酔雲庵

侠客国定忠次一代記

井野酔雲

創作ノート




田村栄太郎著「やくざの生活」より



  • 寺社の縁日、祭日のある日を高市(たかまち)と言う。
  • 三下は賭場の表番(見張り)、下足番、使番などをする。
  • 添書のない旅人に出す草鞋銭は二分、添書のある旅人には5両または10両の草鞋銭、場合によっては盆の上の取り持ちとなる。
  • 戸を開けて中に入り、『旅の者ですが、お頼み申します』と入って三歩半進み、一足戻る。
  • 生絲と織物のため、上州の農村は早くから貨幣経済が発達した。
  • 宿場の問屋場の雲助や馬子も博奕を打つ‥‥‥取締出役の先触れを知らせてくれる。
  • 一家には親分、子分、孫分、兄弟分、叔父分、隠居の身分階級がある。
  • 子分には手作り若者、譲り若者、世話内の三つがある。手作り若者は親分が作った子分、譲り子分は先代の親分から盃を貰って子分になった者が、新親分になって改めて盃を貰った者、世話内は他家から来て子分になった者で、絶対に親分の跡目相続はできない。子分のまた子分は孫分という。
  • 三下奴は子分の盃を貰っていない者で、子分の盃を貰うには半年から二、三年はかかる。テラ銭の配分は受けられない。独立して生活する事ができず、親分の所に食客となり雑役をする。
  • 兄弟分には@五分の兄弟分、A四分六の兄弟分、B七三の兄弟分、C二分八の兄弟分の四種がある。@は親分と対等の兄弟分で、彼らはお互いに『兄弟』と呼ぶ。Aは兄分が六分、弟分が四分で、兄は弟に対して『兄弟』と呼び、弟は兄分を『兄貴』と呼ぶ。Bは兄分が七分、弟分が三分で、兄は弟を『お前』と呼び、弟は兄分を『兄さん』とさん付けして呼ぶ。Cは兄分が八分、弟は二分で、兄は弟を『お前』と呼び、弟は兄を『兄さま』とさま付けにして呼ぶ。何分の階級が変われば、盃を改めるが、これを『盃を直す』という。
  • 叔父分にも@叔父貴、A叔父御、B叔父様の三種ある。@は先代親分の弟分、Aは先代親分の五分五分の兄弟分をいう。Bは先々代親分の兄弟分をいい、親分の次に尊敬される。
  • 貸元は一定の地域に縄張りを持った親分、代貸はその下にいて賭博場の管理などをする。中盆は勝負の進行をはかり、一家では兄貴分に当たる。出方は子分で賭場でお茶を出したり使い走りをする。三下奴はハシゴ番、履物番、見張り番などをする。
  • 出役が泊まる旅籠屋を御用宿といい、飯売女郎屋が多い宿場では順番に御用宿を負担した。出役の宿泊は宿場の困りものだった。
  • 八州廻りの巡回の状態は、道案内が木刀を差し、法被(はっぴ)を着て先に行く。次に出役は御馳走の人馬といって、宿村負担の無賃カゴに乗り、目明しは後から歩いて行く。
  • 斬首刑の者でも三十両位出せば、出役から貰い受ける事ができた。
  • 箱田の兵五郎は大前田栄五郎、大場の久八と兄弟分の親分だった。


  • テキ屋の隠語

    アイツキ‥‥‥挨拶、仁義を切る
    アゲイタ‥‥‥賭博開帳の現場
    イカサマサイ‥‥‥詐欺采
    イカサマシ‥‥‥詐欺賭博常習犯
    イチバハジメ‥‥‥市場で初めて賭場開帳をいう
    イロ‥‥‥情婦
    オケラ‥‥‥博奕に負けた者
    オトシマエ‥‥‥解決
    カタギ‥‥‥素人
    グシロク‥‥‥五四六、大目博奕
    コマ‥‥‥金銭代用の木札
    コマス‥‥‥口説く
    コム‥‥‥続く
    ゴロ‥‥‥喧嘩
    ズラカル‥‥‥逃げる
    タカモノ‥‥‥見世物、興業物
    ダンビラ‥‥‥刀
    テメバクチ‥‥‥詐欺博奕
    テナグサミ‥‥‥博奕の総称
    トッポイ‥‥‥大、太い、広い
    ドヤ‥‥‥宿屋
    ナグリコミ‥‥‥闖入
    フケル‥‥‥逃げる
    ヤサ‥‥‥自宅
    ヤバイ‥‥‥危険
    ヨロク‥‥‥利潤、儲け
    ワタリヲツケル‥‥‥喧嘩を吹っかける


