酔雲庵


蒼ざめた微笑

井野酔雲







27.駄菓子屋の黒猫とお婆ちゃん




 バス停の標識が小さな駄菓子屋の横に寒そうに立っていた。側にペンキの剥げたベンチがあるが誰も座っていない。駄菓子屋のたばこと書いてある色あせた赤い旗が風になびいて震えていた。時代に取り残されてしまったかのような懐かしい風景だった。

 道の反対側には小さな電器屋があり、汚れたウィンドウの中に最新式の電気製品が骨董品のように並んでいた。店の主人らしい親爺が店の前にしゃがみこんで何かを捜している。私の方をチラッと見たが、また、下を向いて熱心に捜していた。

 バスの時刻表を見ると通勤時間帯には一時間に三本あるが、その他は一時間に一本しかなかった。最終バスは八時四十分だった。

 駄菓子屋を覗いてみると誰もいなかった。左側にタバコ売り場があり、店内にはお菓子、パン、缶詰、インスタント食品、飲物などが並んでいる。奥の方が家になっていて住んでいるらしい。店と奥をつなぐ所に黒い猫が丸くなって昼寝していた。

 ごめん下さいと声を掛けると、猫が一言、返事をして、奥の方から派手なジャンパーを着た、のんきそうなお婆さんが出て来た。

「はい、はい、何でしょうか?」と言いながら、黒猫の隣にどっこいしょと座り込み、サンダルを突掛けた。黒猫は首を少し伸ばしただけで、知らん顔をしたまま寝ていた。

「マイルドセブンのライトを下さい」と私は言った。

「今日はまた、寒くなりましたね。昨日まではいいお天気だったのに、はい、はい、マイルドセブン・ライトですね」

 お婆さんは腰を曲げながら、タバコ売り場の方に行き、マイルドセブン・ライトを一つ持って、私のそばに来た。

「どうも」と私は三百円渡した。

 お婆さんはエプロンのポケットを探って、小銭を出し、つりをくれた。

「お婆ちゃん、ちょっと聞きたいんだけど、藤沢久江さんを御存じですか?」

 お婆さんは腰を伸ばして、私の顔を見上げたが、分からないような顔をしていた。

「昨日、お墓参りに来て、ここに寄ったはずなんですけど」

「ああ、あの奥さんですか」

 お婆さんはニコニコして、何度もうなづいていた。まるで、子供のような顔をしていた。

「ええ、ええ、知ってますよ。あの奥さんは毎月、必ず、見えますよ。ええ、よく続いてます。感心しますよ、はい」

「昨日は何時頃、こちらに来ましたか?」

「ええ」とお婆さんはうなづいたが、不思議そうな顔をして私を見た。

「奥さんが、どうかしたんですか?」

「まだ、うちに帰ってないんですよ」

「まあ、本当ですか?‥‥‥まあ、どうしたんでしょう?‥‥‥」

 お婆さんは心配そうな顔をして、電器屋の方を見ていた。電器屋の親爺はもういなかった。

「昨日は何時頃、帰りました?」

「五時四十分のバスでちゃんと帰って行きましたよ。奥さん、どうしたんでしょう?」

 お婆さんは誰も座っていないバス停のベンチを見つめていた。

「それまで、お婆ちゃんと話をしてたんですか?」

「ええ、そうです。話をしてました‥‥‥奥さんはお墓参りの前と後は必ず、うちに寄ります」

「お墓参りの前にも寄ったのですか?」

「はい。お線香とか、お水とか、うちで用意してるんですよ。初めの頃は、わさわざ、持って来てましたけどね。遠くから、そんな物を持って来なくても、うちで用意するって言ったんですよ、はい。もう、二十年ですからね。あたしは奥さんの若い頃から知ってます。綺麗な人でした。あの頃の奥さんはいつも、淋しそうでした。お墓参りが済むと、いつも、あのベンチにしょんぼり座ってました。苦労してたようでした‥‥‥いつも、子供さんたちの事を楽しく話して行きましたよ。奥さんは毎月、必ず、お墓参りに来ましたよ。お兄さんと妹さんのお墓です」

 お婆さんは言葉を切って、私の顔をじっと見つめた。

「あんたは息子さんですか?」

「いえ、違います。息子さんの友達です」

「そうですか」

 お婆さんは黒猫の方に目をやって、ゆっくりと顔をもどすと、私が手に持ったままのマイルドセブン・ライトをぼんやり見つめた。

「外国で絵の勉強をしていた息子さんが、お嫁さんとお孫さんを連れて帰って来たって言ってました。奥さん、とても喜んでました。とても幸せそうでした」

「何か変わった事、言ってませんでしたか?」

「いいえ、子供さんたちの事を話しただけです。子供さんたちも、みんな一人前になったって言ってました‥‥‥ただ、御長男の方の事を少し心配していたようでした」

「映画の仕事をしている人ですか?」

「はい。何か、物を書いてる人です。少し気が小さいので、ちょっと心配だって言ってました‥‥‥でも、これからはのんびり暮らすつもりだって言ってましたよ‥‥‥どうしたんでしょうね、奥さん。事故にでも会わなければいいんだけど‥‥‥」

