酔雲庵


時は今‥‥石川五右衛門伝

井野酔雲

創作ノート




天正伊賀の乱





1578年 10月 信雄、北畠の被官で伊賀旗頭を務める下山甲斐の案内で滝川三郎兵衛に伊賀中央部丸山に 築城を命じる。
10月25日 伊賀国衆、木津川を挟んだ神戸村の天童山に集結し、丸山城を攻撃。三郎兵衛は敗れ、僅 かな手勢を連れて伊勢に逃げる。
1579年 9月17日 信雄は信長に相談せず独断で一万余騎の兵を率いて伊賀に出兵。長野峠、鬼瘤峠(馬野口)伊勢地口(青山峠)の三方より攻め込み各地で激戦、北畠軍は重臣柘植三郎左衛門が戦死するなど散々の有り様で伊勢に敗走する。
・長野峠‥‥‥北畠信雄(22)八千余騎。
・鬼瘤峠‥‥‥柘植三郎左衛門、日置大膳亮千五百余騎。
・青山峠‥‥‥長野左京大夫、秋山右近千三百余騎。
敗戦の知らせを伊丹出兵の途中、山崎で聞いた信長は信雄を強く叱責する。
1581年 9月3日 信雄を総大将に甲賀口、加太口、信楽口、大和口より伊賀に侵入。総勢四万四千余騎。
・伊勢地口‥‥ 北畠中将信雄(24)、滝川左近一益(57)、京極小法師高次(19)、多賀新左衛門、甲賀衆、阿閉淡路守、阿閉孫五郎、山崎源太左衛門片家(35)一万騎。
・鈴鹿峠‥‥‥ 惟住五郎左衛門(47)ら一万四千騎。
・近江口‥‥‥ 蒲生忠三郎氏郷(26)ら七千騎。
・加太口‥‥‥ 滝川三郎兵衛雄利(39)、伊勢衆、織田上野介信包(39)。
・信楽口‥‥‥ 堀久太郎(29)、永田刑部少輔、進藤山城守、池田孫次郎景雄(54)、山岡孫三郎、青地千代寿、山岡対馬守、青木玄審允、丸岡民部少輔、不破彦三光治、多羅尾彦一ら二千三百騎。
・長谷口‥‥‥ 浅野長政ら一万騎。
・大和口‥‥‥ 筒井順慶(33)、大和衆三千騎。
9月6日 甲賀、加太、信楽口からの三隊が合流し、壬生野城、佐那具嶺へ発向。
9月7日 一の宮など国中の伽藍に放火する。
9月11日 信雄は伊賀の中央部阿加郡、織田信兼は山田郡、惟住五郎左衛門、筒井順慶は名張郡、滝川左近、堀久太郎は阿閉郡に一気に攻め込む。伊賀軍も果敢に抗戦したが各地で敗れた。
伊勢地口から侵入した滝川一益軍は喰代百地砦南一里、比自峡谷に押し入り金泉寺、浄瑠璃寺を襲って火をかけ、僧を殺して火中に投じ、稚児、下男の輩にいたるまで一人漏らさず斬殺した。
古山七郷に進撃する織田信澄の軍兵は、猪田の庄を破り柏尾村の木田の砦に迫って粉砕。砦に籠もる伊賀侍、竹原山城、広田新八初め男女老若数百を斬殺する。
玉滝村の耳須弥太郎、上柘植の福地伊予、島ケ原村の増地小源太は織田軍に降伏し、自ら伊賀掃滅の道案内に立った。この方面の間道、隠し砦や婦女子幼児を避難させている隠れ所まであばかれ、織田軍の急襲を受けて壊滅した。
9月29日 織田軍、比自山の砦を攻める。
・比自山砦‥‥‥ 長田七郷の百田藤兵衛、朝屋村の福喜田将監、音羽村の城戸、新堂の太郎ら11人が旗頭となり、それに従う地侍 136人、角ノ坊ら法師武者 100余人、下忍、雑人 500、妻婢幼女ら2700が土塁をかきあげ、逆茂木をめぐらして立て籠もっていた。
10月1日 伊賀勢、上野の南半里にある筒井順慶の長岡山本陣に忍び寄り、順慶を追い出す。
10月2日 比自山砦の伊賀勢、落ちのびる。
10月8日 織田軍、名張の南一里の柏原砦を包囲する。
・柏原砦‥‥‥ 柏原の滝野十郎、竜口の百地新之丞、同太郎左衛門、喰白の百地丹波ら上忍 438人。中忍の下神戸の小南はじめ下忍では与次、音ら数十人、雑人1200余、併せて1600人。
・織田軍‥‥‥ 織田信澄、蒲生氏郷、筒井順慶、丹羽長秀、滝川一益、浅野長政、藤堂将監、生駒雅楽頭、糟谷内膳正。
10月10日 信長、伊賀に参着し、平定を検分のうえ、山田郡を信兼に、残り3郡を信雄に与える。
10月13日 信長、安土に帰る。




創作ノートの目次に戻る



inserted by FC2 system