。彼女にも、やはり、芸術家の血が流れてるんでしょうね。洋服のデザインをやってました。ちょっとしたアイデアを出しては主人を喜ばせていたようです‥‥‥静斎さんと一緒になったのは二十四、五だったと思います。その当時の事は私はよく知らないんですよ。その何年か前に妻を亡くしましてね、私は東京を離れました。静斎さんと久江さんの結婚式も知らなかったんです‥‥‥私がその後、東京に来たのは丁度、隆二君が生まれた時でした。長男の淳一君は小学校の一年生でした。静斎さんも久江さんも幸せそうでしたよ。流斎君も綺麗な奥さんと一緒になってました。みんな、幸せにやってましたよ‥‥‥私もその時は、もう一度、東京で暮らそうと思ってたので、二年位、東京にいました。そのうち、流斎君にも子供ができました。可愛い女の子でした‥‥‥その頃から、静斎さんはちょっとおかしくなって来たんです。理由は分かりませんが、急に生活が乱れて来ました。静斎さんは名前の通り、静かな真面目な人でした。ところが、急に、うちにも帰らないで、毎日、酒ばかり飲んでいたのです。私が止めても聞きませんでした。あの時の彼は、今の彼からはとても想像できませんよ。まったく、凄い荒れ方でした。酒を飲んではチンピラと喧嘩ばかりしてました‥‥‥二年近く、荒れていましたかね。昭子さんと出会ってから落ち着いて来たようですが、うちには帰って来ませんでした‥‥‥久江さんは本当に大変だったと思いますよ‥‥‥」

「今でも分かりませんか、静斎さんが荒れた理由は?」

「分かりません‥‥‥私が次に東京に来た時は静斎さんは昭子さんと暮らしていました。そして、昭子さんは死にました‥‥‥その次に来た時は海外に行ってましたが、その次に来た時は、ちゃんと、うちに帰っていて、また、幸せそうに暮らしてましたよ。誰でも一度はあるんじゃないですか? そういう、やけになる時期が‥‥‥乗り越えてしまえば何でもない事ですが‥‥‥静斎さんの場合はあの時期があったからこそ、今の彼がいると言えます。あの時期を乗り越えた静斎さんは人間的にも、絵に関しても、随分と進歩して、深みが出て来ました‥‥‥」

 店の前で俊斎と別れた。静斎さんの家まで送りましょうかと言ったら、俊斎は明るく笑って首を振った。のんびり、景色を楽しみながら歩いて行くと言う。

 俊斎は小さな旅行カバンを持って、のんびりと歩いて行った。その姿は彼が描く水墨画の中の人物、そのものだった。




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