16.太田源六郎資康
銭泡と共に江戸城に来た曽我豊後守は、とんでもない難題を持って来て江戸城を混乱させていた。 第一に、太田家の家督は道灌の 第二に、江戸城は城代として豊後守が預かる事となり、源六郎は家族と共に中城内の香月亭に住んでもかまわないが、根城は豊後守に明け渡す事に決まったという。さらに、道灌が預かっていた河越城には城代として兵庫頭が入る事に決まっていた。 それらの事は、糟屋に集まった扇谷上杉家の重臣たちによって決められたもので、太田家としても扇谷上杉家のために穏便に従って欲しいとの事だった。 太田家の重臣たちは豊後守に、そんな命令は受けられんと詰め寄ったが、どうする事もできなかった。道灌のいない今、お屋形様の無謀を止める事のできる者はいなかった。悔しさのあまりに、腹を斬って道灌に殉死して行った重臣もいたという。 そんな騒ぎの中、嫡男の源六郎が足利から帰って来た。城内の芳林院にて道灌の初七日の法要が行なわれている最中だった。源六郎は何も知らずに法要に参加し、法要が終わると当然のごとく静勝軒に入った。 源六郎は静勝軒にて豊後守から、すべてを聞かされた。源六郎はかっとなって刀を抜こうとしたが、従っていた重臣たちに止められ、香月亭に引き上げた。 源六郎は香月亭の大広間に太田家の重臣たちを集め、事の成り行きを詳しく聞いた。 「誰が、父上を亡き者にしたのじゃ」 源六郎は真っ赤な顔をして、上段の間から重臣たちに怒鳴った。 重臣たちは皆、うなだれたまま黙っていた。 「誰なんじゃ」 源六郎は立ち上がるともう一度、怒鳴った。 「まだ、分かりません」 一番そばに控えていた中山 「まだ、分からんじゃと、今まで何をしておったのじゃ」 「ははっ、申し訳ございません」 「どうして、豊後のような奴がここにおるんじゃ。奴は扇谷家の重臣ではあるまい。お屋形様の家臣に過ぎん。扇谷家の執事である太田家に指図するような身分ではあるまい。身の程知らずもいい所じゃ」 「しかし、お屋形様の命との事です。お屋形様に逆らう訳には‥‥‥」 「何を言っておる。修理大夫殿をお屋形様にしたのは父上じゃ。父上がおらなかったら修理大夫殿はお屋形様にはなれなかったんじゃ。その恩も忘れて勝手な命を出しおって」 「若様、言い過ぎですぞ」 「うるさい。わしは太田家の嫡男じゃ。父上が縄張りした、この江戸の城を守るのはわししかおらんわ。力付くでも豊後の奴をたたき出してやる」 源六郎はいきり立っていた。重臣たちが、どうなだめても言う事を聞かなかった。 「本当の事を申してみよ。奴らが 「失礼ですが、奴らとは」 「豊後親子よ。奴らがこの江戸城と扇谷家の執事職を手に入れるためにやったに違いないわ。そうじゃろうが」 「いえ、本当にまだ、下手人は分からないのでございます。山伏らの仕業という事は分かっておりますが、どこの山伏やら、まだ分からないのございます」 「山伏じゃと。父上が山伏どもに殺られたじゃと」 「はい。二人組の山伏に湯殿を襲われました」 「くそ! 父上ともあろうお人が山伏に殺られるとは‥‥‥その山伏は豊後親子の配下に違いないわ。その山伏をさっさと捕まえるんじゃ。そして、わしが豊後親子の奴らをたたっ斬ってやる。父上の 源六郎は父親を殺したのが、曽我兵庫頭と豊後守親子だと決め付けていた。 重臣たちにも親の仇を討つという源六郎の気持ちは分かるが、今、豊後守と争う訳にはいかなかった。豊後守に敵対するという事は扇谷のお屋形様に敵対する事と同じだった。道灌が生きていればまだしも、道灌のいない今、お屋形様に逆らって勝てる見込みなどまったくない。まして、江戸城は豊後守に占領されている形となっている。根城で頑張っている豊後守を中城から攻撃して勝てるはずはなかった。 一人で怒鳴り散らしている源六郎を見ながらも重臣たちは何も言う事ができなかった。 源六郎の祖父の道真が現れ、重臣たちを帰して、二人だけになると、ようやく、源六郎も落ち着いて来たという。 銭泡はその事を風輪坊から聞いた。 風輪坊はあれ程、厳重な江戸城に忍び込んで、城内の様子を探っていたという。