沖縄の酔雲庵

沖縄二高女看護隊・チーコの青春

井野酔雲




創作ノート




白梅同窓会編『平和への道しるべ 白梅学徒看護隊の記録』より






  • 第二高女は那覇市久米町にあった。今の福州園のある辺り。
  • 第二高女は十・十空襲で灰燼に帰す。
  • 『白梅隊』『白梅学徒看護隊』と呼ばれるようになったのは戦後の事。
  • 3月6日、看護教育のため東風平国民学校に入る。第1から第3班は積徳高女55人、第4、第5班が第二高女、第6班は初年兵。
  • 3月10日、陸軍記念日。
  • 3月24日深夜、学徒隊は着剣した内務班長の引率で八重瀬の本部に到着。
  • 山第一野戦病院の陣容は安井二郎軍医少佐以下、軍医、衛生兵、陸軍看護婦など193名に46名の第二高女生徒が加わる。患者収容可能数約500人。壕内は湿気が高く、40ワット程の裸電球が10メートル置きに天井にぶら下がっていて薄暗いので治療にはローソクが使われていた。
  • 4月上旬、富盛上の壕(手術場とも呼ばれる、下の壕の西へおよそ80メートル程上がった高台にある)、4月下旬に具志頭村新城に、5月初旬には東風平村東風平に分院が開設される。
  • 上の壕には石黒信芳軍医中尉、衛生兵2名、看護婦3名と垣花初代、桑江豊、津波きく、長嶺ミヨ子、與那覇文が勤務する。トイレは壕外のあり松の木で建てた俄作りの小屋で上に漁網を被せて擬装してあった。
    上の壕から炊事場は100メートル位離れていた。本部の坑道前の広場に擬装されたテントを張り大きな石で窯を作った簡単な設備だった。毎日のように標的にされるので、その都度場所を移動していた。玄米の重湯、五分粥、全粥、汁、惣菜と5個の食罐を長い竹竿に吊り下げて二人で前後して運んだ。水汲みは富盛集落の井戸。上の壕からは500メートル位離れていた。
  • 新城分院はK軍医以下衛生兵、看護婦と共に親里智子、座波正子、新垣郁子、比嘉光子、崎間政子の5名が派遣される。新城分院はヌヌマチガマと呼ばれる自然壕で壕内には水が流れていたが、降り続く梅雨で水量が増し病室は危険にさらされた。6月3日、新城分院は閉鎖される。500人位の重症患者が処置される。
  • 東風平分院は東風平国民学校の裏手の丘に開設。お椀型のこんもりした小山に本部壕を置き、キビ畑を挟んで別々の丘に負傷兵を収容する壕が3ケ所あった。いずれも人工壕だった。
    梅沢善男軍医大尉と米田卯吉郎軍曹以下数人の衛生兵と看護婦3名、上原ハツ、上地美代、金城愛子、禰覇幸子、金城幸子の5名が派遣される。壕は奥行きは浅く中央が広くなっていて両側の壕壁に沿って二段に作られた竹のベッドに、各壕に5060人の患者が収容されていた。一緒に行った5人は各壕に分散していたので勤務中は顔を合わす事もできなかった。6月3日、閉鎖となり、富盛に戻る。翌日、解散命令が出る。
  • 国吉の壕から井戸(ウテルガー)まで1キロも離れていた。
  • 『予科練の歌』『勝利の日まで』『空の神兵』『ああ紅の血は燃ゆる』『誰か故郷を想わざる』『伊那の勘太郎  月夜』『梅と兵隊』『きらめく星座』『ラバウル航空隊』『荒鷲のうた』『夜更けに帰る街角に』『ふるさと』