  • 花札の符牒‥‥‥1はチンケ、2はニゾウ、3はサンズン、4はヨツヤ、5はゴケ或いはナカミチ、6はロッポウ、7はシチケン、8はオイチョ、9はカブ。
  • 忠治の頃、国定村の戸数は164戸、石高は640石。田部井村は戸数139戸、石高は407石。
  • 忠治は田部井村の辰の家、又八の家を賭場とした。境村、神谷村にも賭場があった。
  • 無宿の佐与松が手目博奕をして百姓を欺き、忠治に懲らしめられる。
  • 世良田村道案内幸助、木崎宿道案内左三郎、木崎宿道案内馬太郎、太田宿道案内苫吉。
  • 日光の円蔵は下野国都賀郡落合村板橋生まれ。
  • 日光の円蔵の妻(1802−)‥‥‥1824年、桑名を脱走し、円蔵の妻となる。
  • 忠治は大前田栄五郎を叔父御と呼んでいた。






日光例幣使道



  • 1647年より1867年まで一度の中止もなく行われた。1846年は天皇が亡くなったため一月遅れになった。
  • 東照宮の祭祀は毎年4月15日より17日にかけて神式によって行われ、これを例祭といった。
  • 1815年は東照宮の第二百回の神忌が盛大に行われた。
  • 例幣使は参議以上の公卿をもって任命された。
  • 1864年に例幣使に任命された中御門中将の場合、一行は66人。普通50〜60人程だった。
  • 例幣使は毎年4月1日午前4時に京都を出発し、4月15日に日光に到着した。
  • 例幣使は毎年、京都より持参した金幣を東照宮の神前に捧呈すると、代わって旧幣を神前より下げて、これを細かに刻んで奉書紙に包み、帰路江戸に至り奉書紙の表に東照権現様御神体と記して江戸在住の大名に配布し、家格に応じて御礼として相当額の金品を受け取った。これを初穂料といった。日光例幣使は帰路初穂の恩恵で、安楽な生活が保証された。この他、例幣使は往復の道中において『御供料』といって、天皇が正月三ケ日に神前に供えた御膳飯を洗って乾燥して乾飯(ほしいい)にしたものを毎年持参し、これを十六葉の菊の紋を付した包み紙に包んで休泊代として与えた。庶民はこれを保存して病気の際に服用したという。
  • 例幣使が庶民から尊信を受けた事から、随員の中には主人の権威を利用して道中において、しばしば言語同段の狼藉に及ぶ者があった。たとえ、狼藉の行為がなくても、各宿場の役人は事前に心付を差し出す場合が多かった。心付を『入魂』といい、日光例幣使の随員には特に、狼藉の行為が多かったといわれる。
  • 1815年の柴宿には弥市、利左衛門、九郎右衛門、小暮藤吉、林兵衛らの旅籠屋があった。
  • 1865年の柴宿には小暮藤吉、関根仲助、市左衛門、浅次郎、民左衛門らの旅籠屋があった。
  • 倉賀野→@玉村宿→A五料宿→B柴宿→C木崎宿→D太田宿→E八木宿→F梁田宿→G天明宿→H犬伏宿→I富田宿→J栃木宿→K合戦場宿→L金崎宿→壬生通りと合流。



◇玉村宿(1646年以降、宿場となる)

