「キリシタン大名」より
- 山口の大内義隆、ザビエルに教会堂として一宇の寺院を与える。
- ザビエルは山口に五ケ月滞在して、五百人に洗礼を授ける。
- 横瀬浦‥‥‥1561年、ポルトガル船の港になる。教会堂は入江に臨んだ小高い丘の上に建てられた。間口はおよそ12メートル、奥行きは約18メートル程の木造建築。側には宣教師たちの住院もあり、裏手には野菜畠もあった。信者の数は約三百人。二年後に焼け落ちる。
- ヴィレラはロレンソとダミアンを連れて、京都で布教を始める。1560年の夏、四条坊門に買い入れた家にささやかな教会堂を設ける。京都で初めて行われた降誕祭にはおよそ百人の信者が集まって キリストの生誕を祝った。
- 結城山城守(アンリケ)、清原大外記、高山飛騨守(ダリオ)は、ヴィレラより洗礼を受ける。
- 河内八尾城主池田丹後守、白井伯耆守(サンチョ)は、ロレンソの説得により、ヴィレラより洗礼を受ける。
- 河内飯盛城近くの砂の寺内に建てられた教会堂は畿内で最初のものだった。
- 白井伯耆守は三箇島に教会堂を建てる。1565年、京都から宣教師が追放された時、避難所となる。
- 1565年、将軍義輝が殺されると宣教師らは追放され、ヴィレラは飯盛城に、フロイスは三箇に移る。その後、堺に移る。
- 信長がフロイスに布教を許したが日蓮宗の朝山日乗が反対して正親町天皇を動かし、フロイス追放の綸旨を手に入れる。フロイスは和田惟政の助言を得て岐阜まで行き、信長と会って再確認する。
- 和田惟政は高槻に教会堂を建てる約束をするが、1571年8月、荒木村重の軍勢と戦い戦死する。
- 1573年、和田一族を追い出して高槻城主となった高山飛騨守は、惟政の意志を継いで教会堂を建て、その傍らに宣教師たちが泊まるための住宅と大名や貴人を迎える大きな屋敷を建てる。
- 1576年の四旬節(復活祭)に飛騨守は聖週の儀式のためオルガンティノを招く。
- 1570年、オルガンティノは京都に派遣され、ヴィレラは健康を害していたため、インドに帰る。長老のトルレスは74歳で死す。オルガンティノはその年の暮れ、京都に着き、カブラルは翌年の春、京都に入る。フロイスはカブラルを岐阜に案内して、信長に歓迎される。
- 1573年、丹波八木城主の内藤ジョアンは足利義昭に付き、領地を没収されてしまう。
- 河内八尾城主のシメアン池田丹後守は信長に付いたため重く用いられるようになる。
- 京都下京四条坊門の姥柳町にあった教会堂はもともと民家を買い入れて改装したものだったが、長い年月の間に4本の柱の中3本にひびが入り、残り1本は曲がっていた。風の強い時には倒壊の恐れがあり、戸外に出ていなければならない有り様だった。1576年、新しい教会堂が、信長の庇護と高山父子、池田丹後守を初めとする多くの信者たちの献身的な奉仕によって建てられる。工事中、周囲の住民たちから反対の声が上がったが、信長に力によって押さえられる。
- 教会堂は一階が礼拝堂、二階に六部屋を設け、聖母マリアに献じられ、ノッサ・スニヨラ・ダ・アスンサン(昇天の聖母の会堂)と命名される。1576年8月15日の聖母昇天祭はまだ工事が続いていたが、オルガンティノはこの教会堂で最初のミサを行う。1576年12月、降誕祭には豊後からフロイスと交代するため派遣されたジョアン・フランシスコ神父が参加して荘厳なミサが行われる。
- 1577年正月、盛大な落成式が行われる。当日は畿内からたくさんの信者が集まり、高山父子は家族を初め二百人を越える武士たちを引き連れて上京し、その式に列して告解をし、聖体を拝領した。
- 1578年秋、荒木村重が信長に背き、オルガンティノは信長の命で高山右近を説得するが応じず、信長は右近が降りなければ、宣教師すべての磔刑とすべての信者を殺して教会堂の破壊すると告げる。オルガンチィノは佐久間信盛、羽柴秀吉、松井友閑、大津伝十郎と一緒に右近を説得する。それでもうまく行かず、信長は宣教師と信者を監禁。オルガンティノは脱出して右近を説得し、右近は父と別れ、髷を切り大小を捨てて城を出る。右近は出家して余生を教会に捧げる覚悟だったが、信長は許さず、再び、高槻城主に命じた。有岡城開城後、ダリオ飛騨守は右近の忠節に免じて許され、越前北庄の柴田勝家に預けられる。
- 新たに高槻城主となった右近は家臣や領民の改宗に努め、領内の寺社を次々に破壊して教会堂を建てた。1581年、アレッサンドロ・バリニアニ神父がこの地を訪れた時、領民二万五千人の中信者の数は一万八千人にも及び教会堂は二十余ケ所を数えた。
- 安土の三階建てのセミナリオはおよそ一ケ月で完成する。二階には三十四の座敷があり、三階は広間になっている。セミナリオの隣に教会堂を建てる予定だったが本能寺の変のため実現せず。
- 織田信忠も岐阜城下に住院と教会堂を建てる事をオルガンティノに勧め、その敷地として広い地所を与える。
- バレニアニは京都に黒人を連れて来て、評判となり、その黒人は信長の従者となる。京都馬揃えの後、バレニアニは安土に行く。安土のセミナリオには各地から集まった武士の少年が二十五、六人滞在していた。高山右近は城内から8人の少年を選んで送る。セミナリオに入るには髷をきらなければならないという規則があった。
- 1580年頃、全国各地の教会堂の数は大小合わせて二百ケ所。神父、神弟は75人。
- 本能寺の変の時、オルガンティノは安土のセミナリオにいて、危険を感じ、学生28人を連れて沖の島に避難する。セミナリオは略奪され、家の柱と瓦だけとなる。
- 河内岡山の教会堂は結城山城守の甥、ジョルジ結城弥平が建てた。
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