 ◎校歌

      一      日出づる国みんなみの 御空も海もか青なる 島に名だたる松尾山

           松のみどりのいや深み 永久に栄ゆく学び舎ぞ

      二      日嗣の皇子のことほぎを あげさせらるる慶びに 満ちあふれたる春早

           清けき苑のひらかれて ここに建ちたる学び舎ぞ

      三      栄ある苑に寄りつどひ 光をあふぐわがどちは 幸ゆたかなる極みぞと

           学びの道にいそしみて ほまれをあげん諸共に

      四      世の荒波の高くとも 智徳の船をよそほえば かをるや梅の旗じるし

           みさをのかぢをあやまらず いざ大海に乗り出さん




 ◎第二高女の教員。

        ◆稲福全栄      ‥‥‥校長。毅然とした紳士。

        ◆上里忠宣      ‥‥‥教頭。

        ◆新垣隆正      ‥‥‥教諭。二等兵として防衛隊に参加。新城分院の生徒に会いに来る。

        ◆伊波盛吉      ‥‥‥教諭。地理の先生。姪は第二高女3年生の伊波光子。摩文仁で投身自殺。

        ◆當間嗣元      ‥‥‥教諭。

        ◆翁長喜保      ‥‥‥教諭。

        ◆島袋静        ‥‥‥教諭。兼城村座波で戦死。長女、節子は同窓の1期先輩。

        ◆山元繁子      ‥‥‥教諭。

        ◆嘉数澄子      ‥‥‥教諭。

        ◆永山啓        ‥‥‥事務官。

        ◆阿波連本一    ‥‥‥事務官。

        ◆嘉数啓子    ‥‥‥事務員。

        ◇與那覇政男    ‥‥‥教諭。体育。白梅隊の引率。

        ◇新垣和子      ‥‥‥教諭。洋裁。

        ◇金城宏吉   ‥‥‥教諭。国語。白梅隊の引率。4年生の学級担当。

        ◇城間正雄      ‥‥‥教諭。歴史・公民。

        ◇西平一男      ‥‥‥教諭。数学。バレーボール部顧問。出征するが生還。

        ◇真栄田よし子 ‥‥‥教諭。裁縫・手芸。







◎白梅隊員名簿



◆安仁屋俊子

那覇市山下出身。4年竹組。教室ではいつも前から2列目だった。おとなしくて優しい娘だった。
6月21日、国吉の下の壕で勤務中に戦死。母親の春は糸満近くで艦砲弾にやられて戦死。県立二中2年生の弟、政矩は学徒動員で高射砲隊の伝令遂行中に戦死。17年夏に徴用でジャワに赴任していた父の政平だけが生き残る。

◇新垣郁子

新城分院勤務。閉鎖になる数日前より熱にうなされ、富盛に撤退中、皆とはぐれてしまう。

◇伊計喜久子
◇伊芸澄

那覇市出身。両親は仕事で慶良間にいて県立一中に通っている弟と二人で暮らす。
父は渡嘉敷島で集団自決の犠牲になり、弟、昭英は一中の鉄血勤皇隊として戦死。

◇稲嶺静子

3月27日除隊。真玉橋麗子と又吉ヒロ子と富盛の壕を出て、宜野湾、そして金武に行く。

◆上地美代

首里市出身。栗色の髪に色白で今ならミス○○と言われるようなの美人。頬は桃色で化粧したように綺麗だった。はきはきした勝ち気な娘。ブラスバンド部でピッコロを吹いていた。
男勝りの気性で体格がよく、白い鉢巻きをキリッと締め、颯爽と薙刀を振る姿は際立っていた。短距離も得意。クラスでも人気者で商業高校の男生徒にも騒がれていた。お嫁の話もあっちこっちからあった。卒業すれば司令部に就職が決まっていた。父親の安之は戦時中、琉球新報社に務めていた。
東風平分院勤務。解散後、東風平の5人と壕を出る。新垣で別々になり喜久里栄子、金城愛子と行動を共にする。新垣の壕入口で腹部盲管創を受け、さらにアメーバ赤痢に罹り、人手を借りずに壕外へ用足しに行き二度目の負傷で戦死する。

◆上原テル子

与那原町与那原出身。南米ペルーの移民先から日本教育を受けるため帰国していた。学年で一番小柄。口数は少なかったがキビキビした愛くるしい人で友達も多かった。那覇・与那原間を汽車通学していた。
アメーバ赤痢に罹り、治る前に解散となる。金城政子、大嶺三枝と一緒に衰弱した体で彷徨しながら国吉にたどり着き、上の壕で寝たきりだった。6月22日、国吉の上の壕で戦死。

◇上原富子

6月22日、国吉の上の壕で火炎放射を浴び、頭を焼かれるが生き残る。

◆上原ハツ

那覇市山下出身。夜盲症で壕の勤務は辛かったと思うが友達の手を借り壁を伝って手探りしながら頑張っていた。小柄で色白、パッチリした目が印象的。いつもニコニコ、賑やかにはしゃぐ娘で誰にでも可愛がられる性格だった。
東風平分院勤務。解散後、東風平勤務の5人で壕を出るが、暗闇の中、途中で皆とはぐれる。なんとか国吉の壕にたどり着き、6月21日、下の壕で勤務中に戦死。3年生の時、大嶺三枝、上原房子と共に出征兵士の家を訪ね歩く。