  • 玉村宿に杉並木あり。賑わう八幡宮の祭日。
  • 宿場の中央に玉村八幡宮が鎮座し、西が上新田624間3尺、東が下新田809間5尺、合わせて1434間(約2610m)余。
  • 倉賀野方面から滝川の橋を渡ると上新田。渡った所から北上するのが三国通り。街道をしばらく進むと宿場となり角町。その口に柵が食い違いにある。北側に万福寺、稲荷社があり、さらに東に進んで蛭堀(ビリボリ)の用水を渡って四丁目。八幡宮の前に問屋場がある。上新田はここで終わる。五、六丁目の境に用水路があり、六丁目に入った北側が『御高札場』、その東が本陣木島氏宅。その東にもう一つ御高札場があり、南側から三国通り本庄道が分岐する。七、八丁目の境あたりに柵があり、九丁目をもって宿は終わるが、そこにも柵がある。
  • 寺社を含めた家数は241軒、寺社を除くと236軒。本陣は533坪の宅地を持っていた。
  • 1868年、玉村の旅籠屋
    角萬屋佐重郎(目明し、宿場の中程にあり)、萬屋幸兵衛(玉斎楼、女郎屋、部屋数80室)、
    湊屋寅蔵(女郎屋)、岸屋禄助、音羽屋萬吉、綿屋清三郎、淀屋善作、中屋庄作(女郎屋)、新本屋歌吉、藤木屋桂作、茶屋加賀屋平左衛門、茶屋伊勢松、沢田屋助左衛門、沢屋助左衛門(女郎屋)、井筒屋忠五郎、富沢屋文左衛門、関根屋三右衛門、梅本屋庄蔵、片岡屋嘉藤次、三升屋庄助、新山市屋台蔵、新伊 勢屋与茂七、中の屋力蔵、水本屋曾平、伊勢屋善助、二見屋清之助、千代本屋新兵衛、大黒屋清兵衛(問屋)、福葉屋清吉、金沢屋こま、永楽屋政吉、新音羽屋作次郎、吉野屋太郎助、常盤屋(女郎屋)、宝莱屋(女郎屋)、比翼屋(女郎屋)、福屋(女郎屋)峯屋(女郎屋)。
  • 玉斎楼は江戸の吉原にも2軒とはあるまいといわれた程豪奢な構えで、岩鼻代官がよく利用していた。代官の遊ぶ部屋は天井は格天井で金無垢の屏風や襖があり豪華絢爛だった。
  • 1701年、問屋は8軒。上新田四丁目の井田金七郎と門右衛門。下新田五丁目の加賀美清兵衛(大黒屋)と八左衛門、下新田六丁目の新兵衛と太郎兵衛、下新田七丁目の富田四郎左衛門と庄次郎。
  • 萬屋の千輝玉斎は本名は町田幸兵衛、中之条より婿入りする。自家の襖絵は自分で描いて、鶴の間とか松の間とか呼んだ。



◇五料宿(五料関は1616年に設置される)

  • 旅籠屋は10軒、木賃宿8軒。高砂屋他。
  • 1835年の名主は船問屋の高橋清兵衛、年寄は新河岸の船問屋服部茂右衛門、臨時本陣の沼田善右衛門。



◇柴宿(伊勢崎藩領)

  • 1805年、柴宿の長さは12町48間で、道幅は2間、宿内の戸数は107軒、人口431人。加宿中町の往還の長さは4丁54間、宿内の戸数49軒、その内、旅籠屋3軒。
  • 本陣は上町にあり、関根甚左衛門家が代々世襲し、名主、年寄、問屋を兼ねる事が多かった。
  • 1865年当時の旅籠屋
    伊勢屋浅次郎、升屋長右衛門、柏屋武左衛門、入升屋市左衛門、若松屋仁右衛門、金木屋平七、林屋嘉右衛門、半勝屋九郎右衛門、金吉屋増太郎、吉野屋利左衛門、橋本屋伝次、相沢屋作右衛門、中沢屋権吾右衛門、草屋新右衛門、十一屋伊左衛門、藤屋善助。
  • 柴宿の那波八幡。



◇境宿(間の宿、伊勢崎藩領)

  • 町の四隅に丁切と称した木戸口があり、東丁切は木崎、世良田へ通じ、南口は平塚、江戸道、北口は大間々道で、西口は柴、伊勢崎へ通じた。丁切には9尺の柱があり、左右に40本ほどの木柵がしつらえられ、丁切口はいずれも1丈である。丁切には扉があって、夜は締め切られた。丁切の傍らに番小屋が設けられていた。西の丁切を出ると道が左右に分かれるが、そこに見上げる程立派な道しるべがあった。
  • 二の日、七の日の六斉市。西の丁切の辺りに立てられる六斉市を上市(かみいち)といい、次の市は中市、東の丁切の辺りで下市が立つ。月六斉を三町内で順番に行った。
  • 尾島宿まで人馬賃銭は荷物1駄59文、乗掛荷人は同額、軽尻39文、人足1人29文が御定賃銭。伊勢崎まで本馬、乗掛荷人は78文、軽尻馬52文、人足39文。1駄は40貫。乗掛荷人は人が乗って荷物を付けたものをいい、軽尻は人が乗って荷物を付けないものをいう。
  • 北口の丁切の西角に桐屋という飲み屋があった。伊三郎と文蔵が口論した所。
  • 平塚河岸
    利根川、広瀬川の合流点にある舟河岸で、舟問屋、河岸問屋があり、江戸への舟運が盛んだった。上河岸には北清とか京屋という問屋が集まり、下河岸は多く船頭や駄賃馬稼ぎの馬方人足がいた。この河岸から江戸へ津出しする物は米、雑穀、薪炭が主で、江戸から入る物は雑貨、酒、醤油、塩、肥料などが多かった。輸出入する品物の多く馬の背で運送するため馬方人足が多かった。この付近は男が給金の良かった船頭になるため、女たちが姉さんかぶりで馬を曳いていた。大船が平塚まで逆上ったのは余程古い昔で、江戸中期以降になると少し下流で荷物をハシケに移して運び、空の大船は綱をつけて陸の舟曳人足が引き上げた。平塚にも渡しがあったが、境町からの江戸道は下流の中瀬渡しを道筋とした。
  • 尾島宿‥‥‥5・10の六斉市があったが、あまり盛んではなかった。
  • 伊勢崎宿‥‥‥広瀬川は明治になるまで舟が上下していた。中島河岸問屋井上重兵衛が取り仕切る。
  • 本庄宿に行くには島村の渡し舟を利用した。
  • 当時金1疋は25文。
  • 武士(たけし)の渡しは常水の時2文、出水の時、3文。