銭泡は改めて、『 「源六郎殿は曽我の親子が下手人だと思っているようですな」と銭泡は 銭泡は道灌の肖像画を描こうとしていた。肖像画を描くのは初めてだったが、道灌の肖像画なら描けると思って描き始めた。ところが、人物というのは以外に難しかった。何枚も何枚も失敗しながら描き続けていた時、ひょっこりと風輪坊が現れたのだった。 「当然でしょう。何もかも、あの親子に奪われたのですから。本物の下手人が奴らではないにしろ、奴らも道灌殿の命を狙っていたのは事実ですからね」 「仇討ちか‥‥‥」 「難しいですね」 「難しいが討たせてやりたいのう」 「はい。城内の様子ですけど、まだ、続きがあるんですよ」と風輪坊は少し小声になって言った。 「なに、まだ、騒ぎがあったのか」 「いえ。騒ぎではなく、扇谷のお屋形様のたくらみです」 「たくらみ?」 「はい。太田家の重臣たちを根城から追い出した豊後守は、古河にいる公方様と長尾伊玄に連絡を取り始めました」 「なに、豊後守が公方様に?」 「ええ。道灌殿は亡くなった。これからは手を組んで共に管領殿と戦おうと申し込んだようです」 「何という事を‥‥‥」 「扇谷のお屋形様は公方様と手を結び、管領殿を倒し、自らが管領になるつもりらしいですね」 「道灌殿がいなくなった途端に、今まで、ずっと敵対していた伊玄と手を結ぶというのか。その事を源六郎殿は知っておられるのか」 「まだ、知らないでしょうが、すぐに知る事となりましょう」 「源六郎殿がその事を知ったら、益々、お怒りの事じゃろうのう。いくら、お屋形様の命だとしても、宿敵であった伊玄と手を結ぶ事などあるまい」 「という事は、扇谷家に反旗を 「何という事じゃ。道灌殿が亡くなって、まだ七日しか経っておらんというのに、太田家は分裂してしまうのか‥‥‥」 「岩付の彦六郎殿はお屋形様に付いて行くのでしょうか」 「分からんが、お屋形様から太田家の家督を認められれば残る可能性はあるのう」 「そうですね‥‥‥」 お志乃が台所から覗いた。 「あら、お客さんですか。いらっしゃいませ」 「お邪魔しています」と風輪坊は挨拶した。 銭泡はお志乃に風輪坊を紹介した。 「まあ、駿河の国からおいでですか。どうぞ、ごゆっくりして行って下さい」 「店は忙しいのか」と銭泡はお志乃に聞いた。 お志乃は首を振った。「みんな、お茶どころじゃないみたい。心配そうに、お城の状況を見守っています」 「そうか‥‥‥」 「どうなるんでしょう、これから。町の者たちは曽我豊後守様というお方が、お城を若殿様から乗っ取ってしまったと噂しております。本当なのでしょうか」 「本当のようじゃのう」 「本当だったのですか‥‥‥どうして、そんな事に」 「分からん」 「それに、お城で 「戦か‥‥‥」 「また、戦が始まるのでしょうか‥‥‥」 「始まるかもしれん。しかし、この江戸が戦場になる事はあるまい」 「本当ですか」 「言い切れんがのう」 「お殿様はもういらっしゃらないし、戦が始まれば、ここも安全とは言えないわ」 「うむ。そうかもしれんのう」 「ごゆっくりして行って下さい」ともう一度、風輪坊に言うとお志乃は店に戻って行った。 銭泡は江戸に戻ってから城内の泊船亭には戻らず、お志乃のもとにいた。今、泊船亭には豊後守の家臣が入っている。泊船亭だけでなく、他の客殿に滞在していた客たちも皆、追い出されてしまった。使用人たちはそのままいるらしいが、太田家の侍たちは門番たちも含めて皆、根城からは追い出されていた。 「やはり、また、戦が始まるのか‥‥‥これからどうなってしまうのかのう」 「分かりませんね。ただ、道灌殿が生きていた頃の江戸には戻らないでしょう。豊後守がこのまま、江戸を守る事となれば、道灌殿を慕って集まって来た公家衆たちは皆、江戸を離れて行くでしょう。糟屋の城下のように、ここも寂れてしまうかもしれません」 「かもしれんのう。淋しいもんじゃな」 「銭泡殿はどうするのです」 「わしか、わしはもうしばらく、ここにいて様子を見ているつもりじゃ。万里殿の事も心配じゃしのう」 「そうですか‥‥‥」 「風輪坊殿はいつまで、ここにおるつもりじゃ」 「銭泡殿の身を守るのが役目ですからね、銭泡殿の身が安全と分かるまでは側におります。