◆上原春江

那覇市山下出身。大柄。声が大きくゼスチャアたっぷりに話し、お茶目で甘えん坊。ハワイから引き上げて来た二世で英語が達者。一人娘。明朗快活な性格で音楽やスポーツも得意。ブラスバンド部でクラリネットを吹いていた。歌がうまくピアノも弾いた。軍歌の他に『オーソレミオ』『誰か故郷を想わざる』『ふるさと』など歌った春江の声が生き残った級友の耳に今もはっきりと残っている。昭和17年、陸上部の沖縄県代表として国民錬成大会(明治神宮)に遠征する。陸上万能選手の体格美人で、学校内だけでなく男子中学生の間でも有名で非常に人気があった。
解散後、誰とどうやって国吉に来たのか不明。国吉の壕に行き再び看護婦勤務に着く。6月21日、下の壕で勤務中に戦死。

◆大嶺三枝 那覇市住吉出身。一家が移住していたフィリピンで目を悪くし、左目は義眼だったが明るい娘だった。真ん丸い顔で笑い出すと止まらなかった。粘り強い性格で、校内体力検定の那覇・糸満間(往復10キロ)行軍でトップでゴールインしている。花が好きで校内美化に熱心だった。
解散後、9人の級友と共に壕を出る。新垣→真栄平→真壁→国吉。6月9日の夕方、金城政子と一緒に国吉の壕(山第一野戦病院)にたどり着き、その日の夜、壕入口の茅葺き小屋で仮眠中、直撃弾を受けて戦死。国吉での最初の犠牲者。3年生の時、上原房子、上原ハツと一緒にモンペ姿で漁師町の出征兵士の家を訪ね歩く。
◇翁長利恵子

恩納村まで行き母親と会い、同郷の比嘉ハツと一緒に直接、東風平国民学校に行く。3月27日除隊し比嘉ハツと一緒に読谷に行くが家族はすでに国頭に疎開、ハツと別れて北へ向かう。比嘉ハツとは幼いころより共に過ごし、下宿も一緒だった。

◆嘉数幸子

那覇市前島(泊)出身。小柄でおませだった。パッチリとした目にカールした髪が素敵だった。病弱だったのか家庭の事情か入隊翌日の3月25日除隊し與那覇先生と共に壕を去る。長嶺ミヨ子と小学校から同級。家族は国頭に疎開していたので与那原にいた祖母を頼り、そこで球部隊に入隊し具志頭辺りで戦死。運天よし子と仲良し。

◇垣花初代 那覇市出身。ダンスが大好きで学芸会にもよく出ていた。東風平の時、『湖上の尺八(名残の月の影淡く、今日も戦の夜は更けて)』という伊藤久男の歌を皆に歌ってもらい、部屋の真ん中で一人踊った。
富盛の第一野戦病院では外科勤務を命じられ、下の本部壕の第8病棟で働く事になる。4月中旬になると負傷兵が続々運ばれて来て病院壕は収容不可能となった。分院がいくつかでき、初代は上の壕の手術場勤務を命じられる。津波きくと組み、重傷患者の看護に当たる。途中、アメーバ赤痢になり下痢が続く。命令で下の壕で治療を受ける。4〜5人の生徒が病に倒れていた。5月上旬(1週間程入院)には快方に向かい再び上の壕で勤務に就く。
解散の時、県立一中の太田健に杖を渡す。解散後、仲間とはぐれてしまうが、長嶺ミヨ子と出会う。ミヨ子も仲間とはぐれて独りぼっちになっていて、二人で行動を共にする。真栄平に着いた時にはすっかり夜も明けていた。4、5名の友と合流し真壁に向かう。真壁で休んでいると米田軍曹が来て、国吉の壕に来いと勧めるが断る。八重瀬の野戦病院で看護した兵隊が4、5人来て一緒に行動する事にして並平の一軒家に入る。翌朝の爆撃で裏山に逃げる。桑江豊が頭に軽傷、親里智子が足を軽傷、初代は脇腹に軽傷、與那覇文は胸部盲管の重傷、平良百合子が腹部盲管で重傷、比嘉光子が大腿部軽傷、長嶺ミヨ子が手の甲をやられ、伊芸澄と仲宗根貞子は無傷、高橋伍長は両足の踵をもぎ取られ出血多量で亡くなった。與那覇、平良、比嘉を伊敷の病院壕運ぶ。與那覇は再びやられて死亡。2日いただけで兵隊に追い出され、平良を置いて、すぐ上にあった壕に移る。敵が迫り、壕を出て長嶺を先頭に逃げる。
◇嘉陽よし子

