7.駿河の竜王丸殿
暑い日が続いていたが、今日は比較的、涼しかった。 銭泡は泊船亭の縁側に座って、海の絵を描いていた。仲居のおゆうが隣りにちょこんと座って銭泡の筆使いを見ている。 昔から気が向けば時々、絵を描いてはいたが、八年程前、 山口にいた頃は雪舟の 銭泡は雪舟と不思議な縁があった。旅を続けている者同士は、とんでもない所で、とんでもない人とばったり再会するものだが、銭泡と雪舟もそうだった。 六年程前、銭泡は四国を旅していた。すると阿波の国(徳島県)で、ばったりと雪舟と再会した。しばらく、共に旅をして山口の雲谷庵まで行った。銭泡は山口に一年近く滞在していたが、雪舟は関東の方へと旅立った。銭泡は山口から京に戻り、近江(滋賀県)にある宗祇の 雪舟も万里も共に京の相国寺で修行した仲で、古くからの知り合いだという。その後、雪舟は出羽の国(山形県、秋田県)まで行き、鎌倉に寄って山口に帰った。万里のもとに来た手紙によると、最近はあまり、旅もしないで、山口にて気楽に絵を描いているという。雪舟とはもう一度、会って、一緒に酒を飲みたいと思っていた。 銭泡は最近、絵を描いていなかった。別に理由があっての事ではないが、ただ、何となく筆無精になっていた。ところが、この前、お志乃の家で十年前に描いた自分の絵を見てから、久々に描きたくなって、暇を見つけてはこうして描いていた。 「うまいですね」とおゆうは感心した。 「わしの絵など、いたずら描きに過ぎんよ」 「そんな事ないです。凄いわ」 「気に入ったなら、あげるよ」 「ほんと、嬉しい」 人の気配を感じて、振り返ると道灌が後ろから絵を覗き込んでいた。 「道灌殿、人に見せる程のものではありませんよ」と銭泡は照れ臭そうに笑った。 おゆうは後ろにいたのが道灌だと知ると畏まってしまった。 銭泡が筆を置こうとしたら、そのまま、と道灌が言った。 「わざわざ、どうしたのですか」 「なに、ちょっと話があっての」 「呼んでいただければ、こちらから伺いましたものを」 「ここからの眺めが見たくなってな」 道灌が下がっていいと言うとおゆうは消えた。 「そういえば、十年前も伏見屋殿は絵を描いておられたが、格段の上達振りよのう」 「いえ、まだまだです」 道灌は縁側に腰を下ろすと、「実はのう。明日、わしと一緒に相模の 「糟屋といいますと、 「さよう。お屋形様の所じゃ。新しいお茶室を作ったので、明後日の正午、お茶会を開くそうじゃ。是非、伏見屋殿と一緒に来てくれとの事じゃ。一日で行けん事もないがの、この暑いのに急いで行く事もあるまい。明日、出掛けようと思ってるんじゃが、どうじゃな」 「はい。わたしの方は構いませんが」 「よし、決まった。それじゃあ、そのつもりで頼むわ」 「万里殿も一緒ですか」 「まだ、誘ってはおらんが、多分、行かんじゃろう」 「どうしてです」 「万里殿はここに来る前、お屋形様の所に寄って来たそうじゃが、どうも、お屋形様とは馬が合わんようじゃ。もっとも、あのお屋形様と馬が合う者は滅多におらんがのう」 「そんな気難しいお人なのですか」 「気難しいというより、常に自分がお山の大将でないと気が済まんお方じゃ。万里殿もお屋形様の作った詩を無理やり見せられ、誉めなければならず、困った事じゃろう。伏見屋殿も困るかもしれんが我慢して下され。とにかく、おだててやれば機嫌がいいからのう。頼むわ」 「はい、分かりました」 「わしは一泊したら戻るが、伏見屋殿は四、五日、滞在する事になるかもしれん。そのつもりでいてくれ」 「はい‥‥‥」 道灌は銭泡の描いていた絵を手に取って眺めた。 「まだ、途中です」 「うむ。しかし、うまいもんじゃのう。今度、わしにも何か描いてくれんか。筑波亭に似合うような絵をのう」 「筑波亭に似合う絵ですか‥‥‥」 「うむ。景色もいいが、花とかもいいのう」 「花ですか‥‥‥」 「いや、花は花入れに挿すから鳥の方がいいかのう。そうじゃ、 「都鳥ですか‥‥‥都鳥は今はいないんじゃないのですか」 「うむ、冬じゃ。冬になったら描いてくれ」 道灌は銭泡に絵を返した。 