「ええ‥‥‥もしかしたら、もう、帰って来てるかもしれません」

「いい人ですよ、あの奥さんは。あたしは毎月、奥さんが来るのを楽しみにしてました。いつも、子供さんの話をするんです。あたしはもうよく知ってますよ、三人のお子さんの事を、まるで自分の子供のようにね。小さい頃から知ってます。今の若い人たちはお墓参りなんて、あまり、しませんからね、会った事はないんですけど。子供の頃は何度か、奥さんが連れてみえました‥‥‥もう、皆さん、御立派になったんでしょうね‥‥‥奥さんは昨日、とても、幸せそうでしたよ」

「そうですか‥‥‥ちょっと、うちの方に電話してみます。帰っているかもしれません」

 私は店の外に出て、手帳を見ながら静斎宅のダイヤルを押した。お婆さんは店の奥に腰掛けて、黒猫を抱いていた。

 ひろみが電話に出た。

「お母さん、帰って来ました?」

「いいえ、まだよ。連絡もないわ。あなた、何か分かった?」

「お墓参りに来て、五時四十分のバスで帰ったそうです」

「そう。ほんとに、どこに行っちゃったのかしら?」

「静斎さんは?」

「出掛けたわ。慌てて、どこかに行ったわよ。お母さんが自殺するかもしれないなんて言ってたのよ」

「自殺だって?」

「ええ。死ぬかもしれないって‥‥‥」

「どうして、自殺なんかするんです?」

「そんな事、知らないわよ。あたしには全然、分からないわ。お母さんが自殺する理由なんて、何もないはずよ‥‥‥お父さんがまた、勝手に変な想像してんじゃないの?」

「前にも自殺しようとした事があったんですか?」

「そんな事、あるわけないじゃない。お母さんが自殺するなんて考えられないわ。あの人はくよくよ悩むような人じゃないわよ。どっちかっていうと、すぐに忘れちゃって、わりとのんきな人よ。そんな人が自殺なんてするわけないじゃない‥‥‥でも、連絡ないのはおかしいわ。事故にでも会ったのかしら?」

「静斎さんはどこに行ったと思います?」

「分からないわ。朝御飯食べてから、アトリエに入って何かしてたわ。お昼ちょっと前、あたしがアトリエに行って、お父さんにお昼御飯の事を聞くと、御飯はいいって言って、慌てて車で出掛けたのよ、お母さんが自殺するかもしれないって言いながらね」

「アトリエで何をしてたんです?」

「昔、描いた絵を見つけてたみたい」

「どんな絵でした?」

「よく分からないけど、机の上にお母さんを描いた絵が置いてあったわ。未完成だったけど」

「お母さんの絵ですか‥‥‥ひろみさん、山荘の住所、教えてくれますか?」

「山荘? あなた、山荘に行くの? どうして?」

「あなたの旦那さんに会ってみたいんです」

「会ってどうするの?」

「『和泉式部』に出してもらおうと思ってね」

「お母さんが山荘にいるの?」

「いいえ、分かりません。でも、山荘で何かがあったような気がするんです。紀子さんが山荘に行った事もお母さんは隠してましたし、何かがあったような気がするんです」

「山荘で何があったというの?」

「それは分かりません。ただ、紀子さんが突然、東京から消えたのは山荘に行って、お母さんから何かを聞くためだったのです。そして、何かを聞いたはずです。その後、紀子さんは金沢に行きました。多分、その何かとは紀子さんの本当のお母さんの事だったのでしょう。お母さんがいなくなったのも、その事に関係してるような気がします」

「その何かを、うちの人が知ってるって言うの?」

「それも分かりません。ただ、何かが引っ掛かるんです。すべての事が山荘から始まったような気がするんです‥‥‥紀子さんから連絡は?」

「ないわ」

「あなたはお母さんの生まれた所を知ってますか?」

「いいえ。長野県のどこかっていう事しか知らないわ。それがどうしたの? お母さん、そこにいるの?」

「分かりません。とにかく、俺はこれから山荘に行って来ます。住所を教えて下さい」

 ひろみから湯沢の山荘の住所と電話番号を聞いて、電話を切った。

 お婆さんは心配そうに私の方を見ていた。

 私は無理に明るい顔をしてみせた。

「奥さんは昼頃、帰って来たそうです」と私は言った。

 お婆さんは黒猫と一緒に、繰り返し、よかった、よかったとうなづいていた。私はお礼を言い、お婆さんと別れた。

 反対側にバスが止まった。バスの後ろから、ランドセルを背負った男の子が現れて、頬っぺたを真っ赤にして店の中に入って行った。

「ただいま」と言う元気な声と、お婆さんの嬉しそうな声が聞こえて来た。

 バスが走り去った。

 買い物帰りのおかみさんが二人、バス停の前で立ち話をしていた。




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