バレーボール部。解散後、諸見里和子と新垣春子看護婦と一緒に壕を出る。

◆喜久里栄子 久米島具志川出身。算盤が得意で抜群の暗算力があった。世話好きで頑張り屋。十・十空襲の後、郷里久米島に帰省。何日か遅れて教育隊に加わる。
解散後、東風平の4人と行動を共にし、新垣で別々になり上地美代、金城愛子と行動を共にする。金城愛子と国頭突破に加わり、途中で米軍に発見され集中射撃を浴び、金城愛子が怪我をしたため二人で手榴弾自決。
◆金城愛子 那覇市垣花出身。おとなしくて口数も少なく控えめな人だったが真面目な人柄が好かれていた。喜久里栄子は親友で通学も一緒、背丈も一緒だった。東風平分院勤務。
解散後、東風平の5人と壕を出る。新垣で上地美代、金城愛子と行動を共にする。喜久里栄子と国頭突破に加わり、途中で米軍に発見され集中射撃を浴び、怪我をしてしまい二人で手榴弾で自決する。
◇金城幸子

4年梅組。小柄。東風平分院勤務。解散命令の後、富盛から真栄平にたどり着く。その夜は木の下の石垣にもたれて仮眠する。東風平分院の5人は行動を共にする。途中で上原ハツがはぐれ、喜久里栄子が加わる。新垣集落に兵隊がいると聞き、炊事の手伝いをする事で仲間に加えてもらう。新垣はまだ多くの家が焼け残っていて瓦屋根の大きな民家が兵隊の宿舎に使われていた。
上地美代、金城愛子、喜久里栄子は新垣に残り、幸子は禰覇幸子と一緒に国吉に向かう途中、偶然、親戚(父親もいた)たちと出会う。国吉の壕に行くと大嶺美枝たちと米田軍曹がいた。翌日、軍曹と共に父親と会い、軍曹の命令で父親と行動を共にする事になる。

◇金城スミヱ

ハワイ帰りで英語は堪能。

◇金城政子

那覇で履物商を営む。空襲後、家族(両親、妹3人、弟1人)は南風原に疎開し月桃饅頭を売っていた。
解散後の9日の夕方、大嶺美枝、アメーバ赤痢に罹って弱っている上原テル子と一緒に国吉集落のはずれで山3486部隊の衛生兵に会い、国吉下の壕に連れて行かれる。そこには10名の仲間が揃っていた。
6月22日、国吉の上の壕で火炎放射を浴び大火傷(首と胸)を負うが生還。家族6人は皆、戦死。

◇桑江豊

那覇市出身。十・十空襲後、家族は与那原の親戚の家に間借りしていた。上の壕勤務。
解散後、11人と逃避行。母と姉は豊を追って南部をさまよい戦死する。

◇桑江ハル子 解散後、宮城すヱ子と壕を出る。海岸沿いの薮の中で長嶺房子と会うが、房子は戦死してしまう。祖母が戦死。
◇崎間政子

先発隊として前日、野戦病院に行く。十・十空襲後、真玉橋麗子の家に同居して受験勉強に励む。東京女高師の受験を済ませ、皆より1週間遅れて東風平に向かう。新城分院勤務。
解散後、島尻出身の看護婦と一緒に前川三枝の手を引いて壕を出る。

◇座波正子

新城分院勤務。解散後、津波きく、嶺井千代と壕を出る。昭和5年から10年頃まで父親が真壁小学校で教職についていたので真壁に向かう。伊敷で家族と会えたが父親は前の晩に戦死していた。民家の壕に避難していた時、直撃弾で一番上の姉と一番下の妹は即死、祖母とすぐ下の妹が大怪我を負う。

◆塩浜道子

那覇市久茂地出身。4年梅組。生物クラブ。気立てが優しく、大きな瞳が悲しげな美しい娘だった。入隊前、儀間和子と仲がよく、髪と爪を交換しあっていた。十・十空襲の後、北部へ疎開。3月6日、二高女4年生が東風平に入隊した時、国頭に疎開していたが、屋嘉敏子と共に入隊しようと戻って来る。富盛本部壕勤務。
解散後、宮城須美子に一緒に行こうと誘われるが断り、先輩の大城と行動を共にする。その後の足取りは不明。姉は当時では珍しい洋装店を開いていて、いい洋服をたくさん持っていた。

◆島袋敏子

真和志村安謝出身。中肉中背の健康的な体格で、活動的な事は好まず控えめな人だった。草花が好きで学校園の手入れや環境美化に熱心だった。病弱だったので入隊翌日の3月25日、除隊し與那覇先生と共に壕を去る。家族と再会できず、球部隊に入隊し浦添辺りで戦死。

◆島袋陽子 那覇市久米出身。琉球舞踊と書道の大家だった父親、光裕の薫陶を受け、琉舞をたしなみ、書にも秀でてた。友達の方から話しかけて初めて口を開く、控えめで物静かな娘だった。富盛でアメーバ赤痢に罹り衰弱していた。
逃避行中の行動はわからず、7月、知念村にいた父の友人、宮城能造を訪ねて来る。衰弱で口もきけなかった。なぜか制服を着ていて、かすかに『島尻から来たの』と言う。10月2日、知念村志喜屋の家族のもとで死亡。生きて家族に会えたのは陽子と屋嘉敏子の二人だけ。
◇親里智子

