3.夢庵肖柏
銭泡が滞在している泊船亭は、十年前に滞在した 含雪斎は静勝軒の西側の富士山がよく見える所に建っている。泊船亭は東側にあり、城下と湊、そして、広々とした海が見渡せた。 銭泡は夕暮れ近くの一時、ぼうっとして海を眺めていた。 潮風が気持ち良かった。 海を眺めながら、こんな事をしていていいのかと思っていた。万里との話から急に家族の事を思い出し、その時の心境も思い出していた。 家族を失った銭泡は財産をすべて使い果し、無一文になって旅に出た。珠光の弟子だという事も口には出さなかった。珠光は前将軍、足利義政の茶の湯の師匠だった。その事を口に出せば、大名たちは放ってはおかないだろう。珠光の始めた『佗び茶』は、すでに噂になってはいても、それを実際に知っている者は京や奈良の一部の人たちだけだった。地方の大名たちは、その『佗び茶』を知っていると言えば飛びついて来るだろう。しかし、銭泡はお茶の事など一言もしゃべらず、腹を空かせていても乞食坊主を続けていた。 汚い格好をして各地を旅していたが、それはそれで楽しかった。あの頃の自分は茶の湯を生きるための手段にはしなかった。茶の湯の事を口に出さなくても、生きて行く事はできた。ところが、今の自分は茶の湯を生きるための こんな事でいいのだろうか‥‥‥ 師の珠光は地方に茶の湯を広めてくれた事を喜んでくれた。しかし、何となく、自分の生き方ではないような気がした。 「お食事の御用意ができましたけれど」 「そうか‥‥‥」銭泡は生返事をしたまま、じっと海を見つめていた。 おゆうも銭泡と同じように海を眺めた。おゆうにとって、ここから眺める海は珍しくも何ともないが、ここに滞在する旅人が黙って海を眺めているのには慣れていた。そういう時はしばらく、放っておいた方がいいという事も心得ていた。 「おゆうさん、ちょっと聞きたいんじゃがな」と銭泡は海から目を離すと言った。 「はい」とおゆうは銭泡の方を見た。 首を少しかしげ、笑みを浮かべ、大きな目で銭泡を見つめていた。優しそうな娘だと銭泡は思った。 「今、含雪斎には、どなたかおられるのかな」 「鎌倉から来られた偉い和尚様がおられます」 「ほう、鎌倉の偉い和尚様か‥‥‥」 「はい。あの、どうかなさったのでございますか」 「いや。以前、来た時、あそこにおったものじゃからのう。今、どなたがおられるのか、ちょっと気になっただけじゃ。わしが来る前に、ここにはどなたかおられたのか」 「はい。京から来られたお公家さんがお二人、しばらく滞在しておられましたが、お城下の方に移られました」 「わしが来たからか」 「さあ、その辺のところは、わたしには分かりません」 「そうじゃのう。そなたに聞いても、そんな事まで分からんのう」 「はい‥‥‥あの、御飯が冷めてしまいますが」 「おう、そうじゃった。飯でもいただくか」 銭泡が飯を食べている間も、おゆうは側で控えていた。 「おゆうさん。おせんさんとお初さんていう人を御存じかな」 「おせんさんにお初さんですか」 「ああ、十年前に、わしがここにおった時、世話をしてくれたお人じゃ」 「十年前ですか。わたしにはちょっと‥‥‥」 「そうか、じゃろうのう。あの頃、その二人は、今のおゆうさん位の年頃じゃった。今では、もう三十前後というところかのう」 「ああ、それなら、お初さんなら存じております。今、河越のお城の方におります」 「なに、河越に行ったのか」 「はい、二年前です」 「そうか‥‥‥河越に行ったのか。もしや、河越の方にお嫁に行ったのかな」 「いえ、仲居として行きました」 「お嫁には行かなかったのか」 「お嫁に行くはずでしたが、相手のお方が戦死してしまったらしいです」 「そうじゃったのか‥‥‥さぞ、辛かったろうのう」 「はい。人から聞いたお話ですので、詳しい事は存じませんが」 「おせんさんの方は分からんのか」 「はい‥‥‥同じ名前の娘なら、知っておりますけれど、その娘は、わたしと同じ十九です。十年前はまだ、子供でした」 「そうか、それじゃ、違うわな。きっと、嫁に行ったんじゃろう。あの二人には世話になったからのう。もし、まだ、ここにおるのなら、ちょっとお礼をしたいと思ったんじゃ」 「そうだったのですか‥‥‥あのう、伏見屋様は色々な所を旅していらっしゃるんでしょう」 「まあ、そうじゃな。決まった家というものを持っとらんからのう。年中、旅をしておると言ってもいい位じゃ」 「連歌師の人たちも旅をしているんでしょう」 「ああ、そうじゃよ。おゆうさんは連歌師のお知り合いでもおられるのかな」 「はい。実は、おせんちゃんなんですけど、ここに来られた連歌師の人と仲よくなっちゃって‥‥‥」 「ほう、その色男の連歌師の居場所が知りたいというのじゃな」 「はい。もしかしたら、伏見屋様が御存じないかと思いまして」 「わしも、連歌師の事はあまり詳しくはないが、まあ、何人かは知っておる。しかし、そなた程の若い娘と仲よくなるような若い連歌師など知らんのう」 「いえ、その人、若くはありません。