◇木崎宿(旗本水野家支配)

  • 1804年、家数は寺院4ケ寺(大通寺、医王寺、長命寺、長福寺)、宿屋144軒、内訳は本陣1軒、旅籠屋27軒(大7軒、中8軒、小12軒)、問屋上下2軒、下役人2軒、酒店12軒(造り酒屋1軒、居酒屋6軒、煮売屋5軒)、商人20軒、他は農家。農家は農業の片手間に宿往来の荷物を運搬し、駄賃を稼いでいた。女は木綿糸つむぎをして境宿に売っていた。
  • 1845年の旅籠屋は29軒(大9軒、中7軒、小14軒)、女郎は183人。幕末には36軒。
  • 旅籠屋
    林屋(1815年、中島孝兵衛、玉村の千輝玉斎の親類で宿役人と岡っ引と上問屋を兼ねる)
    藤屋(1815年、桑原彦七)
    吉田屋(国定忠治の妾であった飯盛女おとらがいた。忠治が入牢中、おとらの差し入れ以外は食べなかったといわれる)
    武蔵屋、柏屋、関根屋、内林、中沢等があった。
  • 飯盛女‥‥‥化粧する時間は申の刻(午後4時)となり、髪結いの日は毎月13日となっていた。昼の外出は禁止、青色暖簾を使用した。年季奉公の形式で宿の飯盛女は主に越後より来たといわれる。島田屋の女将は年2回会津街道を通って越後の娘を5、6人連れて来たという話も残っている。
  • 木崎女郎とかけて夕立と解く、心はカサを背負って帰る。
  • 1887年の女郎屋
    斎藤(30人)、内林(20)、金川(20)、吉野屋(20)、関根屋(20)、武蔵屋(20)、中沢(10)、新竹(5)、丸川(5)、丸上、竹林、田中屋、八百林等。
  • 茶屋‥‥‥営業時間は明け六つから暮れ六つまでとし、日が暮れてから客を置く事は禁じられていた。藤岡屋、近野屋、池田屋、茶屋中沢等の名があった。
  • 造り酒屋は泉屋。他に和田屋呉服店、髪結床屋の東屋、梶屋穀物店。
  • 木崎宿の中央に四辻があり、この辻を北に行けば大通寺大門に出る。南に曲がるとすぐに牢屋があった。
  • 宿場の東外れに色地蔵があり、女郎たちの信仰が厚かった。
  • 宇橋下の南西宿裏に貴先神社があり、御神体は歓喜天であり女郎の信仰が厚かった。
  • 女郎宿として例幣使街道一繁栄した。
  • 木崎宿は四の日、九の日の六斉市。
  • 1798年、柴宿まで荷物1駄  179文。太田宿まで荷物1駄 68文。
    1867年、柴宿まで荷物1駄1貫184文。太田宿まで荷物1駄518文。
  • 問屋場は2名いて1月を半分に分けて半月務めになっていた。本陣、年寄を兼ねた茂木郡蔵と年寄、問屋を兼ねた大助。その下に下役人2人と馬指1人が業務を行っていた。郡蔵の前の本陣源右衛門と大助の前の年寄甚 右衛門等の相談役だった。
  • 上問屋は中島林屋と号し、下問屋は斎藤松の木と号した。







1833年の物価

  • 本庄宿一泊‥‥‥172文。
  • 米8斗‥‥‥1両。
  • 鯛一匹‥‥‥75文。
  • 草鞋‥‥‥7〜10文。
  • 酒‥‥‥12文。
  • 信濃川渡賃‥‥‥12文