内科の将校病棟勤務。新城分院勤務。注射が怖くて逃げてばかりいた。

◇平良百合子

大宜味村出身。昭和20年2月、兄の戦病死の知らせを受ける。帰省していたが学校からの知らせて国場駅に向かう。母の反対を押し切って家を出る。
解散後、11名で行動を共にする。6月10日朝10時頃、波平集落の山の中で重傷を負い、伊敷の山第二野戦病院に運ばれる。意識不明になり、2、3日して気がつくと友たちはいなかった。8月30日まで80日間、一度も空を見る事なく壕の中で過ごす。痛みと高熱、喉の渇きに耐え、16日間は鍾乳石だけを眺めていた。知念村の収容所で1ケ月を過ごし、父に迎えられ疎開先の大宜味村に帰った。

◆高良ハツ

那覇市小禄出身。昭和16年1月、移住先のフィリピンから日本教育を受けるため一人で帰国していた。手先が器用で裁縫が得意。解散後、6月21日、国吉の下の壕で勤務中に戦死。

◆玉那覇スミ

西原町小那覇出身。真面目で物静かな子。内気な子で同級生の記憶も薄い。解散後、6月21日、国吉の下の壕で勤務中に戦死。父善雄(教員)、母タケ、弟善昭、妹和子の一家5人が全員戦死。

◇津嘉山ツル子

6月22日、国吉の上の壕で火炎放射を浴び、足に軽い火傷を負う。

◇津波きく 那覇市上之蔵に下宿。第5内務班。大阪ヘ向かう船便を待っている時、十・十空襲で家財一切を失う。上の壕勤務。
解散後、座波正子、嶺井千代と壕を出る。真壁で家族の心当たりがあるという座波と別れ、嶺井千代と二人で南に向かう。
◇仲井真和子

佐敷の収容所で仲宗根貞子と一緒になる。

◇仲宗根貞子 解散になる2日前位に内科から外科に配置換えされる。解散後は真栄城節子ら5、6人と南部をさまよう。
◆長嶺房子

那覇市小禄出身。眉が濃く、背が高く、目鼻立ちのくっきりした娘。気立てが優しく物静かな人だった。母から貰った櫛を大事に持ち、寝る前に必ず髪をすいていた。富盛でアメーバ赤痢に罹り、下の世話をしてくれる級友にすまない、ごめんねと繰り返した。
解散後の足取りは不明。6月22日頃、海岸沿いの薮の中で桑江ハル子と宮城スヱ子と出会うが、岩陰で仮眠中、艦砲弾にあい、腹部をやられ即死。亡くなった時、平良百合子の地下足袋を履いていた。

◇長嶺ミヨ子 十・十空襲で焼け出され、家族は国頭村当原に疎開。県庁職員の姉と一緒に焼け残った若狭町の祖母の家に身を寄せる。嘉数幸子と小学校から同級。3月25日生まれ。東風平では早飯で毎日お代わりをしていた。上の壕勤務。脳症患者をひっぱたいてから衛生伍長と呼ばれるようになる。
解散後、真栄平集落の外れで11人の生徒が集まり真壁に向かう。真壁で高橋伍長と西村上等兵と会い行動を共にする。波平の山の中で平良百合子と與那覇文が重傷を負う。二人を糸洲の山第二病院壕に運ぶ。その後、伊敷の壕に移る。6月18日深夜、国頭突破を志願する兵と共に出掛ける。比嘉鈴が腕に軽傷を負う。摩文仁の海岸近くの松林で除隊して帰った与那原和子と会う。摩文仁の海岸で平良百合子と名前の入った地下足袋を履いている死体と出会う。突然、自動小銃を構えた米兵に囲まれ、咄嗟に真栄城節子が乾パンの袋を裂いて白旗にしてうつむいて先頭になって投降した。
◆禰覇幸子 那覇市壷屋出身。栗色の髪、目が大きく、口元が小さくしまっていた。当時、女学生の間で圧倒的な人気のあった画家、中原淳一が描く美少女にどこか似ていた。小柄で愛らしくはきはきした機敏な娘。鬼軍曹と呼ばれた米田軍曹に金城幸子と共に特別に目をかけられる。金城幸子と急速に仲良くなり、いつも一緒に行動した。米田軍曹に連れられて東風平分院勤務。
解散後、東風平の5人と壕を出て新垣で友軍部隊に炊事をさせてくれと頼み、食事をする事ができた。禰覇と金城は他の3人とは別の壕に入ったが男ばかりの雰囲気を恐れ、一日いただけで新垣を出る。他の3人は残った。二人は国吉にいるという山第二病院を探して歩く。6月21日、国吉の下の壕で勤務中に戦死。新城の壕で米田軍曹と自決したという説もあり。
◇登川文子