ここにいらしたのは、もう三年前の事ですけど、その時、四十一だと申しておりました」 「なに、四十一じゃと‥‥‥三年前だとすると、そのおせんちゃんとやらは‥‥‥」 「十六でした」 「四十一の男に十六の娘か‥‥‥親と子のようじゃのう」 「はい。でも、おせんちゃん、その人に夢中になってしまったんです」 「ほう。娘の方が夢中になったのか。余程の色男じゃったと見えるのう」 「はい。そして、面白いお人でした」 「そうか、羨ましい事じゃ。それで、そのおせんちゃんが、もう一度、その人に会いたいと言っておるんじゃな」 「はい、そうなんです。子供までできてしまったので、いつか、また、ここに来てくれる事を願っているんです」 「なに、子供までできたのか。そいつは罪作りな奴じゃのう。相手は子供ができた事も知らんのじゃな」 「はい、知りません。おせんちゃんは、いつか必ず、来てくれるって信じてますけど、わたしは見ていられないのです」 「そうじゃろうのう。しかし、四十一にもなって、十六の娘に子供を 「 その名を聞いた途端、銭泡は食べていたものを吹き出しそうになって、慌てて、手で口を押えた。 「伏見屋様、御存じなのですか」とおゆうは身を乗り出して来た。 銭泡は口の中の物を飲み込むと頷いた。 「知っておる。知り過ぎている程じゃ」 「えっ、ほんとですか」 銭泡は頷いた。 「今、どこにいらっしゃるんですか」 「多分、今は 「摂津の国ですか‥‥‥遠いんでしょうね」 「まあ、遠いな。しかし、夢庵殿がここの仲居に子を産ませるとはのう。驚きじゃわ。本当に夢庵殿だったんじゃな」 「はい。夢庵様です。その時、 「そうか、それなら、夢庵殿に間違いない‥‥‥夢庵殿が若い娘にのう。まあ、あの御仁ならやりかねんがな」 「伏見屋様、どうか、夢庵様におせんちゃんの事を知らせてやって下さい。おせんちゃん、とても、会いたがっています」 「うむ。分かった。知らせてやろう」 「よかった。伏見屋様が夢庵様を知っていて」 「夢庵殿はのう。わしの兄弟子なんじゃよ」 「えっ、兄弟子」 「うむ、茶の湯の兄弟子なんじゃ。わしが村田珠光殿という茶の湯のお師匠の弟子に入った時、夢庵殿がすでに、お師匠のもとに弟子入りしておったんじゃ。今では夢庵殿は宗祇殿の弟子として連歌師で通っておるが、立派な茶人でもあるんじゃ。ついでに言うと夢庵殿は武術の兄弟子でもあるんじゃ」 「えっ、武術ですか」 「ああ、そうじゃ。夢庵殿は武術の腕も一流じゃ」 「あの夢庵様が武術をしていたなんて‥‥‥」 「以外な事じゃが本当じゃ」 「あの、伏見屋様もお強いのですか」 「わしか、わしはただ自分の身を守る程度じゃよ」 「そうなんですか‥‥‥夢庵様の事ですけど、よろしくお願い致します」 「うむ。分かった。絶対にここに来るように言ってやろう」 「ありがとうございます。おせんちゃん、喜ぶと思います」 「そのおせんちゃんだが、今でも仲居の仕事をしておるのか」 「いいえ。おなかが大きくなってからは、お城下に住んでおります。夢庵様のお子さんだと聞いて、お殿様も何かと面倒を見てくれております」 「そうか、そいつはよかった。そのうち、わしにも会わせてくれんか」 「はい。伏見屋様から夢庵様の事を色々と話してやって下さい。おせんちゃん、喜びます」 「うむ。夢庵殿の子か、楽しみじゃ。男の子か、女の子か」 「可愛い女の子です。お夢ちゃんて言うんです」 「お夢ちゃんか。いい名じゃ‥‥‥夢庵殿の子がこの江戸におるとはのう。世の中、面白いもんじゃ」 おゆうは浮き浮きしながら銭泡の食事の後片付けをして去って行った。銭泡は一人になると、また縁側に出て海を眺めた。 もう、暗くなり始めていた。 お夢ちゃんか‥‥‥見てみたいと思った。夢庵に知らせてやれば、ほいほいと飛んで来る事だろう。 若い娘を孕ませて知らん顔でいる男など許せないと思っていたが、相手が夢庵だと聞くと、なぜか、あの男ならしょうがないと許せるのが不思議だった。 夢庵肖柏‥‥‥捕え所のない不思議な男だった。出自は立派な公家でありながら格式ばった所など全然なく、いつも 飄々か‥‥‥ 夢庵のように何事にも囚われないで飄々と生きて行けたら、どんなにいいだろう。あの男は本当に何事にもこだわらないと言えた。好きになれば何にでも熱中する。そのくせ、物事に囚われる事はない。珠光の弟子として茶の湯の腕は一流だった。しかし、一流の茶道具など何も持っていない。 夢庵が手にすると三流の茶道具でも一流のように見える。また、一流の湯飲み茶碗で酒を飲んでいたとしても、誰も文句を言う者はいないだろう。わしが同じ事をしたとしても夢庵のようにはいかない。 やはり、人間の大きさというものが違うのだろうか。それとも、育ちが違うからだろうか。分からなかった。 ただ、夢庵だったら、今のわしのように、茶の湯を生きるための手段にしていたとしても、そんな事に一々、こだわらない事だけは確かだった。それが嫌になったら、さっさとやめて、乞食坊主に戻るだろう。乞食坊主に戻りたくなったら戻ればいい。そんな事、一々、考える事もない。 銭泡は暗くなった海を眺めながら、夢庵のように飄々と生きてみるかと思った。
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