銭泡殿の身に何事かが起これば、お頭を初め、早雲殿にも顔を合わせられませんからね」 「早雲殿か‥‥‥今頃は駿河に向かっておるのかのう」 「かもしれませんね」 「それより、わしの命はまだ、狙われておるんじゃろうか」 「あの女、なかなか、しぶとそうですからね。そう簡単には諦めないでしょう」 「どうして、お紺さんが、わしの命を狙っておるんじゃろう。未だに分からんのう」 「銭泡殿が何かを知っていると思ってるんでしょう」 「その何かというのは一体、何なんじゃ」 「お紺に聞いてみるしかないですね。そう言えば糟屋にいた頃、お紺が会っていた怪しい商人がこの江戸にいましたよ」 「なに、本当か」 「確かです。あの顔はよく覚えておりました。目の下に目立つ 「何者なんじゃ」 「それが、円徳坊という山伏で、何と中道坊の配下だったのです」 「何じゃと、すると、お紺は中道坊の配下じゃったのか」 「という事になります」 「どうも、分からんのう。中道坊の配下という事はお屋形様の配下という事じゃろう。自分の配下の者をお屋形の仲居にしておくとはどういう事じゃ」 「道灌殿を殺すために入れたんでしょう」 「三年前からか」 「中道坊を使っているのは曽我兵庫頭です。兵庫頭がお屋形内の事を探るために入れたのかもしれません」 「派閥争いという事もあるからのう。しかし、そうなると弥吉はどうなるんじゃ。弥吉も中道坊の一味だったのか」 「その可能性もあります」 「となると、わしは何で命を狙われたんじゃ」 「分かりません」 「弥吉は死んだからいいが、お紺はまだ生きておる。もう二度と会いたくはないものじゃ」 「そうですか‥‥‥わしはもう一度、会いたいですよ」 「何じゃと」 銭泡は風輪坊の顔を見た。風輪坊は銭泡から目をそらして、床の間の方を見ていた。 「さては、おぬし、お紺さんの柔肌に魅せられたんじゃないのか」 「かもしれません。あの夜のお紺の姿が未だにちらついていますよ」 「いい 「右手に手裏剣を打たれたから、当分は現れないとは思いますが、油断は禁物です」 「やはり、夜に襲って来るんじゃろうか」 「あの女のやる事は分かりませんね。何か、とっぴな現れ方をするかもしれない」 銭泡は筆を持つと紙の上を走らせた。あっと言う間に、女の顔が現れた。 「お紺ですか」 風輪坊は銭泡の描いた絵を見つめていた。 「似ておるか」 「ええ、そっくりです。うまいものですね」 「お紺は簡単に描けるのに道灌殿は難しいわ」 「銭泡殿、これ貰えますか」 「ああ。欲しけりゃやるよ」 「いただきます」 「どうするんじゃ。それを人に見せて、お紺を捜すつもりか」 「いえ。そんな事をしなくても、ここに現れますよ。この絵は大事にします」 「ふーん。おぬし、余程、お紺さんに参っておるようじゃのう」 「自分でも不思議です。何で、あんな女の事が気になるのか‥‥‥」 「おぬしの力でお紺さんを救ってやってくれ。あんな世界から抜け出せるようにのう。おぬしなら、それができるじゃろう」 「はい‥‥‥」 「お紺さんはいい女子じゃよ」 「分かってます。わしはもう一度、城内の様子を調べて来ます」 そう言うと風輪坊はお紺の似絵を大切そうに持って出て行った。出て行く時、助っ人を駿河から呼びましたから、安心して下さいと付け足した。 「すまんのう」と銭泡は風輪坊の去って行った方に 風輪坊とお紺か‥‥‥なかなか似合っているかもしれんと思った。 銭泡は紙に向かって筆を持つと、しばらく、紙を睨んでいたが、一気に筆を走らせた。 入道頭の道灌が海を見つめている姿が現れた。遠くを見つめている道灌の目は何物をも恐れない自信に満ちていた。 銭泡は自分の描いた道灌の絵を睨んでいた。 まずまずのできだと思った。しかし、何かが足りないような気がした。何かが足りないが、それが何だか分からなかった。 銭泡は台所に行って酒を持って来た。山口の雪舟は酒を飲みながら、ひょいひょいと絵を描いていた。自分も雪舟の真似をしてみようと思った。
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