教育隊に参加できず、20日程遅れて野戦病院に駆けつける。3月27日除隊。

◇比嘉鈴子 野戦病院で外科病棟勤務。鵜島家寿男少尉(小隊長)を看護し、後に礼状を貰う。解散後、11人で真壁に向かう。
◆比嘉ハツ

読谷村喜名出身。小柄で男勝りの気性だったが、着衣や持ち物などに女らしいこまやかさがあった。カールした癖毛が素敵だった。那覇で下宿生活していたが、十・十空襲後は郷里の読谷村で軍の勤労動員に従事。帰省していて翁長利恵子と一緒に直接、東風平国民学校に行く。
3月27日除隊し、翁長利恵子と一緒にトラックに乗せてもらい読谷まで行くが家族はいない。利恵子と別れ、球部隊のトラックで首里に戻る。以後、消息は不明。母親と妹は本土に疎開、父親は防衛隊に入り、祖母だけが家に残っていた。翁長利恵子とは幼いころより共に過ごし、下宿も一緒だった。

◇比嘉光子

新城分院勤務。解散後、11人で逃避行。波平で大腿部負傷。

◇前川三枝

二世で英語が堪能。十・十空襲後、焼け残った真玉橋麗子の家に下宿して受験勉強に励む。先発隊として前日、野戦病院に行く。津田英学塾の受験を済ませ、皆より1週間遅れて東風平へ向かう。

◇真栄城節子

富盛本部(下の壕)の外科病棟勤務。解散後、11名が共に行動する。両親、兄  と姉を戦争で失う。両親と兄、姉が戦死、姉妹2人だけになる。

◇真玉橋麗子

3月5日、先発隊として前日、野戦病院に行く。二高女の本隊を迎え入れた6日に受験のため那覇に戻る。開南中学で行われた東京女子医専の受験を済ませ、皆より1週間遅れて、諸見里和子、崎間政子と一緒に東風平へ向かう。第4内務班。
十・十空襲から体調を崩し通院していたので、前川三枝たちが班長に除隊を頼んでいて、3月27日除隊を命じられ驚く。母と弟は東村に疎開しているらしいが東村にどう行けばわからず不安、久志村に行く稲嶺静子と宜野湾に行く又吉ヒロ子と一緒に富盛の壕を出る。夜更けに宜野湾に着く。宜野湾に又吉の母親はいない。金武に向かい、又吉は母親を捜しに行ったまま戻らず、與那覇政男先生と出会い玄米の握り飯を貰う。

◆又吉ヒロ子

那覇市与儀出身。学年でも一番大柄でおっとりとしていた。3月27日除隊。真玉橋麗子と稲嶺静子と富盛の壕を出る。夜更けに宜野湾に着くが、母親は金武の親戚を頼って行ったと言われ、金武に向かう。知り合いの家に行くと出て行き機銃掃射にあって戦死。

◇嶺井千代

解散後、座波正子と津波きくと壕を出る。真壁で座波と別れ、津波きくと南に向かう。

◇宮城スヱ子 本部壕の内科病棟勤務。解散後、桑江ハル子と壕を出る。途中、津波きく、嶺井千代に会い1日は一緒に過ごす。海岸沿いの薮の中で長嶺房子と出会う。岩陰で一休みした時、房子は戦死。
兄、重忠(21)は宜野湾国民学校の教師から幹部候補生として山部隊に入隊、右腕を負傷し新城分院に運ばれ、病院閉鎖の時までは生きていたが、その後は不明となる。
◇宮城須美子

オルガンが得意。上原春江と仲良し。解散の時、塩浜道子から服を貰う。解散後、上地美代、喜久里栄子、金城愛子、禰覇幸子、金城幸子、看護婦の新垣ヨシ子と行動を共にする。新垣の鉄砲隊の壕に泊まった後、散り散りになり、須美子は新垣看護婦と一緒に行動。

◇諸見里和子

先発隊として前日、野戦病院に行く。十・十空襲後、焼け残った真玉橋麗子の家に同居しながら受験勉強に励む。奈良女高師の受験を済ませ、皆より1週間遅れて東風平に向かう。内科の将校病棟勤務。注射がうまかった。
解散後、嘉陽よし子と新垣春子看護婦と一緒に壕を出る。真栄平集落の生け垣の上で第二高女の音楽帳を見つける。裏を見ると上原初江と記名があった。

