酔雲庵


時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲

創作ノート



織田信長の側近衆




・京都所司代 村井長門守貞勝(−1582.6.2)春長軒。1573年7月より京都所司代となる。
・堺代官 松井友閑( )宮内卿法印。1575年、堺代官となる。

・奉行人 長谷川藤五郎秀一(1555−1594.2)馬廻衆。
     1579年、安土宗論を司る。
1580〜81年、◇バテレン屋敷の奉行を務める。
1582年5月、家康の案内をして京都、堺に行く。
堀久太郎秀政(1553−90.5)馬廻衆。
1580〜81年、◇バテレン屋敷の奉行を務める。
1581年、伊賀攻めでは信楽口の大将を務める。
1581年3月、和泉国の検地奉行として下向。
1582年3月、武田攻略に従う。
1582年5月、家康の饗応役。
1582年6月、備中高松攻めに使者として出陣。
菅屋九右衛門長頼(−1582.6.2)馬廻衆。
1578年6月、播磨神吉城攻めの検使。年末、鉄砲隊を率いて有岡城攻めに参加。
1579年、安土宗論に使者を務める。
1581年3月、能登七尾城代。
1582年5月、家康の接待を務めた後、信長に従って上洛、二条御所で討死す。
福富平左衛門秀勝(−1582.6.2)馬廻衆。
1578年、有岡城攻めの時、中川清秀の誘降に尽力を尽くす。
1580年、前田利家と共に北陸へ派遣される。
1581年9月、伊賀攻めの時、黒田峠を越えて名張郡に侵入。
1582年3月、武田攻めの時、馬廻衆の着到を奉行。
1582年6月、二条城にて戦死。
矢部善七郎家貞( )妻は菅屋長頼の姉妹。馬廻衆。
1579年、安土宗論を司る。
1580年、本願寺と講和後、大坂目付として大坂入城。
1581年、猪子高就と共に青竜寺城の防衛にあたる。
1582年、信長の命を受け、淡路制圧の準備を進める。
万見千千代重元(−1578.12.8)馬廻衆。
1578年6月、播磨神吉城攻めの検使。
1578年12月、有岡城攻めの時、戦死。
猪子兵介高就(−1582.6.2)
1580年、遠江攻撃に参加。
1582年6月、二条御所で戦死。
野々村三十郎正成(1541−1582.6.2)
1582年2月、紀伊方面に遣わせられる。
1582年6月、二条御所で戦死。
湯浅勘助直宗(1545−82.6.2)

・小姓衆 森蘭丸成利(1565−82.6.2)




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