銭泡は都鳥とは、どんな鳥だったか思い出そうとしていた。 「ところで、伏見屋殿、駿河の早雲殿は今、どうしておられるんじゃ」 「早雲殿ですか」 「うむ、今朝、ふと、早雲殿の事を思い出してのう。十年前に会ったきりなのに、どうして、急に思い出したのか分からんが‥‥‥伏見屋殿が来たからかのう」 十年前、江戸に来る以前の事だった。乞食坊主を続けながら、駿河の国を旅をしていた銭泡は腹を空かせて小高い丘の上に立つ草庵の側で眠っていた。翌朝、食べ物の匂いで目が覚め、いい匂いに誘われて、つい、その草庵に飯を恵んで貰おうと入って行った。 その庵の主は早雲と名乗る禅僧だった。早雲の庵には様々の人が出入りして、何人かの 早雲庵に居候して早雲と話をして行くうちに、お互いに京にて会っていたという事が分かった。その頃、銭泡は幕府に出入りしていた商人、早雲の方は将軍義政の弟、足利 義忠は銭泡の事を伏見屋だと見抜いた。早雲と出会った時と違い、 銭泡は義忠に茶の湯を教えるはめになってしまった。今川家代々の収集品の鑑定まで頼まれ、 銭泡は箱根を越えて関東に入り、各地を旅して回り、駿河に向かう途中、 「早雲殿は今、京の都におります」と銭泡は答えた。 「なに、駿河におるのではないのか」 「はい。竜王丸殿の家督を正式に認めてもらうために京に行き、家督を認めてもらった代わりに、また、幕府に勤める事になったようです」 「そうか、京都におるのか‥‥‥」 「わたしの感では、もうすぐ、駿河に戻って来ると思います」 「ほう、戻って来るのか」 「竜王丸殿の事がありますので」 「竜王丸殿の事?」 「はい。竜王丸殿はもう十六歳におなりです。すでに 「なに、竜王丸殿は十六になっても元服しておらんと申すのか」 「はい。小鹿新五郎殿はお屋形様になったつもりでおります」 「そうか、そうじゃったのか。小鹿新五郎は十年前の約束を守っておらんと言うのじゃな」 「はい」 「うーむ‥‥‥こいつは何とかしなくてはならんのう」 「はい」 「そうか‥‥‥伏見屋殿、早雲殿に連絡は取れんか」 「取れるとは思いますが」 「何とかして連絡を取ってくれ。竜王丸殿を放ってはおけん。今、関東は何とか治まっている。わしが駿河に行っても戦が始まる事もあるまい」 「道灌殿、お願いいたします。竜王丸殿を今川家のお屋形様にしてやって下さい」 「うむ。しかし、わし一人では無理じゃ。伏見屋殿は早雲殿を駿河に戻してくれ」 「分かりました。さっそく、連絡してみます」 「頼む‥‥‥今、さっそくと申したのか」 「はい」 「さっそくとは、今すぐにという意味か」 「はい」 「どうやって、すぐに連絡が取れるんじゃ」 「まだ会ってはおりませんが、 「風摩小太郎? 誰じゃ、そいつは」 「 「風眼坊‥‥‥おお、あの時、早雲殿と一緒にいたあの山伏か。奴は駿河におるのか」 「はい。駿河にいて竜王丸殿を陰ながら守っております」 「成程のう。早雲殿もやるだけの事をやって、京におるという訳じゃな」 「はい。風眼坊殿は風魔党という一揆集団を作って、竜王丸殿を見守りながら戦にも出て活躍している模様です」 「ほう、風魔党か。しかし、どうして、この城下に風眼坊の配下がおるんじゃ」 「それは、ここにおれば関東の状況がすべて分かるとか言っておりましたが」 「成程のう。確かに、ここにいれば、あらゆる情報が手に入るのう。風眼坊もなかなかやるもんじゃ。やはり、風眼坊の配下というのは山伏なのか」 「はい、そう聞いております。宝珠院内の宿坊にいるそうです」 「あそこにおったのか」 「はい」 「それじゃあ、すぐに頼む。早雲殿が駿河に戻り次第、わしも動く事にするわ」 「早雲殿も喜ぶ事でしょう」 道灌は頷いた。 「ようやく、分かったわ」 「はっ?」 「今朝、急に早雲殿の事を思い出した理由がな。竜王丸殿の事だったんじゃ。十年前のけりを付けろという意味だったんじゃ」 道灌は一人笑うと邪魔したなと言って帰って行った。道灌が帰ると銭泡はすぐに絵を片付けて城下へと下りて行った。 道灌の言った事を早く、京にいる早雲に伝えなければならない。