◆屋嘉敏子

名護市為又出身。身長160p、体重60sの立派な体格で短棒投げの県記録保持者だった。明るい笑顔は目が細くなり口元からこぼれる八重歯が魅力的だった。B29とあだ名される。日赤看護婦になるのが夢だった。必死に止める母を制して看護隊に入隊。
6月22日、国吉の上の壕で火炎放射を浴び大火傷(頭から背中にかけて焼け爛れる)を負い、米軍に救出され宜野座の米軍病院で父親と再会。羽地にいる家族のもとへ帰るが、マラリアで衰弱して1年後の7月27日死亡。

◆安森信子 嘉手納町嘉手納出身。当時、那覇を起点に北は嘉手納、南は糸満、東は与那原まで通って  いた軽便鉄道で嘉手納から通学していた。学校からは一番遠かった。朝7時の汽車に乗っても、しばしば故障して立ち往生、息せききって教室に駆け込んだ。十・十空襲後は約20キロを徒歩で通う事もあった。途中まで一緒になる国吉輝子と学校が終わると物も言わず二人で速足で家を目指した。綺麗な声の持ち主でコーラス部員だった。国吉輝子が本土に疎開する時、『疎開するなんてお馬鹿さんね』と言った。
6月22日、胸を病み、アメーバ赤痢にも罹って高熱で苦しみ国吉の上の壕で上原テル子の側で米俵の上に寝ている所をやられて戦死。
◇與那覇昭子
◆與那覇文 北谷町桃原出身。小柄。色白で細面。優しい人だった。上の壕勤務。解散後、11名(伊芸澄、垣花初江、桑江豊、親里智子、平良百合子、仲宗根貞子、長嶺ミヨ子、比嘉鈴子、比嘉光子、真栄城節子)で逃避行。波平の畑で通信隊に入った二中2年生の弟と会う。
6月10日、波平の山の中で重傷を負い、伊敷の山第二野戦病院(轟壕)に運ぶが艦砲弾に再びやられて腹部貫通で背中から腸が飛び出していた。軍医の手で処置されるが出血多量で死亡。真栄城節子から棒島風のモンペを借りて着ていた。
◇与那原和子 3月27日除隊。母を亡くし独りぼっちになり、摩文仁で長嶺ミヨ子らと出会い、共に行動する。


◆上江洲須美

久米島仲里村出身。村でも評判の色白美人で、三つ編みのお下げが美しかった。那覇で祖母の家から通学していたが、十・十空襲で学校が焼けてからは郷里に帰っていた。昭和20年2月6日、卒業証書が欲しくて久米島から那覇に帰る途中、船が沈没、死亡。二中2年生の弟、盛文も一緒に乗っていた。

◆上原政子

那覇市垣花出身。背のすらりとした美人。肌は少し黒かったが目鼻立ちのはっきりした娘だった。コーラス部員として活動。昭和19年8月22日、祖父母と共に熊本の父親の所へ疎開するため対馬丸に乗り戦没。熊本の税務署に務める父親の所へ向かう途中だった。

◆大城勝子

那覇市久米出身。色白で均整の取れた体格でおとなしかったが機転のきく人だった。国語が得意。ひ弱なため看護隊には参加できず。昭和20年6月初旬那覇市小禄の民家の壕で直撃弾を受け母親と共に戦死。

◇神里綾子

昭和191211日、糸満線の軍用列車が爆発し、大里村稲嶺で重傷。

◇金城貞子

十・十空襲で家財産を失う。その夜、家族7人(両親と子供5人)で北谷の叔母の所へ向かう。真っ暗な道中は沢山の人々が歩いていた。何日か経った頃、焼け残った知事官舎で授業が再開され、北谷から徒歩で通学した。そのうち、那覇にある熊本に疎開した叔父の留守宅で暮らす。家族全員で疎開するつもりで県庁に手続きに行ったが、父が防衛隊義務年齢だと許可が下りなかった。
弁が岳の麓にある西原村に疎開したが、弁が岳には通信隊がいて毎日爆撃にさらされ、米軍が上陸した事を知り島尻方面に移動。米兵に目の前で父親を殺される。

◇照屋小夜子

陸上部。十・十空襲で家が焼け残り、オルガンがあったので、ある日、上原春江、宮城須美子たち数人が集まり思い切り歌った。ふと見ると塀の上に二中の生徒が首を並べて聞き惚れていた。

◆仲村渠幸子

玉城村前川出身。目鼻立ちのはっきりした色白の娘。髪を結いジーファーと呼ばれる簪を挿して琉装すると典型的な琉球美人になった。うなじが透き通るように白く、語りかける時の目元が綺麗で、その琉装姿は絵画の先生、名渡山愛順のモデルにもなった。ダンスが得意でどんな歌にでも創作して踊った。男勝りの気性。バレーボール部で活躍し体操教師になるのが夢だった。
家庭の事情で看護隊に参加できず。防衛隊に入隊していた父の戦死を知ったその夜、『仇を討ってやる』と言って、斬り込みに行く石部隊の兵に混じって軍服、鉢巻き姿で出て行き、その最期はわからず。女子挺身隊として滋賀県の近江航空にいた姉、敏子に何通も手紙を書いている。

