酔雲庵


時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲

創作ノート





戦国時代のキリスト教




  • 宣教師はバテレン(伴天連)。修道士はイルマン(伊留満)。キリストはデウス。
  • 1549年8月15日、フランシスコ・ザビエル、ヤジロウと共に鹿児島に来る。
  • ザビエル、フェルナンド、日本人青年ベルナルドを連れて、京都に向かう。
  • 大坂と書いてオオザカと読んだ。
  • ザビエルは堺に着くと港にすぐ近い櫛屋町の日比屋という商人を訪ねるが厄介払いされ、住吉神社の御旅所の松林で野宿する。
  • 京都に失望し、ザビエルは土産を持って山口の大内義隆を訪ね、歓迎される。
  • ザビエルは豊後の大友(おおども)宗麟を訪ねた後、二年半滞在した日本を去る。
  • ザビエルは1552年、シナ大陸を前に46歳で死す。
  • 1557年、日本人青年ベルナルドはローマに行くが、その年に死ぬ。
  • ホルトガルの基地はマカオ。スペインの基地はマニラ。
  • 中国から生糸、絹織物、ビロード、白粉、陶器、麝香、より糸、鉛を持って行き、日本から銀を中国に運んで儲けた。
  • 長崎は1571年よりポルトガル人に利用されるようになり、日本各地から商人が集まってくる。
  • 1582年、キリシタンの数は15万人。そのうち11万五千人が、下(しも)といわれた地区(平戸、大村、島原、天草など西九州)におり、さらに、そのうちの7万人が大村領にいた。豊後に1万人、都に2万五千人。宣教師の数は85人、その中の32人がバテレンと呼ばれた司祭。
  • ポルトガル船は南風に乗って夏に来て、2月頃の北風の乗って南に去った。
  • ルイス・フロイスは1563年、西彼杵半島の横瀬浦に到着、1565年に入京する。1568年、信長と出会い、歓迎を受ける。
    1576年、九州に転任。フロイスはインドでザビエルとも会いヤジロウとも会っていた。
    1583年より日本のイエズス会の歴史を書き始める。1597年、長崎で死す。
  • 1564年12月25日、フロイスは堺に着く。27日に大坂の火事に遭遇する。本願寺も全焼し、約九百戸が焼け、百人が焼け死ぬ。
  • 和田はワタ、蒲生はカモ、長宗我部はチョウスガミ、正月はショウガチと読む。
  • 1559年、ガスパル・ヴィレラ(ザビエル以来二人目の司祭.35)がロレンソ(元琵琶法師.34)を連れて京都に上る。
    11月から12月にかけて革の棚(四条通りの新町と室町の間)の山田という後家の家に滞在。
    翌年の1月にかけて玉倉町(烏丸通りの西、三条通りの少し南)に滞在。
    1月から4月にかけて四条烏丸の酒屋に下宿。
    1560年6月にやっと四条坊門姥柳町(四条通り北側の蛸薬師通りの室町と新町の間)に落ち着き三階建ての教会を建てる。すぐ西側が本能寺。
  • ヴィレラは砂時計を土産に妙覚寺に泊まっていた将軍義輝と会い、布教の許可を得る。が、仏教の盛んな京都でひどい目に会い、堺の日比屋了珪のもとに行く。
  • 1563年、結城山城守、清原枝賢、高山飛騨守がヴィレラに帰依して改宗する。
  • 高山飛騨守の友、和田惟政がフロイスを信長に紹介する。
  • 1569年4月3日、信長、二条城の工事現場にてフロイスと会う。信長はフロイスを気に入る。
  • 信長は安土と京都の間に広い道路を作り、その両側に松と柳を植える。瀬田の橋を作り、それは百八十畳の長さの橋で、その中央に休憩所を作った。
  • オルガンティーノは宇留岸様と呼ばれる。
  • ヴァリニャーノは安土にセミナリオを開校する。
  • 1581年、ヴァリニャーノが安土を去る時、信長は盛大な祭りを催す。
  • 南蛮渡来の物‥‥‥ポルトガルの帽子、砂時計、ビードロ(ガラス)、眼鏡、刺繍入りのハンカチーフ、シナのすだれ、コンペイ糖、椅子、洋式ベッド、
  • 奴隷の黒人。
  • セミナリオは7歳から17歳位までの子供が入学。島原半島の有馬と安土の2ケ所。
    夏季は4:30起床、5:00まで祈り、祈り(オラショ)の後、ミサ。
    6:00〜7:30までラテン語の単語を覚え、7:30〜9:00までラテン語の先生から直接指導を受ける。
    9:00〜11:00まで食事と休憩。
    11:00〜14:00まで日本語の勉強。
    14:00〜15:00までは唱歌と西洋の楽器の演奏。
    15:00〜16:30までは再びラテン語の文章の指導を受ける。
    17:00〜19:00までが夕食と休憩。
    19:00〜20:00まではラテン語と日本語の復習。
    20:00に良心の糾明をし、夕べの祈りをして就寝。





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