道灌が駿府まで行けば、小鹿新五郎は竜王丸に家督を渡すに違いない。早雲の力によって新しい今川家が生まれる事となろう。道灌が駿府に向かう時は一緒に行って二人を助けよう。そして、その仕事が終わったら、この江戸の地に落ち着く事にしよう。十年も待っていてくれたお志乃と一緒にお茶屋をやって、のんびり暮らそうと思った。 風摩小太郎の配下の山伏のいる宝珠院は平川の近くにあると聞いていた。銭泡は大通りを平川の方に真っすぐに進んだ。武家屋敷の並ぶ一画を抜け、商人たちの町を抜け、平川の近くまで行くと右側と左側に寺院らしい大きな建物が見えた。どっちかに違いない。丁度、荷車を引いた商人が通ったので聞いてみると、左側に見える方が宝珠院だった。 宝珠院の境内は思ったより広く、僧坊が幾つも並んでいた。簡単に捜せるだろうと思っていたが、なかなか大変な事だった。 困り果ててしまったが、ふと道灌の配下に 十年前より少し太ったようだが、山伏としての貫禄は凄いものがあった。新米の山伏なら睨まれただけで逃げ出してしまいそうだ。 「伏見屋殿か、久し振りじゃのう。わざわざ、こんな所まで来るとは、一体、どうしたんですかな」 「はい。実は人を捜しておるんですが」 「わしに捜してほしいと申すのか」 「いえ、そうじゃないんです。ここにおるはずの山伏なんです」 「風輪坊じゃな」 「えっ、どうして、それを」 「今、殿から近々、駿河に行くから、先に行って向こうの状況を調べろとの命があったところじゃ」 「そうですか、相変わらず、道灌殿はやる事が早いですな」 「物事の 「そうですか、助かりました」 「いや」 銭泡は立ち去ろうとしたが、また、考え直して戻って来た。 「竜仙坊殿、ちょっと、内密にお話があるのですが」 「何じゃ」 「できれば、二人だけで」 「うむ、いいじゃろう」 銭泡は僧坊の奥の一室に案内された。その部屋は竜仙坊が寝泊りしている部屋のようだった。銭泡は部屋に上がり、竜仙坊と向かい合って座った。 「一体、何じゃ。内密の話とは」 「実は、この前、越生に行った時、道真殿が道灌殿の事をえらく心配しておったのです。道灌殿が有名になり過ぎて、扇谷のお屋形様や管領殿が面白く思っていないと言っておりました。このままでは道灌殿が危険だと言っておりました。その話を聞いて、確かに、そんな感じもすると思って道灌殿に聞いてみました。道灌殿はその事は充分に心得ていると言ったので、わしも安心して忘れておりましたが、明日、糟屋のお屋形様のもとに行くと聞いて、何となく心配になって来たのです。竜仙坊殿はその事をどう思っておりますか」 「うむ、道真殿の言う事はもっともな事じゃ。確かに、殿は狙われている。殿を恨んでいる者は多い」 「それは本当ですか」 「本当じゃ。殿によって滅ぼされた者たちは多い。そいつらの生き残りが未だに殿の命を狙っているんじゃ」 「成程‥‥‥」 「殿に散々な目に会わされ、今、古河公方のもとにいる長尾 「刺客が‥‥‥」 竜仙坊は頷いた。 「扇谷のお屋形様は大丈夫なのでしょうか」 「道灌殿を妬んでいる事は事実じゃ。しかし、扇谷上杉家が今のように勢力を持つ事ができたのは殿のお陰じゃ。殿がいなくなれば扇谷上杉家は潰れるじゃろう。その位の事はお屋形様でも分かるはずじゃ。自分の首を絞めるような事はするまい」 「そうですね‥‥‥」 「一応はわしも糟屋まで行き、陰ながら殿の事を見守っているがのう」 「そうですか。お願いします。道灌殿にもしもの事があったら、この江戸中の人々が困ります」 「わしらも困るわ」と竜仙坊は笑った。 「どうも、失礼いたしました」 銭泡は円光坊を出ると風輪坊のいる蓮乗坊に向かった。 風輪坊は思っていたよりも若かった。三十前後といったところか、武術の名人である風摩小太郎の配下だけあって、やはり強そうだ。 風輪坊は銭泡の事を知っていた。駿河の小太郎より連絡があり、ひそかに銭泡の身辺を守っていたと言う。 銭泡は道灌の話を風輪坊に話した。 「本当ですか」と信じられないようだった。 「うむ。