◆新屋敏子

具志頭村安里出身。真面目な性格で学業も優良、学級の分隊長をしていた。農家育ちで二高女のお嬢様とは違い、気取りのない純朴な娘だった。ブラスバンド部に属しトランペットを吹いていた。当時、ブラスバンド部は二高女しかなく、県の行事には必ず参加した。汽車通学していたが、空襲で鉄道が破壊されてからは徒歩で通学していた。
期末試験終了の昭和191211日、兵隊に乗ってもいいと言われ、糸満線の軍用列車に便乗、5時30分頃、大里村稲嶺駅近くで積み荷の薬品、弾薬が爆発して爆死する。東風平で陸軍主催の合同葬があり同級生が参列してその死を悼んだ。

◆屋宜文子

東風平町屋宜出身。背が高く、がっちりとした体格で明朗快活、バレーボール部で活躍。
昭和191211日、糸満線の軍用列車が爆発し、大里村稲嶺で死亡。


◆酒井美代子 3年生。小柄で可愛い人。東風平の壕に避難していて、ある日、金城幸子と出会う。爆風にやられて左腕をもぎ取られてしまう。






◎白梅隊の関係者



・安井二郎

軍医少佐。富盛の山第一野戦病院長。

・梅沢善男

軍医大尉。東風平分院勤務。

◆廉嵎茂樹

軍医中尉。第24師団野戦病院看護教育隊(山3486廉嵎隊)長。

◆石黒信芳

軍医中尉。関西出身。上の壕勤務。

◆金井正成

薬剤中尉。4月23日、艦砲の直撃弾を受け薬剤室で戦死。

◆神津修

軍医見習士官。教官。大柄で柔和な顔に度の強い眼鏡をかけていた。

◆米田卯吉郎

衛生軍曹。第4内務班長。東風平分院勤務。6月22日、国吉の壕で戦死。

・笠島由次郎

衛生伍長。第5内務班長。中背で小太り、髭面の丸っこい顔。

・高森

衛生伍長。第2内務班長。山第二野戦病院で平良百合子と会う。

・宮田

衛生伍長。第3内務班。

・土肥 衛生伍長。第1内務班。
・井田友義

衛生伍長。

◆野中政雄

衛生伍長。4月23日、艦砲の直撃弾を受け薬剤室で戦死。

◆北井利水

衛生伍長。4月23日、艦砲の直撃弾を受け薬剤室で戦死。

◇村田

衛生伍長。山第二野戦病院で平良百合子と会う。

◆矢野武雄 衛生兵長。6月22日、国吉上の壕で自決。『勘太郎月夜』が得意で東風平の看護教育時代によく美声を聞かせてくれた。
◆鈴木英順

衛生上等兵。僧籍にあったので上の3人のお通夜を行う。6月22日、国吉上の壕で自決。

・内田和三郎

衛生上等兵。上の壕勤務。医者の卵。

・野田隆平

衛生上等兵。上の壕勤務。度の強い眼鏡をかけていた。気立ての優しい衛生兵で長嶺ミヨ子はアンプル入りの50tの蒸留水やブドウ糖を飲ませてもらった事がある。

・正善寛治

衛生上等兵。炊事班。東風平の教育隊の時も炊事班だった。門歯2本が銀冠だった。

・川平 看護婦長。
・高良

看護婦長。女学生の責任者。

・金城奈津子

看護婦。上の壕勤務。

・譜久山ハル子

看護婦。東風平分院勤務。

・伊良波 看護婦。東風平出身。
◆新垣春子

看護婦。優しくて親切だった。解散後、嘉陽よし子と諸見里和子と一緒に壕を出る。壕を出て1時間もしないうちに砲弾にやられて戦死。手相を見るのが上手で生徒たちからカミンチュ(神人)だと言われる。

・新垣ヨシ子

看護婦。内科勤務。解散後、宮城須美子と一緒に行動する。

・津嘉山春子

筆生。6月21日、国吉下の壕で火炎放射を浴びるが生き残る。

・津嘉山キヨ子

筆生。6月21日、国吉下の壕で火炎放射を浴びるが生き残る。

◆高橋

伍長。背が高く大柄。ガジャンビラの高射砲兵。真壁集落で長嶺ミヨ子らと会い、行動を  共にする。波平の山の中で砲弾にやられ、出血多量で死亡。

・西村

上等兵。ガジャンビラの高射砲兵。




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