佐波郡東村の寺社


  • 八幡社(西小保方二番地)‥‥‥例祭4月10日。
  • 大東神社(東小保方三二九七番の二)‥‥‥例祭4月10日、10月17日。
  • 赤城神社(国定字天神前一五二八)‥‥‥例祭4月10日、7月15日、10月17日。
  • 鹿島宮(田部井一一二六番地)‥‥‥例祭4月10日、10月17日。
  • 三室神社(東小保方四六三九番地)‥‥‥例祭4月10日、秋季大祭10月17日。明治42年、雷電神社、稲荷神社らを合祀する。
  • 小泉稲荷社(東小保方一五五の一)‥‥‥
  • 法福山海潮院龍善寺(東小保方字台二五五三の一)‥‥‥天台宗山門派。本尊阿弥陀如来。
  • 真光山永照院長安寺(西小保方字寺付三〇四の一)‥‥‥天台宗山門派。本尊阿弥陀如来。
  • 白狐山浄行院西福寺(田部井字横町1)‥‥‥浄土宗。本尊阿弥陀如来。
  • 金城山常楽院養寿寺(国定字寺内出1)‥‥‥天台宗山門派。本尊阿弥陀如来。
  • 円明院(田部井)‥‥‥養寿寺の別院。本尊金毘羅権現。六世成玄(1818−83)
  • 宝蔵院(西国定)



  • 1月20日‥‥‥えびす講。
  • 4月8日‥‥‥赤城山の山開き。この日、地蔵岳に地蔵像が立つ。普段は寝せて置く。
  • 7月15日‥‥‥赤城神社の夏祭り。
  • 8月15日‥‥‥十五夜。若い者はこの夜、遊び歩いた。
  • 9月17日‥‥‥オクンチ。秋祭り。
  • 10月20日‥‥‥えびす講。
  • 国定の鎮守、赤城神社の祭りは4月10日と10月17日。
  • 田部井の愛宕神社の祭りは1月25日。
  • 東小保方の小泉稲荷の祭りは4月15日。
  • 東小保方台の観音様の縁日は4月18日、8月18日には盆踊り。



◆東村の字名

  • 東小保方‥‥‥ヒガシオボカタ
    田部井‥‥‥タメガイ
    国定‥‥‥クニサダ
    上田‥‥‥カミダ
    西小保方‥‥‥ニシオボカタ
    大久保‥‥‥オオクボ
    八寸‥‥‥ハチス



◆1852年、国定村の戸数は157軒。戸主は次の通り。

  • 《西》国定八郎右衛門、同辰右衛門、同豊吉、同亀右衛門、同正兵衛、同伝左衛門、同半兵衛、同梅治郎、同熊蔵、同治兵衛、同おこん、諏訪宇兵衛、同七右衛門、同久兵衛、同藤重郎、同竹造、同宗八、同和兵衛、同庄八、同喜兵衛、同亀蔵、同平作、同金兵衛、同仙蔵、同吉介、同久治郎、同金重郎
  • 《東》諏訪嶋吉、同春吉、同勝五郎、同清蔵、同清作、同弁蔵、同秀治郎、同周蔵、同房吉、同六右衛門、同善治郎、同弥蔵、同平四郎、同安蔵、同増治郎、同芳蔵、同彦七、同富蔵、根岸治兵衛、同金五郎、同太郎八、同重兵衛、同惣治郎、同三代蔵、同久介、同金右衛門、同藤蔵、同助兵衛(組頭)、同弥平、同吉五郎、同門吉、同友八、同初太郎、同幸太郎、同幸吉、同甚兵衛、同宮本院、同栄蔵、同助右衛門、同弥介、同浅右衛門、同糸蔵、同丑五郎、同忠太郎、同勘蔵
  • 《西》松原清八、同三蔵、同初右衛門、同藤兵衛
  • 《東》松原亀治郎、細野市之丞、同瀬太郎、松原又兵衛(名主)、同丈次郎、同孫兵衛、同佐文治、同粂蔵
  • 《西》角田小右衛門、松原佐金次、同吉松、同鉄造、同清兵衛、同元治郎、同兵三郎、同甚右衛門、同勇八、長岡市太郎、同源左衛門、同伊勢吉、◎同友蔵、松原与七、船戸喜重郎、同幸治郎、同弥平、長岡喜平、同おひゃく、松原与八、久保田作吉、同平吉、同惣七、同源治郎、同鶴吉、同勘右衛門、同新之丞、同定八、同富蔵、向田多四郎、同弥文治、同善左衛門、同三治郎、新井嘉平、同弥左衛門、同佐吉、同茂治郎、同軍治郎、向田 佐平、同与左衛門、久保田弥四郎、大山小文治、同兵太夫、同八十五郎、同常右衛門、同武兵衛、同六右衛門、同助治郎、同兵吉、同安蔵
  • 《東》大山源蔵、同仲右衛門、黒田八右衛門、森田茂平
  • 《西》高橋定治郎、同勝蔵、同関蔵、同仁兵衛、同政兵衛、同和吉(組頭)、同要右衛門、金子重右衛門、同仙蔵、岡野宝蔵院、同庄兵衛、同久右衛門、同勘蔵、関口藤作、同源之丞、若林喜曽治、〆157軒。




