雑賀孫一と本願寺
- 鈴木孫一は雑賀五ケ庄の一つ、十ケ郷(紀ノ川北岸)の平井に本拠を構える。
- 1570年、孫一は三好三人衆と結び、本願寺の間近にある野田、福島に上陸し、8月17日、織田方の河内古橋城(門間市御堂町)を攻め落とす。
怒った信長は一週間後、京都から淀川を越えて河内枚方方面に軍を進めた後、摂津天王寺に着陣。見通しのよい小高い丘の上に立つ天王寺に本陣を設営して、直ちに天満宮の森、海老江、川口、神崎、上難波、下難波に進出。各所に砦を築かせ、石山本願寺を包囲する。
9月5日、顕如は紀州門徒衆に総決起を促す文書を送り、6日には近隣諸国の門徒衆にも檄を飛ばす。
9月12日、信長は野田、福島の北約1キロの海老江に本陣を移動。足利義昭軍と合流して総攻撃を開始する。ところが、情勢は急転、顕如の呼びかけに根来、雑賀、湯川、紀伊奥郡衆二万の軍勢が織田軍の背後に迫って来る。敵味方、鉄砲を乱射し一大銃撃戦が日夜展開される。
9月21日、浅井軍と浅倉軍が三万の兵を率いて近江から山城に迫り、醍醐、山科方面に迫った。
23日、信長は本願寺の包囲を解いて京都に向かう。
- 1570年暮れ、顕如、武田信玄と結ぶ。信玄亡き後、顕如は毛利と結ぶ。
- 1574年4月2日、石山本願寺、再び挙兵するが信長は挑発に乗らない。
- 1574年7月初め、信長は信忠を伴い、津島に着陣。九鬼、滝川らの率いる水軍によって伊勢長島を包囲し兵糧攻めにした後、幾重にも柵を巡らし、四方から火をかけて男女二万を焼き殺す。
- 1575年4月、信長は畿内近国のすべての分国に総動員令を発し、根来衆を味方に加え、十万余騎の大軍を動員。河内方面で徹底したローラー作戦を展開した後、石山本願寺に向かって進軍する。実際の戦闘はなし。
- 1575年5月、信長、雑賀党を分裂させる。反孫一派の雑賀三縅衆(宮郷、中郷、南郷三郷)を切り離し、根来寺の杉坊衆も味方に付ける。
- 1575年8月、信長、総勢十万の軍勢で越前一揆狩り。犠牲者は3、4万に及ぶ。
- 1576年4月、馬上 100騎、鉄砲衆1000挺を連ねた雑賀党、石山本願寺に入城する。大将格は中ノ島の的場源四郎、雑賀の孫一、木ノ本横の庄司加仁右衛門。13日夜より戦闘は開始されるが一進一退を重ね、戦線は膠着状態となる。
- 織田軍の最高司令官、明智光秀、細川藤孝、荒木村重らは木津砦奪取作戦に取り掛かるが、本願寺側に筒抜けとなり、雑賀党の鉄砲攻撃に織田軍は敗北。
- 5月5日、京都を出た信長は6日、河内若江で軍容を整えようとするが人数が集まらず、雑賀党相手に苦戦する。
- 5月9日、孫一の偽首が勘解由小路室町武家之御堀之端にさらされる。
- 6月末から7月初め、毛利水軍淡路島の岩屋城に到着。その数、900隻余、兵糧弾薬を満載した輸送船が600隻、軍船は300隻、全軍を指揮するのは村上元吉、乃美宗勝、粟屋元如、児玉就英の面々。
- 7月12日、孫一、雑賀水軍と鉄砲隊をを率いて、輸送船の護衛隊長となるため淡路島に着く。
- 対する織田水軍は大小 300余隻からなる大船団を大坂湾に浮かべ海上封鎖を開始する。
- 7月14日、雑賀、毛利水軍は織田水軍を蹴散らし、本願寺に兵糧弾薬を搬入する。
- 1577年2月13日、信長十万を率いて雑賀を攻めるため出陣。22日には和泉、志立(泉南市)に到着。
- 閏7月、雑賀党、信長の味方をした雑賀三縅衆を倒す。
- 1578年5月、貴志庄や南郷、中郷までも孫一らに合流し、宮郷の太田城に攻め掛かる。一ケ月後、和睦し、雑賀五ケ庄は再び、孫一らの主導下におかれる。
- 孫一、石山本願寺落城後、態度を豹変し、信長側に身を投じ、雑賀党最大の勢力を誇る土橋若大夫を暗殺し、雑賀潰しの先兵となる。
- 雑賀庄‥‥‥土橋若大夫、佐武伊賀守、的場源四郎(中ノ島)、鈴木、穂出、嶋本(孤島、年寄衆)、松田、宮本(湊、年寄衆)、打越、巽、幸物、中村、植松、林、他。
- 十ケ郷‥‥‥鈴木(平井)孫一、横庄司加仁右衛門(木の本)、松江(年寄衆)、中村、弾塚、毘舎刊、他。
- 中郷‥‥‥‥岩橋、岡崎、栗栖、鳥居、林、津田、土井、和佐、神谷、他。
- 南郷‥‥‥‥田所、土屋、尾崎、稲井、石倉、坂本、宇野辺、藤田、三上、田嶋、他。
- 宮郷‥‥‥‥神前、太田、黒田、吉田、秋月、堀内、戸田、坂、他。
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