早雲殿を早く、呼び戻して欲しいそうじゃ。早雲殿が駿府に戻り次第、道灌殿は兵を引き連れ、駿府に向かう」 「ようやく、竜王丸殿が今川家のお屋形様になるんですね」 「そういう事じゃ」 「いよいよ、あの小鹿新五郎の最期なんですね」 「それは分からんよ。道灌殿は戦をしに行く訳じゃない。十年前の約束を実行させるだけじゃ」 「しかし、あの新五郎が簡単にお屋形の座を竜王丸殿に渡しますか」 「道灌殿が話を付けに行くんじゃ。新五郎でも道灌殿には逆らえまい」 「それはそうですけど、あの新五郎が簡単に引き下がるとは思えません。とりあえずは、道灌殿の顔を立てて引き渡すとは思いますが、道灌殿が帰ったら竜王丸殿を攻めるかもしれません」 「うむ。ありえんとは言いきれんのう」 「新五郎は生きている限り、竜王丸殿に逆らい続けるでしょう」 「うむ‥‥‥」 「新五郎を殺すしかありません」 「‥‥‥」 「どうしたのですか」 「今、ふと思ったんじゃが、新五郎にとっても道灌殿というのは邪魔な存在なんじゃとな」 「それは邪魔でしょうね。道灌殿が睨んでいるので、新五郎としても思い切った事ができないのです。もし、道灌殿がいなかったら、竜王丸殿が今まで無事に生きていたとは考えられません」 「うむ‥‥‥道灌殿がいなくなったら竜王丸殿を暗殺する事もできるという訳じゃな」 「できるでしょうね。暗殺したからと言って、関東から兵が攻めて来る事はあり得ませんからね」 「風輪坊殿、この江戸の地に小鹿派の山伏はおらんのか」 「勿論、おります。ここにいる駿府の浅間明神の山伏は皆、小鹿新五郎の配下です」 「成程、奴らが小鹿派だったのか‥‥‥」 「はい。奴らがいるため、わしらは駿河の山伏ではなく近江の山伏として、ここにいて、奴らの事も見張っているのです」 「近江の山伏?」 「はい。お頭の配下は近江の者が多いのです。お頭は以前、近江の 「そうか。飯道山の山伏として、ここにおったのか。飯道山なら、わしも知っておる。小太郎殿と行った事もあるし、宗祇殿の種玉庵を訪ねた折には必ず、飯道山に登っておる」 「宗祇殿といえば連歌師の?」 「そうじゃ。飯道山の近くに住んでおってのう」 「へえ、そうだったんですか。宗祇殿は三年程前、ここに参りました」 「おう、そうじゃったの。そうか、飯道山の山伏じゃったか‥‥‥」 飯道山は近江の国(滋賀県)の甲賀にあって、山伏の拠点であり、また、武術道場として栄えていた。甲賀、伊賀はもとより、各地から若い者たちが武術の修行をするために集まっていた。風輪坊も甲賀に生まれ、飯道山で修行を積んだ一人だった。その飯道山で教えている『 「ええと、何の話をしておったっけ」 「小鹿派の山伏の事でしたが」 「おお、そうじゃった。さっき、竜仙坊殿と会って話を聞いたんじゃが、今、この城下には道灌殿の命を狙っておる刺客が大勢入り込んでおると言う。もしかしたら、小鹿派の山伏たちも道灌殿の命を狙っておりはせんか」 「まさか‥‥‥まさか、そこまでは」 「分からんぞ。新五郎にしたら自分が今川家のお屋形様でおられるかどうかの問題じゃ。道灌殿さえいなくなれば、このまま、今川家のお屋形様でいられる。命を狙うという事は充分に考えられる事じゃ」 「確かに‥‥‥」 「その辺の所も充分に注意して見張っていてくれ」 「はい。分かりました」 「それとのう。わしは明日、道灌殿と一緒に糟屋のお屋形様の所に行く。お屋形様も道灌殿を煙たく思っておられるそうじゃ。何事も起こらんとは思うが、ちょっと心配でな、そなたらも道灌殿を見守ってくれんか」 「糟屋に行かれますか。分かりました。わしも付いて行く事にしましょう」 「頼むぞ」 「はい。早雲殿の事はさっそく、お頭に伝えます」 「そうしてくれ」 銭泡は風輪坊と別れると、真っすぐに城の方に向かいかけたが思い止どまり、左側に曲がって、お志乃のいる『善法園』に向かった。糟屋に行けば、しばらく会えなくなる。今晩はそっちに泊まろうと思った。
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