  • 男は羽織を着るのが正式だった。
  • 明治の頃まで、麦が七、米が三ぐらいの割合だった。国定は粟どころとして有名だったため、粟飯も食べた。
  • やきもち‥‥‥あまりご飯を小麦粉と混ぜて固めにこねて丸めてほうろくで油をひかずに焼く。トウガラシを入れて作ったものは酒のつまみになった。
  • くわっぱもち‥‥‥やきもちを桑の葉でくるんで、ほどの中にくべて焼く。
  • ほどやき‥‥‥余りご飯と味噌と小麦粉と炭酸を少し混ぜてこね、土ぼうろくで焼き、ほどにくべる。
  • じりやき‥‥‥小麦粉を水で柔らかめにこねて、薄めに丸めて、ほうろくに油を少しひいて焼く。
  • つめっこ‥‥‥すいとん。寒い頃、作って食べた。
  • にぼうと‥‥‥おっきりこみ。寒い時の夕飯。
  • お盆、正月、祭り、葬式、庚申待ちの時など、不幸の席に行けば米の飯が食えた。
  • けんちん汁‥‥‥正月、えびす講、稲荷祭り、庚申待ちの時などに食べた。
  • うどん‥‥‥不幸の時にはうどんは出さない。御祝儀にはうどん振る舞いと言って出した。御祝儀の時、赤飯と一緒にうどんを出した。
  • そば‥‥‥大晦日とか正月三が日くらいしか食べなかった。御祝儀の時、そばは切れたがるといって出さなかった。
  • わらもち‥‥‥飢饉の時、わらの粉を小麦粉と混ぜて増やして作る。



  • 千住、板橋の飯盛女の揚げ代は昼600文、夜400文。
  • 1776年、1832年、田部井村の名主は尾内弥平次。






高野長英



  • 1839年12月28日、長英に永牢の判決が下る。伝馬町の牢舎に収監される。
  • 1844年6月27日、長英、牢舎の火事を機に脱走する。
  • 長英、沢渡の湯に潜伏し、自らその顔を硝酸銀で焼く。
  • 1845年、長英、渋川村の医師木暮足翁(−1862)を訪ねる。長英は地球儀と万国地図を持参する。
  • 長英は大酒のみで女ったらしだった。
  • 渋川村の足翁のもとに数十日間滞在し、沢三伯と名乗り、百姓たちの治療を行った。
  • 渋川村から沢渡村の福田宗禎(かつての門人)の家に立ち寄り、数十日間滞在。
  • その年の暮れ、横尾在住の門人高橋景作の許に身を寄せる。
  • 中之条の鍋屋旅館(柳田)に滞在中、幕府隠密に襲われた渋川村の福島甲斐(嘉一)を治療する。
  • 1846年晩春には江戸に戻る。
  • 吾妻地方の蘭医
    《中之条》望月俊斎、望月文郁、吉田尚敬、池田宗甫 《西中之条》小島元長
    《伊勢町》木暮俊庵、木暮茂八郎、柳田鼎蔵(鍋屋)、小板橋謙斎、新巻貞益 《尻高》松井貞純 
    《横尾》高橋景作、関恒斎 《平》秀伯 《大塚》吉田英、吉田忠徳、林隆益、林台作
    《沢渡》福田浩斎、福田文同 《原町》尾嶋俊司 《三島》高橋元貞、玄泰 《大笹》栃原重次郎
  • 協力者
    《中之条》町田明七、田村八十七 《伊勢町》根岸権六 《尻高》都筑利藤太 《赤岩》湯本俊斎
  • 1850年10月30日、江戸青山で自殺。





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